アメリカの現代文学の某巨匠は高校時代に書いた作品で華々しく文壇界にその名を知らしめ…られなかった。彼は最も多感な時期に大きな挫折を味わったわけだが、この経験が後の彼の作品と人生にどのような影響を及ぼしたのか、憶測は出来るがそれは無粋な行動である上に今日のテーマとは関係ないため、ここでは控えよう。

 生きることと趣味は大して変わらない

 その作品には曖昧だがこのような台詞が記載されていた。彼が言うには、人は生きることを趣味のレベルにまで還元しながら生きているわけだ。自分でも何をやっているのかよく解らないまま、生きていることを忘れさせてくれるものにだけ自分を見出して、気づいたら死んでいる。重要なのは死ぬことを忘れさせてくれるものより生きていることを忘れさせてくれるものの方が人は好むということだ。
 何かに夢中になり、人生を捧げてまで何かを遂行するということは大変素晴らしい。大変素晴らしい人生の忘れ方だ。もちろん私も一生懸命に趣味の段階にまで私の人生を引き下げている。
 こうしたことが問題だとはさして思わないが、このことを問題視し、原因を探ろうとし、現代社会または余剰が増大した社会のしわ寄せだと結論付けることには些か煮え切らない気分である。人は暇を持て余したから趣味を遂行し人生を忘れる、という考えは時間に逆らった不思議な帰納法的結論である。ときには、しわ寄せどころか社会問題の原因として扱う者もいる。
 こうした方たちには残念だが、趣味の問題に対する解決策というものは「非」意味である。軽率な言い回しをすれば、「人間」がこの「世界」に「存在」する故に非意味になってしまうのだ。人が「個」と「大勢」を認識した瞬間、つまり人間の「世界」が人の手による「労働」と「仕事」によって造られた瞬間からの単なるルールなのだ。
 おそらく、アメリカ人のこの作家も趣味の問題を世間に問題視して欲しくてこんなくだりを著したのではないであろう。「否定も肯定もしないが人はどうやらこのように生きている、気づく人だけ気づけばいい、ただし判断はするな。」問題は単純なのに、人間の結論を出したがる性質が、逆に盲目にさせる。人間の判断というものは永遠にされなくてよい(これは信仰の話ではない)。それは美学であり死した哲学を生き返らせる方法のひとつである。