影をふむぶむ | 山本清風のリハビログ
 私は将棋を覚えなかったのを後悔した。私は三国志を読まなかったのを後悔した。私は自動車免許を取得しなかったのを後悔した。私は地獄の底で後悔した。


 しかし本当に後悔したことを公開したくはないし、公開したことを後悔するのでは意味がない、無為だ。無為はひとの為ならず。つまり無為でいることは無害であることではなく、ひとへ伝播し私の許へと忠実に還ってくる鳩のような雉である。


 こんな記事は無為だ、いや無為ではない。無為という意味を記事にすることによってそれは平和の象徴にもなりうるあろう。それが伝播すれば世界はじつに平和になるに違いない。縁側で将棋を打つ記事を書こう。


 しかし私は将棋が打てない人間であった。今度は本当に後悔をした。後悔を公開もしたし、これに関しては後悔もない。将棋も打てぬ憐れな私を笑うひともあれば、そのひとも笑えるであろうし私も草葉の陰で喜んでいるであろう。いいひとでした。


 いいひと止まりでしたが。これでは後悔する、死ぬ前にどうにかしなければ。死ぬほど後悔する、如何ようにかしなければ。死ねば死ぬほどに後悔をする、いわんや死を公開するなどもってのほかだ。やめなさい、自殺など。


 思わぬところで道徳がでた、これはまさに瓢箪から独楽というものであろう。ピューリタンからエホバ。宗教論はよしておこう、いわんやキリスト教に関しては。自殺などしては五千度はある硫黄の炎に身を焦がされるであろうし、そのくらいなら恋の炎に身を焦がしていたのが懸命であろう。聡明である。


 しかしてひとは後悔をその意味にのみ結実させるだけがひとではないはずだ。そこは宗教的に信じてもよい、むしろ実行したい、実行しろ。改行もしろ、このくそぼけ。いまのは単に自虐であり、それによって傷ついたひとがいるとすればそれは簡単で、改行すればいいだけのことである。実行しよう。


 そうではなくて後悔なのだが、後悔を公開することには共犯意識を一方的に流布するテロリズムに満ちているのだが、これはもはや無意味なことではなく後悔など誰もが日常的に恒久的に発展のため後悔するわけであるから、これは先程言った無為にあたり無害ではない。だから人にこの記事を読むことはおすすめしないが、読まないで後悔するよりは読んで後悔することのほうがなんぼかよい。


 という、どこかで誰もが言ったとか言わぬとかそのようなことで文を結ぶということを、私が後悔しないのか、本当にこれを公開するのか、というのが私の目下の関心事である。ちなみに大航海時代をプレイしていないことは別に後悔していない。