チャールトン・ヘストンがモーセを演じる映画「十戒」をご覧になったことがある方は多いだろうと思います。特撮で撮ったモーセが紅海を分ける場面は圧巻でした。しかし、これを歴史的事実として受け入れる人は決して多くないでしょう。実際、史実であることを証明することは現在のところ不可能です。したがって、聖書の記述を中心に議論を展開することにします。
世界人口の56%がキリスト教徒、ユダヤ教徒及びイスラム教徒であり(百科事典「ブリタニカ」年鑑2009年版「世界の宗教人口割合」)、キリスト教徒、ユダヤ教徒及びイスラム教徒は、旧約聖書を聖典、モーセを預言者として受け入れます。新約聖書以降は、イエスをキリストとして受け入れる救済がキリスト教の教義の中心になっていますが、旧約聖書でこれに匹敵するのは、モーセによるイスラエル民族の出エジプトです。ヨセフの時代にイスラエルの12部族の族長たちは、ゴシェンの地に定住し始めました(創世記46章28節)。当時、エジプトの地に入植したイスラエル人は、合計70人でした(創世記46章27節、47章1節、6節、27節)。やがて、イスラエル人の人口は激増し、エジプト人の人口よりも多くなり(出エジプト記1章7節、9節)、エジプト人は、イスラエルの強大化を恐れ、イスラエルを強制労働制度の下に奴隷化しました(出エジプト記1章11-14節)。
これに対し、神は、モーセにイスラエルを隷属状態から解放し、カナンの地に導くように命じました(出エジプト記3章6-10節)。イスラエルがゴシェンの地に定住した直後、ヨセフの死から出エジプトの約1年後までの間にイスラエルの20歳以上の男子人口は60万3550人に達しました(民数記1章46節)。この他に全年齢を含むレビ族男子が2万2000人いました。だだし、女子及び20歳未満の男子を成るレビ族以外のイスラエル人の総数は不明です。
聖書の年代記計算によれば、出エジプトは紀元前1513年に起き、40年間イスラエルは荒野を放浪し(出エジプト16章35節)、紀元前1553年にカナンの地に到達しました。同年代記計算に従えば、モーセの誕生は紀元前1593年、死は紀元前1473年です。モーセは、イスラエルがカナンの地に到達する直前にネボ山の上で死んだので(申命記32章49、50節)、イスラエルのカナン侵入は紀元前1473年と推定できます。
イスラエルは、不信仰のゆえに40年間荒野を放浪し(民数記略14章1-28節)、エフネの子カレブとヌンの子ヨシュアの2名を除いた20歳以上の全男子は約束の地カナンに入ることなく荒野で死に絶えると神は宣言されました(民数記略14章29、30節)。なお、女子及び20歳未満の男子はこの中には含まれません。
これに先立ち、神は、モーセを遣わしてイスラエルをエジプトの隷属状態から解放し、紅海を分けてファラオの率いるエジプト軍を壊滅させて救出しました(出エジプト記14章5-31節)。イスラエルの全民衆は、神を賛美し歓喜して踊り歌います(出エジプト記15章1-26節)。少なくともこの時点でイスラエルは神に信仰を置き、神を賛美、崇拝していました。
旧約聖書に信仰を抱く篤信な信者たちは、この物語をエジプトの奴隷としての強制労働から解放され、紅海で海を分ける奇跡を見たにもかかわらず、信仰を保てなかったイスラエル人たちを不信仰の最たる例に挙げて教訓として学び、自らは同じ道を歩まないようにと自戒します。篤信な信者たちは、自分たちは不信仰なイスラエル人とは異なり約束の地に導き入れられる種類の人間になり得ると考える傾向があります。
しかし、エジプトを脱出した20歳以上のイスラエル人の男子の数は合計約62万5550人でしたが(上記民数記略に基づく計算)、約束の地に入ったのはエフネの子カレブとヌンの子ヨシュアの2名だけで、残りの約62万5548人は荒野で死に絶えました。したがって、生存率は約0.00032%(31万2774分の1)と算定されます。篤信な信者たちは、32万分の1という過酷な生存率に直面してもなお自らの篤信と忠節で約束の地に入れるという希望を抱けるでしょうか?それとも、絶望感を抱きますか?
