欺瞞を渡し正義に変えよう。
測るとはいっても、必ず久世さんのほうからの仕掛けを待つ必要はない。
木刀の切先越しに見る彼女の目は油断なく僕を見据え、さらに迷いはない。やはり、先手か。
彼我は十メートル、歩数にして約八歩を――二歩で僕は肉薄した。最後に踏み込んだ左足でトップスピードにのりそのまま右手だけを真正面に振り下ろすことでそれを可能にした。半身であるから背中側である右へ逃れるのを警戒していれば問題ない。片手を抜いた片手面――
しかし、彼女はこの絶妙な速度にもまったく驚いておらず、むしろ笑みを浮かべると――
その一瞬、久世さんの姿が消えた。いや、まるで笑みが残像の尾を曳いてどこかへきええたかのような。青い輪郭を残して見失っ――
「遅いな不正解」
目を集中して視覚を広げると一瞬前を走る彼女の金髪と、僕の左横からの警告が響く。
左横、つまり真正面。ざわざわ回避位置の背中側ではなく、しかもまったくのノーモーションで僕に知覚できないほどの速度で移動してきた。
「っ!」
前に振り下ろした木刀の軌跡を握りの力を変えて無理やり真横になぎ払い、腕を交差させ、右足を踏み込み彼女へまた肉薄する。
そして木刀が彼女の左腕に当たるその刹那、またそこから彼女が「いなくなる」。
「――またっ」
だが見失ってはいない。円形を描くように今度は背後へ回っていた。後ろに彼女を見、交差した腕から木刀を逆手に持ち変え、回転と遠心力、左の踏み込みの威力を乗せて大上段から打ち下ろす。拳法なら開打という両腕を左右に打ち下ろす動作だ。
さすがにこれは避けられなかったのか、依然正眼の構えをしていた久世さんは初めて木刀を寄せ受け止めた。腕に伝わる衝撃に自分で呻き、だが久世さんは無表情で顔色一つ変えない。あの移動をして息ひとつ乱していなかった。
だがそんなことに驚いている暇はない。この異常な速さは「やられる」速さだ。こちらの決め手が必要。
衝撃によってぶれた握りの空きを利用して木刀を脇に寄せ、地を這うように体を沈ませ回転して足を交差。それを維持したまま、右手を木刀の先端、左手を柄――一本の棒に見立てて――彼女の胸に向かって突き出した。腕の捻りと旋回の膂力が最大の速度で突き出される。
自分でも納得の最速の突き。
手に衝撃が来るのと、最後に踏み込んだ足に続いて地に着いた右足の音が高らかに聞こえたのが同時。だが、久世さんはその威力と衝撃を、木刀を胸の前で立て、「刀の腹」という極小のスペースを両手で前に出しただけで防いでいた。
正直有り得ない、と一瞬硬直する。あの旋回力と突きにしても真正面から受け止めたら吹っ飛んでもいいものを――彼女は飄々とした表情で当たり前のように曲芸のような受け止めをやってのけた。
純血云々以前に何かがおかしいと冷静さを欠いているとこを――つかれた。僕の木刀を刷り上げながらまるで最初から目の前にいたかのように、息がかかるぐらいの距離に瞬時に移動、僕の木刀を持っている左右の腕に自身の木刀を腕ごと入れてくると両手の五指を伸ばし――、やばいと思った。だから思わずやってしまったのだろう。片手をはずし久世さんの木刀を掴んでいた。
あとは目視できたのはそこまでだった。視界が一八〇度まわり、さらに九十旋回。天井越しに久世さんの端正な顔が降ってきた。衝撃で脳みそが揺すられ、眼球が安定してようやく咳き込む。
僕は地に伏して、久世さんが上から僕の木刀を利用して僕の首を押し込み、片手を首の傍を指差すように地に着けている。
――そして、吹っ飛んだ久世さんの木刀が地に着くと、僕の抜き手の拳が彼女の鎖骨直前に止まるのも同時だった。
久世さんは心底楽しそうに笑い自身の吹っ飛ばされた木刀と僕の反撃の拳を交互にみやった。というかまるで金の垂れ幕のような彼女の髪が顔にかかってくる。ていうか痒い、ていうか何気にいい匂いつーか早くこの絞め技といて欲しい、どうなってんだこれ。首だけ絞められているはずなのに全身動かない。
彼女の金髪が舞い、ほう、という感嘆の声が聞こえ、ようやく僕を解放する。僕は頭を振りながら首を押さえ立ち上がった。
「やるじゃん。僕の移動が見えなかったにしては反応が早い。それに最後。木刀吹っ飛ばしたやつ。単純な技じゃないな。お前、持ってるのか?」
