彩夏が、戻ってきた。
いろんなものを失くしたまま、
それでも、戻ってきたんだ。
戻ってきてしまったんだ。神様が起こした奇跡で。
ヒロさんとアリスは迷いのない歩き方で病院の受付に行き、まだ少しほうけている僕の所にアリスが寄ってきた。
「ナルミ、いい加減現状を認識したらどうだい。あの数百人のやくざを相手にしたものとは思えないほどの腑抜けた顔だよ。ナマケモノの寝起き顔を一時間見つめていたほうが数倍ましだね。ほら、こっちにきたまえ」
散々ないわれようだ。今に始まったことじゃないけれど。
実際そん酷い顔をしているだろうから。酷い?いや違う、きっと――――。
アリスのぬいぐるみに背中を押されて受付前の椅子に座った。思った以上に閑散としていて、それなりに大きな病棟にしては数人の看護師さんや入院患者ぐらいしかみられない。そう、ここは入院病棟だからだ。当たり前だ。一般外来じゃない。でもその当たり前なことさえなぜか心に響く。いつもの病院とは雰囲気が違う。
メオが去ったのは昨日だから今日は日曜。しかも午前中で壁にかかっている時計の針はまだ12にも達していない。そんなに時間がたっていないのにずっと前の出来事のように感じる。
「ナルミ」
「え……、う、うん。何?」
「ぼくは奇蹟信じている。一度起こったらからといって二度起こらないわけじゃない。そう言ったね」と淡々とした口調でアリスが言った。
そういえばミンさんの所で働き始めたあたりに、そんな話もしたような気がする。
「確かそんなこといってたような気はするけど」
僕の曖昧な返答少し機嫌を悪くしたようなアリスは、床につかない自分の脚をぶらぶらさせ始めた。容姿が容姿だけにむくれた子供のようで似合っていた。なんて言える筈もない。しばらく沈黙した後にアリスは言う。
「今回その二度目が起きてしまった。おきるべく起きてしまったと言った方がいい。奇蹟というのはね、人が知覚できないありえない事象を指すんじゃないんだ。人が眼前にその事象を目の当たりにしてそれをなんと名づけるべきか、その人の内から自然と出る言葉。それが奇蹟だ。奇蹟は事象によって決まるんじゃないんだよ。人によって決まるのさ。例えどんな結果を招いても。例えどんな影響を人に与えようともね。ギリシャの上院が糾弾されることやガンジーがうっかり肉を食べてしまったことも、空が青く見えるのも活版印刷が発明されたのも全て奇蹟のようなものだけれど、それは奇蹟じゃない。つまり奇蹟なんてものは人間の性みたいなものなのだよ」
「えっと、人間が奇蹟かどうか決めるってこと?」
相変わらずアリスの言うことはあんまり分からなかったけれど、アリスはずっと不機嫌そうなままだった。口を尖らせ、ずっとお気に入りのぬいぐるみを抱きながら床をみていた。
そういえばヒロさん遅いな、とちょっと目線を向けてみるとなにやら胸元から封書を受付の人に渡していた。
なんだあれ。
「いいや、例えばナルミは『なぜ生きているのか』なんてあたりのくだらなくて唾棄すべき命題に希少な時間を浪費してまで取りかかかったことが少なくとも昔あっただろう?」
「……うん、まあ」
不機嫌だからなのか、今日のアリス物凄い棘があるなあ。
「なぜ生きているか。死にたくないから。その辺に行き着くだろう。でももちろん生きていながら死んでいるという表現もある。概念論になってしまうがね。では生きながらに死んでいるなんていうものの定義は一体誰がきめるのだろう、これは不可逆的だよナルミ。そんなものは決められないし、ぼくらただ神様が適当に書いたメモ帳の通りそれに行き当たるだけなのさ。なぜ生きているか? それは生きているからだよ。これはトートロジーじゃないよ、必然だ」
「必然……」
ずっと昔、母親がなくなったときもそんなことは考えてはいたけれど、あれら全ては必然だというのだろうか。
「奇蹟は信じるに値する。でもそれは神様が与えた天啓のようなもので驚くに値しない。必然の出来事のどこに驚嘆があるんだい」
アリスはそれで満足したのか何か考えているのか、相変わらず不機嫌そうな顔のまま床を見つめ足を降っている。
「じゃあ、彩夏が目覚めた奇蹟も必然だっていうのか?」
アリスは答えない。答えない代わりにそっぽを向いた。……今日どうしたんだろアリス。
それじゃあ、これから僕が彩夏に聞くあのこと。あの屋上からなぜ飛び降りたことを聞きだせる状況になったのも――必然だっていうのか。もちろん目覚めたのが昨日今日だ。それは無理だとしても、実際僕には彩夏に会うことが辛すぎる。いや、違う。嬉しいんだきっと。
