『嫌われ松子の一生』もまた、以前採りあげた『致死量ドーリス』同様“女性の受動性”や、“条件反射としての保護色”が根底につねに流れている作品だと思う。
とゆうかすべての事象は“受動と能動”の関係、つまり性的ファクターで解き明かすことができるのだから、当然といえば当然だ。私は事実その思考のみで生きていたのだし、今日も今日とてどうにかこうにか生きている。幸か不幸かはひとにまかせるが。
ともかくとして色濃い“受動性と保護色”については実に趣きぶかいところがある。上のふたつの物語はこと女性のそれをうき彫りにするが、やはり本当にうき彫りになっているのは逆説として男性のそれに尽くすだろう。
『致死量ドーリス』の時にも触れたが、相手の理想になるドーリスごたる女性がいて、ドーリスたる女性のそのまたドーリスになる男性がいるわけである。これは日常的に頻発している二次的受動である。
例えば父親の理想の娘を演じている少女の受け口として、更にその少女の理想となる更に受け身な男性がいるわけである。いや、これはちょっとちがうか。“受動と能動の万能性を過信”しすぎた。いや、やはりおおむね合ってる。おおむねよし。
『嫌われ松子の一生』においては、女性たる松子は相手の理想形たるドーリスたらんとするが、ふり幅の大きい賭けにいつも負けているような感じでことごとく上手くいかない。しかし、それは常にブーイングの対象となるローキックであるからして、男性にはのちのちじわじわと効いてくるわけである。
松子から離れていった男性たちはその実、実に松子を忘れられず、その時点において松子に依存していることが判明するわけである。あるものは「松子は神であった」と思うに至り、あるものはまた死ぬまで松子の帰りを待ち続けるのである。
松子は得てして待つ子であったが、実はすんでのところでいつも辛抱が足りない。なぜ、どうしてとかなしい感じであるが、本当にかなしいのはすれちがってしまった待ちびとたちのかなしみなのである。
何億光年の孤独か知らないが、観ていて身につまされることもしばしば。もうちょっと待っとけよ、という感想を持つに至る。
しかし松子はいじらしいまでに待つ子ではあったが、実はドーリスではない。そのみっともないまでに人に愛されたい、という懇願は物語のなかにおいて再三に渡り語られる、家族という名の最初にして最大のすれちがってしまったかなしみだ。
踏みだした一歩を誤ったが故の孤独であって、シリアルキラー的犯行の愛されたいではない。その点において松子は“受動態と保護色”的観点からして凡才であり、ありふれた女性であることがいえる。だからこそ、全国ロードショーなのだ。
救いのない報われないような原作を、あそこまで魅せる工夫というのを仔細にこらしてなんとか人間どもを二時間、あの河川敷のシーンまでくくりつけた監督の手腕というのがあるとしても、である。
韓国ドラマでやったらば妙齢層から異様な支持を集めるのでは。