……思わずやってしまったけど。そういう久世さんもその「持っている」んじゃないだろうか。
「……持ってるって、何を?」
それもわからんのか、といった表情で、ほとんどすすり足で一瞬で元の位置に戻り、木刀を拾う。もっともここで言ってもいいだろうが僕自身確信がない時点で言うのはどうかと思っただけだ。
速い。
それだけじゃなくとも技術も自分より上かもしれない。
先の突進のあと、ソックスのままで、正面に回られ、さらに返し刀も回避どころか真後ろに移動されている。そしての状態で攻撃せず、僕の槍術の「拏」――揺れと刺突の一撃を完璧に殺していた。そしてそのまま逆腕絡みだろうか、木刀を利用して体を吹っ飛ばされた感じだ。その直前に僕は彼女の得物を飛ばして反撃の拳を上げていたが。
速さと経験、か。いやその持っているというものの威力か。
「はあー、ここまでやるとは思わなかったわ。うん以上これで終わり。これだけできりゃ大丈夫だろ。あとはまぁ、補足説明しとくな」
さばさばとした言動でとっと木刀を壁の元の位置に戻すと、さっさと元のソファに腰掛けてなんだか深い溜息をついた。見た目、少女だが意外に苦労人なのかもしれない。
僕はそのまま木刀を道場の壁に立てかけるとソファの前にまた正座するのも、試合した後になんだか違和感があったのでそのまま壁に背を預けて腕を組んだ。
「ティーア系ってのはそのありえない異常な身体能力でちょっと工夫すれば別の武器を持てるようになる。武器、というとちょっと語弊があるんだが、ま、蓮桐みたいなのはあそこまで行くとありえないな。人間の域を超えてるって感じ」
ありえないことを起こす。先の不可解な移動術だろうか。とはいってもなんか道具を使うのか、それとも体術の一種なのか。
「例えば僕の場合は音だ。というか、全員この音というものを基礎にしている。例えば、」
ソファから下ろした彼女の右足がトンっ、っと軽く静謐な床を叩いた、
「え、」
そして――なぜか左足から力が少し抜けた感じがした。
「お前物理学は学んだか? 波動力学とか僕のはその辺だ。主に自己臨界性ってのが根底にあるんだがそれもレンに聞け」
つまり――音を工夫して幻覚とか身体を狂わせるというところか、大雑把に言えばだが。有り得ない、わけじゃない。僕らの人種は生身でそういうことをやるからこそ今でも繁栄しているのだろう。……聞いた話、戦争の要員として、らしいが。
「詰まる所、これは徹底した科学理論に基づいた戦闘方法なのさ」
そう言ってソファから立ち上がるとまた金の残滓を残して一瞬で僕の横に現れた。そして静かに道場の壁に瀬を預ける。
移動による風すら起きない。衝撃すら感じない。気配すら皆無。
これが科学だって?
ならば消える瞬間には何かあるはずだ。予備動作、いや、予備反応。
「実を言うと法化制圧部のみが全員行える。そして全員が全員それぞれ独自の理論に基づいて様々な事象を起こすことを『目標』としているんだ」
そう言うと、わずかに背を壁から離すと、
久世さんの目が細まり――金髪が翻った。
聞こえた。右足が五回、ムクドリが鳴くような小さな『音』。
「――振動」
いつのまにかまたソファの定位置に収まっていた久世さんは、緩やかな髪を直しながら僕の呟きにちょっと驚いたようにみせた。
「ん……。まぁ正解? かな。これに限れば僕は空間を振動させ気流の流れを作り主に移動を早くすることに使用している。幻覚とか感覚とかはただの副産物だ。もっとも、ここまで使うのはそれなりに訓練は必要だけどな」
音によって空気を振動させ、それで足と地の摩擦係数を減らしていたのか。それ以上に空を飛ぶように鍛錬されていたけど。空気中に振動が多いと熱流が生まれて揚力が発生する。
「出鱈目、というか確かに普通じゃできませんね。それをやってのけるっていうことは……」
「まあな」
それを言ったら僕のやった「あれ」も出鱈目なのだろう。彼女のようにわかってないだけ始末が悪いというか。
久世さんは誇るわけでもなくそれで終わりだという感じで、ソファの下に手を突っ込んで魔法瓶らしきものを取り出してカップも取出し、まだ湯気の立つお茶を注いで、一口飲んで深々と溜息をつく。
