こんばんは。



今日は、というか最近考えさせられたことがありました。


親しい友達になると、突然態度が冷たくなる人っていますよね。

そういう人は嫌だな。なりたくないな。


ぼんやり思ってました。



でも、きっとそういう人は、親しいという距離感に、相手に安心して甘えているんだろうなと思うのです。

相手は私を嫌いにならない。こんなに親しければ嫌われない。


無意識でしょう、きっと。

だから自覚がなくて、傷つけてることに気付かなくて、余計たちが悪い。





私でした。

なりたくない、なるわけないと思っていたものにいつの間にか成り下がっていた。





親友には、幼馴染にはたぶん、そういうことしていないと自負していたし

どうして攻撃的なことを言ってしまうのか、わかっていない。





けど、私。

たぶん、その差は文面上でしか話せない、SNSならではの現象な気がしています。

顔が見れないから、顔が見えないから

つい言葉がきつくなる。言いたいことをスパッと言えてしまう。

遠慮がなくなるのだと思います。


顔が見えるといったとたんに相手の表情で反応が分かる、

否定されるのが怖い、といった自制が出る。


けれど、文面だけなら、リプでなければ

ただ自分は思ったことを適当に並べているだけに過ぎない、別段その人に対しての発言じゃない

と言い訳を並べて攻撃できる。

それでその人が何を思うのか、どう感じるのかを考えることを放棄して。




考えて話すって、そういうことなんですよね。

自分の思いをまとめる、うまく伝える。それだけじゃなくて

聞いた相手がどう感じるのか、どう受け取るのかも考えて

傷つけているのか、それによって自分はどう思われるのか、どういう関係になるのか。



SNSは後に残る、もちろんツイートは消せる。けれどそういう問題ではないのです。

文字としてそこに投降した時点で形にしてしまった時点で、自分が思う以上の責任が伴う。


そう思うのです。




相手に甘えて、SNSという場所の言論の自由に隠れて

卑怯に、それでいて無自覚に傷つける。




たしかにつぶやくのは自由です。

発言することに何の問題もありません。

それを咎める権利は誰にもありません。



しかし、だからといって他人を貶める権利はありません。



顔が見えないから気持が大きくなるのもわかります。

他人の価値観のみの無責任な発言に苛立ち、正論を突き付けたくなる気持ちもわかります。


けれど、それは結局自分の都合でしかないのです。


その正論は他人からすれば間違っているかもしれない。

他人の発言に苛立つのと同じように、また自分の発言を見た別の誰かが苛立っているかもしれない。

自分を否定されたと傷ついているかもしれない。





たしかに、SNSは便利ですよね。楽ですよね。

けれど、だからこそ

便利なものを利用するならば、相手を思いやる気配り、想像力が必要です。

現在は様々なネチケが叫ばれていますよね。


それよりも、何よりも。

根底にある一番ないがしろにしてはいけないこともあると思います。





このブログも一個人の価値観でできた狭い世界です。

けれど、不特定多数の人が見ている可能性はあるのです。

その不特定多数の人に受け入れられるものなんてないです。

それでも、配慮することはできる。






友達に甘えて心無い文面で無自覚に多少であるとしても傷つけた私が言えたたちではありませんが、少しでも自分の発言に責任を持っていければなと思います。



誤った今でも、消したあの時でも

発言したあの時には戻れない。

いつまでも罪悪感が残っています。





たびたびの発言で失ったものをこれから少しでも

気休めでも、一から取り戻していければと思います。