相変わらず鼻炎です。なんかベロの右上?鼻の出入り口?もっというと口蓋偏桃の付け根が毎度のことはれやがります
ま、ただのアレルギー性鼻炎なんですがな。はぁ。でもヘントウ腫れる=身体もだるくなるという1粒で二度最悪なこの体質マジ治れ。
薬のんでも悪化するとヤバイわー。
あとついでに頚椎の件はどうやら全体的には筋肉はたいしてついていないけど、首付近には筋肉はついてきたらしく、症状もでていない。うーん、大して運動も筋トレしていないけれど首のトレーニングで治るもんだ。
もっというと「ズレにくくなった」らしいが理学的に。
というか、もう4月中旬かよ。4月おわるよって毎回いってるなこれ。一応桜の写真はばしゃばしゃとってるけども。GW~
まぁ、そういうわけでダウナーになってるわけですが。
小説の設定でふとおもったことが。
俺の場合はまぁ大抵は先方が(ここでいう先方というのは依頼者やら会社やら云々)が決めてきて俺がそれを練って、ここはこうしたほうがいいんじゃねーの?って折衷してそんで一気にかいちゃうってのがおおい。直にあっての打ち合わせ以外ね。(記事関連は普通に資料しらべだから論文にちかいので除外)
多いんだけど、まぁ、書いていくとこうしたほうがいいなーとか設定とは違うことをかいていって右斜め方向に書いていっちゃうんだけれど人物の行動が生み出した結果、その設定と違う場合はそれもありなんじゃねぇかなぁとか。(つまり脱線しても物語に沿ってればいいんじゃん?)
特に群像劇や心理描写が多様されると設定なんて作っても殆ど使わないことが多い。場面転換ごとに書いた結果、次の事象は本当にそうなるのか?ってことを描いちゃうわけ。
ま、つまり「舞台設定」みたいなでかいことじゃなくて人物間の設定、流動的なもののほうの事。設定どおり怒るところで怒らせないのもそういう描写方法でありかなとかおもうわけさ。
よしまとまんね。というわけで人それぞれだなーというお話。
ま、だから俺の場合は最初基本設定は一応作るけれど、書いていくごとにかためていくみたいな感じ。じゃないと後半ぶれたり、「おかしな描写シーン」があったり、自分が「いい」と思うものであっても「いい」とは思われない、シーンになったりするわけだ。