「きみが今頭の中でへどろのように彩夏に対することをぐちゃぐちゃかき混ぜていることだろうけれども、あまり期待しないほうがいい。ぼくもここには喜び半分消沈半分できたのだからね」
さっき驚嘆はないっていったじゃん、と冷静にアリスをみる。アリスは僕を見上げて、
「ぼくは探偵として禁忌を犯した」
「は?」
「死者の代弁者と吹聴しておきながらこの体たらくはぼくながら、反省を禁じえない。ぼくは彩夏の一報を聞いた後『カルテをのぞいてしまった』」
「え!? いやそれは、」
まずいだろ。……いやでもこれすら今に始まったことじゃない。ハローコーポの件にいたってはクラッキングまでやっているんだ。アリスも思わずという、いやこれも知識の探求というやつかもしれない。
「だから1つだけ伝えておくよナルミ」
そこでなぜかアリスは僕にイースターエッグが入った箱を押し付けてきた。ヒロさんは受付のお姉さんをデートに誘い始めたなにやってんだあの人。
「彩夏は五月中には退院して学校に復帰できるだろう。確実に留年だが、学校側が便宜を図ってくれるはずだ。でも元通りにはならない」
「元通り、って?」
「彩夏は記憶の一部を失っている。特にエンジェル・フィックスに関わった人物に関してはごっそりだ」
「………」
驚きはした。でもやっぱりかという感情が元々居座っていたから驚きはしなかった。植物状態の人間が目覚めてなのかの後遺症なしに復帰できるほど甘くはない。でも彩夏には。
「彩夏には会えるんだろ?」
そういうとようやく満足したようにアリスは微笑むと、
「やはりきみはそっちのほうが向いてるのかもね」
そういうと座席を立った。
「じゃ、おれ、用事あるから。彩夏によろしくね」
そう受付を済ませてきたヒロさんがさわやかな笑顔で玄関へと向かう。え? 何? ちょっとまて。
「そういうわけだ。同胞を迎えるのにはこのような場所は無粋だからね。あとでぼくの部屋まで引っ張ってくるんだよ」
そういって歩き出したアリスはヒロさん付き添われて見えなくなってしまった。呆然とした僕の耳には受付のお姉さんの、桑島ではなく、藤島さんという声が届いた。
そもそも。
昨日まで植物状態で起きたばかりの患者にどうやって親族以外に会えるのだろうかと、一般的な疑問を持ったのだけれど、特別身体に後遺症がなく、健常者とほぼ同じならば面会も早まる、と昔散々調べた医学関連の書物に書いてあったのを思い出した。
そんなことを考えながら綾香の病室を目指す。
はっきりいって僕はここに二回しかきていない。アリスの朝の言葉じゃないけれどやっぱり罪悪感と、悲壮感が僕の足を固まらせる。何度も行こうとはしたけれどあの飛び降りた彩夏を思い出してしまって意欲がなくなる。
僕は薄情なのかいくじがないのか、アリスだったら両方だと言うだろうけれど、僕はただの怖がりだと思う。
彩夏の病室に着く前にナースステーションを通りすぎようとしたらいつだったか見た総白髪の老医師が出てきた。どうやらまっていたみたいで僕をステーション前の長いすに座るよう促す。彩夏は知っての通り目覚めたばかりであまり刺激をあたえないよう、知り合いが来てくれることを嬉しく思うなどの注意やらを受けた。特に病名は明かされなかったが、記憶の混濁はどこまでいっているのかまだ分からないそうだった。
老医師と別れてすぐそこの彩夏の病室の前に立つ。
取っ手に添えるがまだ横に開けない。やっぱり足が硬直して前に進めない。進退極まるせいで体がぐらぐらうれてるようだった。手に汗が滲んできてアイスの箱を持つ手まで力が入ってくる。
彩夏に会える。
でもそれは「彩夏じゃないかもしれない」。
ゆっくりと、スライド式の扉を開くとみなれた個室のベッドに、ブルー基調のパジャマを着た彩夏が上半身を起こして驚いてこっちを見ていた。
少し記憶と比較すると痩せたかもしれない。しかも見舞いに来なかった性で髪の変化に気付かなかった。そられた頭はすでにセミロングぐらいまで伸びきっていて、髪の端は看護師さんがだろうか、綺麗に揃っている。驚いた顔はあの時のままだった。
「えっと……」
困惑した彩夏が髪の毛を気にしたように整える。
「どちら様……でしょうか?」
……予想通りの答えだ。
「その、……学校。クラスメイトの。これお見舞い」
僕はそう絞りだすので精一杯だった。
神様は彩夏じゃない彩夏を奇蹟という必然で再び出会わせた。
でも彩夏じゃないという定義は誰が決める。
アリスのいう通り、きっと僕達は行き会ってしまった奇蹟とうまく付き合っていくしかないんだ。
彩夏は戻ってきた。
It would move as everything is heaven. That isn't necessary completely.