『君がいた夏』~時間に対して無力な人間~
本日は第一回ということでミスチルのメジャーデビュー曲である
『君がいた夏』を取り上げてみようと思います。
人は時間の流れに対して以下に無力であるか考えさせられる詩です。
人間の哀愁は常に過去形で表現されるのかもしれません。
過去の自分に会うことも、過去の他人に会うこともできません。
ただ過ぎ去った過去を振り返り、今の自分に消化することしか
できないのではないかと思う。それをすることで初めて過去を
許せるし、認められるのだと思う。
反対にある過去は本当にきれいなものであることがある。
それは恐らく、自分を正当化したい、今の自分を認めたいと思う
そんな思いが人間の中にはあるのではないか!?
後悔する過去もきれいな過去もともにリアリティーはある。
しかし、それはあくまで今の自分にとってである。
もしかすると、思いが自分の中で強くなりすぎて真実とは違う
記憶が残っている場合がある。
だから、もし過去に未練や後悔、そして美があったときその過去を
共有してみると違うリアリティーの中で違う過去が見えてくるかもしれない。
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夕暮れの海に ほほを染めた君が 誰よりも 何よりも 一番好きだった 二人していつも あの海を見てたね 日に焼けた お互いの肩にもたれたまま 一日中 笑ってた キリンぐらい首を 長くしてずっと 待っていたのが まるで夢のように また夏が終わる もうさよならだね 時は二人を 引き離して行く おもちゃの時計の針を戻しても 何も変わらない Oh I will miss you 君と出会ってから 何も手につかずに 意味のないラクガキを 繰り返しているよ 誰よりも早く 君を見つけたくて 自転車で駆け抜けた 真夏の朝早く 波打ち際たどって 秋が来れば僕ら また元の場所へ 戻ってくけど 気持ちはこのまま また夏が終わる もうさよならだね 時は二人を 引き離して行く 言葉にできずに そっと離れても いつか この胸に Oh I will miss you ひまわりの坂道 駆け降りてく君が 振り向いた あの空の 眩しさが今でも また夏が終わる もうさよならだね 時は二人を 引き離して行く おもちゃの時計の針を戻しても 何も変わらない Oh I will miss you |
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『また夏が終わる もうさよならだね』という部分から推測すると
両方とも既に生まれ育った地元にはおらず、毎年夏限定で海の
見える地元に帰省してきて、その時にだけ本当に大好きな彼女
と会えるそんなやるせなさと、あったときの嬉しさを対極的に
歌ったものではないか。
夕暮れの海に ほほを染めた君が
誰よりも 何よりも 一番好きだった
二人していつも あの海を見てたね
日に焼けた お互いの肩にもたれたまま
一日中 笑ってた
キリンぐらい首を 長くしてずっと
待っていたのが まるで夢のように
この部分はいかに彼女が好きか、いかに彼女と
すごしている時間をかけがいが無くてすばらしいもの
であるかを思い出している、感慨に耽っている感じです。
また夏が終わる もうさよならだね
時は二人を 引き離して行く
おもちゃの時計の針を戻しても
何も変わらない Oh I will miss you
そして、その大切な時間ももう終わりに近づき、『時間』
という邪魔者がこんなに思いあっている2人を引き裂く
悪者として擬人化されています。
その絶対に勝てない悪者『時間』に対して微力ではあるが
精一杯の抵抗として『時計の針を戻して』見るが無残にも
タイムリミットが過ぎてしまうそんな悲しさが伝わってきます。
この歌に限らず桜井さんの歌詞を聞いているといつも思うのですが
詩の中に必ず大きな哲学的なテーマと、リアルな現実を巧妙に
表しているような気がします。
この詩はまさに『時間に対する人間の無力感』を歌っていてそれを
恋という一番わかりやすい擬人化をしているのだと思います。
哲学を難しく語るのではなく、彼女の細やかな仕草、そして
それをつぶさに思い出す(もしくは思い出せる)男の女々しさ
見たいな切り口で上手く表現しているのだと思います。
初期の曲ということでそれほど音楽の質としてはまだまだ
高くないアマチュア的な匂いもするこの曲ですが、今に至るまで
引き続くその桜井’フィロソフィーとその表現方法は今聞いても
全くレベルの低くない、もしくは他の作詞家を圧倒するような才能
が見え隠れします。
初回はこんな感じです。皆さんの意見も是非聞かせてください。
~君がいた夏~