至福の顔を見ていると本当にそのままにしていれば歳相応で可愛いのに、と思った。
しかしそろそろ道場の使い方について説法したい気分になってきた。
「普通じゃできない、でも僕らには出来る。だからここにいるんだろ。出来ないから、それがどうしたっていうんだ? 出来ないなら、出来るようにすればいいだけだ」
ここにいる、か。僕はもっともっと別の意味でここに来たのだが。ただあの家が嫌いで、ただ確かめにここにきてしまったにもかかわらず、ここに居ることが安心してしまっているということを自覚していた。
普通であることが普通であった外とは違い、普通ではないであろうとしているこの場所を。だけど。
僕はただ護りたかっただけのはずだ。教師だろうが兵士だろうが自分らを、国を、ティーア系という人種を、彼女を護るということをしたかったはずだ。
人種なんてどうでもいい。父親のことなどどうでもいい。ただそれだけで僕の世界は完結していたのに――あの家の実態を――知ってしまった。
彼女を知ってしまった。彼女たちを知ってしまった。
「おい、お前って、なんでここに来たんだ?」
久世さんは興味があるのかないのか、肘がけに顎を乗せてカップを揺らしながらどうでもよさ気に聞いてくる。
「それは――、確かめるため。ですよ」
確かめる、ねえ、と彼女は反芻する。
もっとも軍関連に放り込まれるとは思いもよらずだ。
「まあそれじゃあ、せいぜい確かめるように頑張れ。とりあえず僕の仕事は以上だ。そんで時津彫君にはやってもらうことがあります」
「は?」
いきなり女性らしい言葉になったので僕は驚いて彼女をみる。
「これを渡してきてください」
僕は壁から背を離して近寄り、久世さんがだるそうにスカートのポケットからだした三つの手帳を見た。黒皮でいかにもな感じ。受け取って開いてみると顔写真付きの、身分証明証? か。
名前は蓮桐彩夏に高杉謙一、それに蓮杖祀。蓮桐は確かにさっき見た黒髪の刀女と同じ。だが高杉というのはずいぶんと軽そうな、東京北部近辺にいそうな顔だった。
件の蓮杖祀は久世さんと同じ金髪で十二歳程度の姿容姿。ぜんぜん違うじゃん。
「法化内のIDカードだ。トーラス内のパスも兼任してる。更新したんだけど渡すのだるくてね。彼らの端末の位置はGPSからわかるから位置情報、お前のPDAに送信しておいたから。会いに行ってな」
にこりと微笑む久世さん。天使のように綺麗だが腹はドス黒い。つまり顔合わせと仕事放棄ができて一石二鳥ってところか。
「わかりました。あ、そういえば。迎えの女性って久世先輩だったんですか?」
うんっと頷くので疲れる。予め電話ぐらいほしかった。
僕が手帳をポケットにしまい、荷物を背負おうとしたとき、
「なあ」
久世さんが声をかけてきた。
「お前さ、『本当は何をしにここに来たんだ?』」
僕は息がつまり、ずっと聞こえていたはずの蝉の鳴き声が耳に流れ込んでくる。
「僕は――解放しにきたんですよ」
そう言った。だけど久世さんは誰を、何をとは言わなかった。面白そうに白い肌を変えて僕に言う。
「そうかい、せいぜい頑張れ」
僕も少し笑ってしまう。僕だってどうせ出来やしないと思っているんだから。
「お前は……蓮桐と同じ黒髪だ。何かあるかもな」
久世さんはそういってまたソファにねっ転がってしまった。
* 0/1
なにやら彼女は他に言いたいことでもあるらしい雰囲気だというのに僕が何か言ってもああ、とかうん、とかの生返事だけで多少言葉を交わした後すぐに黙りまた読書に戻ってしまった。ちなみにほんのタイトルをちら見したけど『恋は決闘―居城編―』。
どんな本だ。
とにかく、届けろ、ということは後は他で聞けという意味でもあるだろうし、顔合わせとけという意味でもあるだろうから、僕はさっさとバッグと刀を背負う。僕としてもこれから一緒に行動する人たちに興味がないとは言えないのでその機会があるならむしろ積極的に受けたいところだった。
むしろ情報漏えい―だと思うのだが―の有無の確認と適当な現在のトーラスのあり方をぐだぐだと話した彼女に対しては本当に仕事しろよと言いたい。あとは他メンバーに丸投げってなぁ……。僕にはどっちでもいいことだけど。