とはいえ、神にとってこれは程度想定済みだったことでしょう。なぜならば、イスラエル人がゴシェンの地で奴隷だった時に彼らの食生活は決して貧しくなく、差別虐待の対象ではありましたが、エジプト文明の食生活の恩恵に預かっていたと考えられます(民数記略11章4、5節)。聖書は、イスラエル人がエジプトで奴隷だった時に「肉、魚、野菜、果物を食していた」と記しています。有名なエジプト考古学者のザヒ・ハワス博士も「エジプト奴隷は過酷な待遇を受けていなかった」との見解を示しています。これに対し、イスラエル人は、出エジプト後の荒野では「マナ」と呼ばれる甘い樹脂質の食物のみを与えられました(民数記略11章6-9節)。イスラエルは、毎日毎日マナのみを食べていました。仮に信仰があってもエジプト文明の食生活に慣れていたイスラエル人にとって耐え難いことであり大きな試練であったことでしょう。また、荒野でのイスラエル人には水が不足していました(民数記略20章5節)。さらに、周囲には好戦的な異民族が多数住んでいました。すなわち、イスラエル人は、長年に渡り毎日同じ味覚のマナのみを食し(他の食材は皆無)、水は不足し、好戦的な異民族と闘いながらカナンの地に入らなければならなかった訳です。現在文明国で物資豊富で多彩な生活している篤信な信者たちが当時のイスラエル人を反面教師として異なる道を歩むことが可能であると安易に考えることはできないでしょう。
神の目的はイスラエルを一民族として独立させ、カナンの地を約束の地として住まわせることにありました。したがって、神は、約束の地の新しい社会的基盤を造るのに(神から見れば腐敗・堕落した)エジプト文明の思想や生活様式に慣れ親しんだ古い世代を残したくはなかったでしょう。すなわち、古い世代が荒野で死に絶えれば、エジプト文明の影響を除去して新しい世代が中心となったカナンの地の新しい社会基盤を造ることができたでしょう。
さて、聖書の年代記をエジプトの歴代ファラオの治世年代と照合すると、出エジプトが起きた紀元前1593年時のファラオを特定できます。ところで、1887年にエジプトで発見されたアマルナ文書は、アメンヘテプ3世及びアメンヘテプ4世とカナンの諸王との間の外交書簡であることが判明しています。アメンヘテプ3世及びアメンヘテプ4世の治世は紀元前14世紀中盤(紀元前1350年前後)です。アマルナ文書の中には、イスラエル人を指すと理解される「ハビル」がカナンの地を侵略しているとの記述があります(レムナント「考古学と聖書」:http://www2.biglobe.ne.jp/remnant/seisho3.htm)。聖書の年代記に従えば、イスラエル人のカナン侵入開始は、紀元前1553年ですから、アマルナ文書は、それから約200年後の外交書簡です。
とはいえ、ファラオの治世年代には異説もあり、考古学上の治世期間のみならず、各ファラオの治世中の事件及び治世の特徴から出エジプト時のファラオを特定しようと考えました。例えば、①約62万人のイスラエル男子奴隷を含む数百万人の群衆がエジプトを脱出し、紅海で600両の戦車を含むエジプト大軍が壊滅させられたことから(出エジプト記14章28節)、エジプトの国力が急速に衰退した可能性(聖書はイスラエル奴隷の人口がエジプト人人口を上回っていたと記述)、②ファラオが紅海で溺死したので、ファラオの治世が短期間又は突然終了した可能性(出エジプト記14章)、③出エジプト記のファラオの異常な頑固さ及び強情さから英雄的軍人であるか有力な宗教的指導者であった可能性が高い、等。いずれにしろ、モーセによる出エジプトは、アメンヘテプ1世➔トトメス1世➔トトメス2世➔ハトシェプスト➔トトメス3世➔アメンヘテプ2世➔トトメス4世➔アメンヘテプ3世➔アメンヘテプ4世の9名のエジプト第18王朝のファラオの治世のいずれかで起きたと推定されます。
ちなみに、エジプト第18王朝の4人のファラオ・・・トトメス1世、2世、3世及び4世の名前トトメスは、Thutmoseと綴ります。Thutmoseは、Thut+mose(“Born of Thoth”)であり、Mose(モーセ)と同じ名前を含んでいます。ところで、トトメス1世(ThutmoseI)の後継者になるはずだった王子にAmenmose(Amen+mose)がいます。しかし、エジプト史上、Amenmoseはトトメス1世(ThutmoseI)よりも早逝しトトメス1世を継いでファラオにはなりませんでした。興味深いことに、Amenmoseの1人の兄弟の名前はWadjmose(Wadj+mose)です。そこで、名前の類似性から考えても、Mose(モーセ)がエジプト第18王朝の王子の1人だった可能性は非常に高いと考えられます(出エジプト2:10-15、ヘブライ11:23-27)。
第一に、アメンヘテプ1世は、カルナック大神殿を建立し死後に神格化されたことから強い宗教的色彩を持った指導者ではありますが、出エジプト記に記された数百万人の奴隷に逃亡され戦車600両を含む大軍を失った大失態を犯した指導者が神格化されたとは考え難いことから該当しないと考えます。なお、彼は、優秀な官僚制度や軍事制度を制定した業績があることからも出エジプト記に描写される強情で愚鈍なファラオというイメージには適合しません(以下Wikipediaを参照)。
