意匠を凝らした遺書 | 山本清風のリハビログ
 すりきりいっぱい。毒をひと匙、口に含んだまま嚥下しえないのは、水がないからだ。突発的に口に入れてしまった。衝動的。



 それにしても、今日び頓服薬って。と噴き出しそうになるのは、幾分ためらいがあるためだと思う。だがしかし、練炭・轢死・飛び降り・ライオンの檻に身を投じる・など自殺の手法は多種多様であり、服毒自殺なんてのは、しかも青酸カリなんていうのは農薬や砒素に比して平素、入手経路が限られているため、ほぼ百年前のトレンドですらある。
 という気がする。手に入ったから、飲んでしまったのかも知れない。薬品に限らず、飲んで害のありそうなものはそこいらにごまんとあるわけだから、青酸っていうのは何というか、信念がある感じがする。砒素カレーだって、本当は“青酸カレー”として想起されたものだったに違いない。信念を、持たねばならぬ。



“人間、死ぬ気になればなんでもできる”というのは本当である。
 自分は職を転々としてきたから解るのだが、例えば「今月いっぱいで退職だ」とか「二十五日までやれば終わる」と思うことで、心は軽く職務は割り切り快活にこなすことができる。人間ってのはみなさまが思っているよりも、限定的な生物なのである。それは無論、死という名の限定があるのは自明だとして、その実あまり考えないからメメント・モリは時折、凡庸なひとの心にも突き刺さってくる。
 要は、平素より考えていればよいのだ。



 また人間は「始まりがあれば終わりがあるように」と、けつを決めなければ動き出せない生物なのだ。小説家は締め切りがなければ一文字たりとも書き出せない。人間は書かされている、生かされていることを早急に理解すべきである。
 それゆえ死ぬ気になった時ひとは初めて、一ヵ年計画で複数の強姦殺人を企てたり、都庁で殺人ショーの実況放送を企てたり、或いは中央線のラッシュ時に電車へと飛び込むことを、企てることができるようになる。それは、平素にない集中力と企画力が最大限の限定から抽出されている、ということが云えよう。
 人間の記憶や五感が、無いはずのものを整合性を持たせるため“有るように知覚する”つまり擬似的に認識し補完するように、窮鼠が猫を噛むのならば人間は、神に逆らうとでも云ったらいいだろうか。(これが人間のsagaか)



 とそこで、死ぬ気になってやるべきことが反逆でしかないのか、と云えば決してそうではない。ただ自分はポジよりもネガであり、ビートルズよりもストーンズ、いやむしろドアーズなのであり、幸福に比して不幸で恋人に比し友人、友人に比して自分というわけで、いっそ孤独な身の上を思えば神を怨まずにはいられない、という次第なのであり。
 だから、死ぬ気になって行動する選択肢は無数にあるが、そもそも行動自体が他人にとり“役に立つことと、そうでないこと”のふたつしかない。とすれば、小心な自分としては道づれにしたい一人や二人いないではないし、むしろ誰だっていい気がするのだが、これすべての仮説は“自らの死を賭して”いるゆえのことなので、自分は信念を持たねばならない。でなければ、他人に失礼である前に自分に失礼であろう。



 時節柄、秋葉原の事件についても言及したいのだがみなさま、自分は現在服毒中であって、口腔尋常ならざる苦味に脂汗が滲み、水を求めてさまようも嚥下すれば今生ともおさらばであるから慎重になるし、このブログがじつは実況中継であり、かつSOSの一環であるということ、何人がお気づきであろうか?
 国はネット上の犯行予告に関して今後、よりセンシティブに対応するとのことであるが、ネット上に溢れかえる“自己殺人予告”に対しては、どのくらい敏感でいてくれるというのか。そもそも犯行予告自体、ネオ麦茶事件の際に熟慮すべきことではなかったのか。同時に、ネット規制の限界も知っているはずではないのか。
 とすれば、国が云っていることは口ばかりのポーズでしかない、ということであろう。


 件の事件についてもっと述べたいことがあるが、あるのだが、いかんせん身体中痺れてきたし、間違えぬようにキーボードを叩くこちらの信念、心意気をじつに褒めていただきたい。他人様に迷惑を掛けなかったと、賞賛していただきたい。このような晴れた日に独り、こんな場所で死にますが、光クラブの山崎晃嗣が遺書にて「貸借法、全て“清算カリ”自殺」との駄洒落を残して死んだことと、“青酸カレー”との駄洒落も相俟って自分となぞらえられること、しかしそれが、大して笑えぬうえに他人様のねたであるということ、幕引きのおちとして、ここに筆を置きたいと思う。





 しかし“凄惨カレー”ってのも思いついてしまったのだが。