「あ、そうそう。これから色々面倒になるだろうからちゃんと他のメンバーに聞いとけよ。仲間なんだからな」
「仲間、すか」
僕の気の抜けた返事に、久世さんは嫌らしい笑みを浮かべてこちらに顔を向けて言う。
「そう、仲間。言ってなかったがそんでここが拠点、つーか駐屯地。一応この学校も学校の体裁を整えてるが僕らの拠点なんだ。外見だけ学校なのは第五区大学校が廃止になって隣の第六区大学校に再編されたためなんだが。出来たばっかで打ち捨てられたみたいなもんだが、一応この学校は防衛拠点に近いし、色々便利なんだ。後で暇あったらみとけ」
僕は肩を竦めて頷くと僕は改めて道場を見渡した。
本当に誰もいない無人の学校だったのか。しかしここまで生徒の受け入れの準備が出来て廃止とは。なんだか嘘臭いと思ってしまうのは勘ぐりすぎだろうか。むしろ接収という感じがしたけど。
すでに僕がしまった壁にかけてある木刀と竹刀を見る。あまり道具や屋内にしてもほとんど使われていない。
「ん? あんま心配すんなよ。作戦司令室とか奥校舎にあるけど、そこは夢の島のように散らかってっからさ。あとで掃除よろしく」
「いやよろしくじゃなくて……」
僕はとりあえず今の段階で聞けることを聞いておこうと思った。
「えーと……。本当にここが軍の駐屯地として使われてるんですか? 学校が?」
「学校のほかに何に見えるんだよ。そうだよ、さっき言った通り軍、ていうか法化の待機所みたいな風になってる。言っとくが、トーラスの警備隊と法化はまったく別の所属でその働きも違うからな」
警備隊とは軍務庁の直轄するこの都市の警備、つまりいってみれば軍隊のことで、その下に警察と警邏という機構がある。軍隊と警察機構が一緒くたになっているのは都市ならではなんだろうとは思う。
「さっき法化制圧部は軍務傘下って言ってませんでしたか?」
「そうだったか?」
なんだかこの白々しい澄まし顔も様になっているので腹も立たないのが不思議。
「……なんにも武器らしい武器が見当たらないんですが。銃とか装備とか……」
「まあ、それも個人個人によるしなあ」
「……」
個人個人……。戦争してるのに一人で特攻でもしろというのだろうか。そんな僕をみた久世さんは今日何度目かの溜息を付いて、
「さっきも言ったろ。戦争してっけどさ、実戦らしい実戦もない。どっちかっていうと迎撃戦っつーか、まあそのうちわかる」
大雑すぎだ。この人。
さっぱりわからない。つまり大きな敵は洋上で潰して撃ち漏らしたのは僕らで白戦しろってことか。
先の試合で純血の異常な身体能力とその「科学」とやらに基づいた力は目の当たりにしたけど、それで戦車とかを相手にしろとでもいうのだろうか。
いや――もし法化制圧部という組織が少数精鋭なら――相手も少数精鋭なのではないだろうか。とはいってもそんな小隊にしても銃の一つや二つおいといていいものだろう。
「まー、いろいろあるだろうけどさ。あとは特にレンに聞くといい」
そこで本で口を隠した格好の久世さんの目がすぼまる。
「お前と同じだしな」
「は?」
先と同じ言葉。何が同じだというのだろう。いちいち意味深げだがなんだか聞くのを躊躇してしまう。
あ、いや、と久世さんは言葉を濁し、わざとらしい咳払いをした後重箱のような注意事を言い出した。
曰く、ここは軍だが階級関係は中央だけで末端はほとんどない実力主義だから緩くやっていい、あと詳しいことはレンかマツに聞け。
曰く、さっきみたいに位相や相転位やら波動なんかの難しいことをやって、「事象」を引きこすように出来るようにするんだがあと詳しいことはレンかマツに聞け。
曰く、お前の宿舎は第五区の住宅地にあるからあとで見てこい、あと詳しいことはレンかマツに聞け。
曰く、武器は順次用意するが基本使い慣れたもんを持ち歩くようにだがあと詳しいことはレンかマツに聞け。
曰く――
「あんた自分の仕事しろよ!」
思わず突っ込んでしまった。あんた僕の指導役っぽいこといってたろうに。いや教育係だったか……? それでも久世さんは神妙な顔つきを崩さすにむくれるように本に視線を逃がす。
容姿がなまじかなり可愛いので本当に中身と性格が別離しているように見えてきた。あの中には小さい宇宙人が入っていて、自動操縦されているのかもしれない。