第二に、聖書の出エジプト記の描写からファラオが女性だったとは考え難いので、女王ハトシェプストは除外します。ハトシェプストは、エジプト史上唯一の女王であり、出エジプト時のファラオが女王であれば、当然出エジプト記にそのことに関する言及があると考えられます。
第三に、出エジプトからイスラエル人のカナン侵入までは40年間あり、アマルナ文書の描写はイスラエルの侵入から相当時間が経過したことを示唆しており、アメンヘテプ3世及びアメンヘテプ4世の統治期間の合計が約55年間であることを考え合せると、アメンヘテプ3世及びアメンヘテプ4世は該当しないと考えます。
第四に、先代のアメンヘテプ2世が軍事的偉業を達成し、アメン大神殿を完成させたために、トトメス4世の治世はエジプトがほぼ軍事的・宗教的目的を達成して安定した時代であり、トトメス4世は、特筆すべき軍事的・宗教的業績もありません。要するにトトメス4世は、強力な軍人でも有力な宗教指導者でもありませんでした。したがって、トトメス4世の治世の政情も人物も出エジプト記のファラオを示唆しないので、トトメス4世は対称から除外します。
これで消去法により残ったのは、トトメス1世、トトメス2世、トトメス3世及びアメンヘテプ2世の4名です。①トトメス1世は、アメンヘテプ1世の共同統治者として統治実績を積みました。彼は、アメンヘテプ1世の血縁上の息子ではなく軍人出身であり、治世がわずかに12年間と短い割には、多数の戦争を行っています。しかし、トトメス1世の単独統治期間は、約6年程度しかなかったようです。②トトメス2世は、統治期間が短く、非常に病弱で早死にしています。また、トトメス2世は、異母妹のハトシェプストと結婚してトトメス3世を産んでいます。本来、トトメス3世がトトメス2世を継ぐはずでしたが、トトメス2世が早死にしたので、継母ハトシェプストがエジプト史上唯一の女王として後を継ぎます。③トトメス3世の治世前半は、継母ハトシェプストとの共同統治であり、治世後半は積極的に外征を行って軍事的偉業を達成してエジプトの最大版図を達成します。なお、継母ハトシェプストとの共同統治期間を除いた単独統治期間は約30年以上もあります。④アメンヘテプ2世は、優秀な軍人、強力な戦士及び弓の名手として知られ、軍事的偉業とともにアメン神殿を完成させました。アメンヘテプ2世は、強力な軍事指導者かつ宗教指導者でした。しかし、治世の初期を除いては平和な治世として知られ、内政でも成功を収め、統治期間も約30年以上あります。
思うに、エジプト人を殺した後40年間モーセはミディアンの地で逃亡生活を送りましたが(出エジプト記2章13、14節)、上記エジプト第18王朝のファラオ中40年以上統治したのはトトメス3世だけです。これはモーセを追っていたファラオが長期間統治したこととも一致します(出エジプト記2章23節)。しかし、モーセを追っていたファラオをトトメス3世とすると、次のアメンヘテプ2世の治世も約30年以上あるので、年代記的には整合性がなくなり、出エジプト時のファラオをアメンヘテプ2世と解することには問題があります。
一方、トトメス1世の統治期間は約12年ですが、父アメンヘテプ1世の統治期間を加えると約40年間になり、出エジプト記2章23節と整合するようにも思われます。すなわち、アメンヘテプ1世とトトメス1世は共同統治者であった期間があるので、トトメス1世はアメンヘテプ1世のモーセ追跡の遺志を継いでいた可能性もあります。また、トトメス2世が早死にしてトトメス3世が後を継げず、継母ハトシェプストがエジプト史上唯一の女王として後を継いだ経緯の不自然さを考えると紅海で死んだ出エジプト時のファラオはトトメス2世である可能性が高いように思われます。ただし、トトメス2世は、出エジプト記のファラオの異常な頑固さ及び強情さが示唆する英雄的軍人又は有力な宗教的指導者ではありませんでした。ただし、状況証拠は、トトメス2世自身は非常に病弱であっても、妻ハトシェプストがトトメス2世のイスラエル民族の処遇に関して大きく影響を与えていた可能性を示唆しています。
すなわち、①トトメス2世の妻・異母妹ハトシェプストはトトメス1世の唯一の嫡出子であったことからトトメス2世に妻ハトシェプストに対する特別な遠慮があった可能性があること、②ハトシェプストは後にエジプト史上唯一の女王になったほど強気で野心的な女性であったから、トトメス2世にイスラエル民族に対して容赦ない強権発動を促した可能性があること、③イスラエル民族の処遇に関してトトメス2世にハトシェプストが強く干渉したことから、トトメス2世がイスラエル民族に対して容赦ない強権を発動し、父トトメス2世が紅海で死にエジプト軍が壊滅したとしたら、一部始終を見ていた子トトメス3世が母ハトシェプストに遺恨や復讐心を抱き、後にハトシェプストの事跡や名前をすべて記録や彫像から削除・抹消した事実と辻褄が合うこと、等の推論が成り立ち得ます。以上のことから、トトメス2世の統治期間中にイスラエルの出エジプトは起きた可能性が高いと思われます。なお、イスラエル民族の指導者としてエジプトを脱出したモーセもエジプト史に不都合な人物なので、トトメス3世がハトシェプストの事跡や名前をすべて記録や彫像から削除・抹消した際に、王子としてのモーセの名前も記録もすべてエジプト史から削除・抹消した可能性があります。