まだこんな田舎にもいたんだなぁ(遠い目
地元の高校だったけれど、ああいうのが美少女?なのか、つーかいうんだろうな。
タイの色からして二年、17歳。仲間とわいわいやってたけど俺が昔のころには存在さえしていなかったわけなんだよなー。
仲間とわいわいやってたけど、俺は、あーなんであんな人見知りな性格・・・というか別の事情で青春おくれなかったなぁとかそういう感想。
まぁ、そういう感想だけじゃなくて「ああやって友人とうまくやって」いくことが、学生としては重要なんだろうな。
人間関係は重要だ。でもそれは重要じゃない。重要なのは自分の内面にある。
他人の心という所在のないものをあげるのは大変心苦しいが、心情というものは分からない。分からないからこそ「他人」というものを「友人」や「家族」などと「分類」の処理をし、そして「どうやって信頼を築くか」そして重要なのは、
どのくらいまで、信頼を築くか。
だれにでも自由に選べる選択権だ。もっともその環境が整っている前提の話だが。
マズローあたりの欲求段階を引き合いにだすならば、道具としてなのか、本能のためか、自分の自己実現のためか、様々な「目的」があり、それによって階型が決められ信頼への度合いが決められる。
詰まりながら、その思考だと信頼とは不動性ではなく遊動性をもった大変恣意的なものであるということだ。
最初から決まっていないわけではない。「最初から決まってしまっている」ということになる。
故に、多くが勘違いしていると思われるが、選択肢は広いようで狭いだからこそ人は悩む。
循環的認識理論上、「今自分の気持ちがわからないというのは、今自分がわからないようにしている」ということである。
ほかにも諸所あるがこのような社会性をもった気質が出来上がらなければ、大変苦しい人間社会を送ることになる可能性がある。
今、自分のことを、全て分かっている人はいるのだろうか?いいや、全世界誰もが自分のことを自分で定義する事ができないなぜなら自分を定義するのは他人だからである。
するとそうするならば、若年の人は「自分を知る為に他人を道具としている」とも捕らえられるし、その道具として「信頼」を「使って」いるのであろうということになる。
これは人が毎日の日常で必ず起こっていることであって、これが出来ない人が入るならば、それは人ではないと言える。なぜならば、生存するために、社会に適応するために必要不可欠であるため。
若年以外の人も含めてのことだ。
重要なのは、独力で自分を知ることであって、その上で他人とは何か?ということを理解していることだ。
自分が考える自分は本当に自分であるか?自分が考える他人は本当にその他人なのか?
これができなければその人は狭い社会形成しか出来ないだろう。
ってところまで考えてやっぱセミロングだよなーって思った。
やぱ学生と社会人じゃー環境ちがうなーとかなんとか。真面目にかいてみた。