「うーん、僕よりもレンのほうが絶対うまく説明できるし、というか会って損はないというかなんというか。僕よりももっとも近い存在ではるだろうし。むしろ説明役はマツだから」
なんだかごにょごにょいっているが僕は少し溜息を吐いてさっさと道場を出ようとした。今まで気づかなかったがここは冷房がないのに異常に寒いことに気づいた。すべるような板張りの床。大またで綺麗な板張りの道場を横断して外に出ようとした。
「あ、もう行くの?」
「……行けって言ったのは久世先輩でしょう」
「そんな人のせいみたいに」
あなたのせいだと思う。
「なにか他に用事があるんですか?」
僕が仕方なしに言葉を吐き出す。なんだか先輩とかそういうものはどうでも良くなってきた。大体久世さん自体が他人を試すような言動なのだ。探るような彼女の言葉にいい加減疲れてきた。よくわかない人に詮索されるのは気持ちいいもんじゃない。
その当人はちょいちょいと手招きをして、ソファから身体を起こそうともせずに僕に可憐な笑みを見せる。それにつられて楽しそうに踊る金髪を目に僕はなんの警戒をもせずに久世さんの目の前まできた。
「じゃあ手、出して」
「……? はい」
「時津彫君、肝心なところで油断するね」
何を言っているですか、と言おうとして咄嗟に出していた右手を引っ込めた。さようならの握手でもするのかと思ったが、チクリとした鋭利な刺激に反射で右手を持って後ずさる。
「……?」
見ると右手首のある一点に赤い血液の玉が出来ていた。慌ててふき取ると不思議なことにすでに血液は固まっていて、何らかの傷口さえない。
「はい、これ」
なにがなんだかわからない僕に、目の前の久世さんが寝そべった格好のまま器用に何かを放ってきたので左手でキャッチする。
見るとカプセル型のアンプルだった。応急処置用のもので、点滴ほどではないが抗がん剤や栄養剤など入れ摂取することにより効果はある。携帯型に特化していて民間では売られていない軍用のものだ。精密ドライバーの柄ぐらいの大きさの紡錘状のカプセルの半分下にナノサイズの針がある。
「ってなに僕の身体にいれてんすか!?」
「なにって、電解質型のナノマシン」
ナノ、って。この人本当になにしやがる。
久世さんは依然としてその静謐とした顔を崩さずにこりと笑いかけてくる。
「それはお守りだ。僕が君にあげるプレゼントだよ」
「プレゼントって……自分がなにしたかわかってんですか! ナノサイズの媒介の使用は先の大戦から使用は硬く禁じられいて――」
「はいはいはいはいはいはいはいはいはい」
久世さんが「はい」を何個も並べ立てて僕の台詞をさえぎった。額の金髪を払い眉根に皺を寄せて言う。
「つまり、君は今何かされた自分の身体の心配より、僕の身の安全を心配をしてくれるのかい? 優しいんだね」
「なっ」
そんなつもりはまったく……ない、とは言えない。そう指摘されてはじめてわかるが、今はそういうことじゃないだろう。なんだかもう混乱してきた。
「話を逸らさないでください。このナノはなんの作用をするものですか。それにいくら軍関係とはいっても使用は、」
「殊勝なことだが、それを禁じたアウストラリース条約もウェズリー条約もちょっとした茶番だ。ていうか関係ない。まあ、気にするなよ。そもそもこのトーラス内はティーア系人種の国みたいなもんだし、こんなものでも使わない限り自衛できないのさ」
気にするなとか簡単にいってくれる。そもそもこんなものがどこのなにが自衛になるんだ。
僕は自然と右手を擦る。
「自衛って……。守るべき規則があるなら守るべき理由があるのは当然でしょう。だからこそのルール。その理由がないっていうならそもそもそんなルール作らない」
「そう、君の言うとおり時津彫君。『理由なき束縛などありえない』。自分で言って自分で気づいていないようだけど、それ、よく考えておきな」
久世さんはなんだかやはり不機嫌そうでまた本のほうに視線を戻してしまう。白い整った顔はそのままなにか嫌なことがあったように歪んで明らかな拒絶の色が浮かんでいた。
「僕がここにいることの理由、君がここに来たことの理由。それをよく考えて忘れないことだ。今はわからないだろうけれども、いつか絶対に知らなくちゃならない時が来るさ。だからせいぜい頑張って『解放』しな」
そういうと久世さんは持っていたハードカヴァーの本を顔に載せて両手を腹において眠ったような格好になる。
「……」
太陽の光がそのまま定着したかのような金の髪も揺れず、僕はただ何か言うべきか、言うべきじゃないか迷う。
もう話は終わりだ、とっとと行けという空気が伝わってきてしょうがいない。結局話をはぐらかされ、話題も飛び飛びで趣旨も論旨もあったもんじゃない会話だったが、僕は諦めそのまま足早に道場を後にした。
*
時津彫が剣道場を後にする音を方耳でききながら、久世は薄目を開けてその様子を伺う。身長が一七〇前後の整った顔立ちの碧眼で見てくれは整っているといえば整っている。悪く言えば精悍すぎるというところだろう。外の引き戸の扉が閉まる音と同時に彼女は深い溜息を付いた。
元々こんな儀式的なことはせずとも、それこそどこぞの説明会のように書類と用具を渡せばいいのだが、そんなことでは彼のここに来た本当の動機が知れない。こんなよくわからない面接をやったのは彼女の進言だということはおそらく時津彫もしらないだろう。
「それにしても……よくわからないっていうのが結論かな」
先のぶっきら棒な口調と違って女性らしいニュアンスで久世が呟きながら本を顔から上げる。
彼が育った時津彫家とは代々ティーア系の重役を輩出している有名家系で、その苗字を知らないのは日本国でも地方の人だけだろう。テレビやその他メディアにもでることがあるので知ることは出来る。だがどれもこれも軍関係者で情報規制があるし、知識人でもトーラス内外では情報は制限される。その家の内を窺い知る事は困難。
その時津彫から長男がここに来ると聞いてまず違和感があった。確かに父親が勤めているのならわかるが、本人は教師希望だという。だが、三年前までは軍関連の学校に通っていたことがわかっている。
何かが彼を変えた、のだろう。そもそも、「トーラスの外に家が存在する」ということ自体、蓮桐家と並んで驚きなのだから。
戦争にとっても彼はあんまり驚きすらせず、このトーラスのあり方にとってもある程度知っていた風だった。それに例のものに関してもなにか「持っている」ようでもあった。戦いも離れしているというか……。
――彼はきっとどこかで――このトーラスを調べていたのではないか。なにかの目的で。
彩夏には考えすぎとか言われたが。
久世はソファの裾から薄型の携帯電話端末のPDAを取り出してどこかへコールした。コール音がしばらく鳴ってそして繋がる。
「ああ、僕、クリス。うん終わったよ――うん、でもねえ……やっぱりちょっとわからないんだよねえ、あそこはやっぱ情報が外に出ないからどうにも掴みにくい」
しばらく久世は寝そべったままの格好で誰かと数分間だけ、半分報告、半分雑談のような雰囲気で天井を見ながら話す。
「でも――」
一瞬の間。
道場に少ない埃が太陽の射の光で煌き、蝉の音が静かに流れ込んでくる。
「僕らにもし必要なら――絶対に渡さない」
久世は宣言のような言葉を吐く。そしてまた静寂の後にじゃあ、といって電話を切った。
しばらく、彼女は本を顔に乗せたまま肘掛にあづけている両足をぶらぶらと揺らして何かを考え込む。
もし、彼が本当に中央の言う時津彫ならば、例の事件の被害者ということになる。さらにいえば、外の一般市街地での戦闘があったということになる。そんなことはありえない。彼がここの何かを探っているとすればそこが関係しているのではないか。しかしそれならやはり――
「……ま、あとはレンがうまくやってくれるか。万事こともうまくいくことはなしに」
彼女はよくわからないことを言って、はぁ、と溜息をまた付いて長い金髪を一回梳いた。
彼は一つとして本当のことは言わなかったし、一つとして自分を信頼しなかった。だからあんなにも不器用、見え透いた演技を重ねて、本当のことを述べることを固辞したのだろう、いや、本当のことを伝えたいとは今は思っていないのかもしれない。
だけど。彼女なら。
「しかし、ちょーっと変に演技しちゃったなあ。時津彫君に嫌われてなきゃいいけど」
I waitting for you.