ムシウタ bug 夢忘れぬ眠り | ひっぴーな日記

ひっぴーな日記

よくわからないことを書いてます




 一之黒亜梨子の朝は稽古から始まる。今は薙刀と合気道をしているが、登校があろうがなんであろうが、昔からの慣例で一之黒家の男女は、武道を極めるべしと幼いころから叩き込まれている。

 もっとも亜梨子に言わせれば時代錯誤もいいところなのだが。

 そんな事情から今日も肩を回しながら道着に袴姿で屋敷の本邸へと向かう廊下を亜梨子は歩いていた。

「あのばばあいつか倒す!」

 剣呑な言葉がまだ幼さを残す可愛らしい顔から紡がれ、後ろで縛ってるポニィテールが勇ましく揺れる。まずは自分の部屋に行き、使用人が容易したタオルで少し汗を拭き、風呂場で流す。亜梨子が通っているホルス聖城学園中等部の制服を着て、事前に用意した支度をする。鞄は邪魔だからと「事前に」決めていた。

「さてと」

 幼少の頃から叩き込まれた洗礼された所作で正座から立ち、自室から出るとこの夏に相応しい新緑のあふれる中庭に沿って、古めかしい長い廊下が続いている。ひんやりとした廊下は火照った体に心地よく、ギシギシといわせながら目標地点まで急がず焦らず歩いた。

 亜梨子はその目標地点までくると、そっと障子を開けた。

 そこには色々な経緯を経て居候することとなった薬屋大助がまだ布団で寝息を立てていた。平凡な顔に特徴のない髪形。体系も背もどこにでもいそうな、本当にどこにでもいそうな男子だが、これでも特別環境保全事務局という組織に身を置き、その最高位に位置し亜梨子を監視する為にいるのだが。

「ご主人様が妖怪ばばあと朝から稽古しているというのに下僕がぐーたらしてるなんてやっぱりゆるせないわ……」

 そう小声で呟きながら亜梨子は殺風景な大助の自室に入っていく。戦闘では圧倒的に大助が勝っているが、日常では「主人と下僕」という亜梨子が勝手に決めた序列が存在する。

 亜梨子は大助の布団の下の方に仁王立ちし、コホンとわざとらしくせきばらをすると、

「必殺! 亜梨子前中かかと落し!!」

 華麗に中に舞った亜梨子の足が眠っている大助の腹に落ちる。一之黒邸から悲鳴が上がった。


「お前、そろそろいい加減にしないとマジでその薄っぺらい胸に穴あけるぞ」

 歯を磨きながら歯磨き用のコップを亜梨子のほっぺにぐりぐりと当てていた。大助はそのまま寝巻き姿である。

「女子の胸とか指摘とかセクハラもいいところ。それにヘタレ大助にはいい刺激的な朝でいいでしょ」

 そう言いながら亜梨子も歯を磨きながらコップをぐりぐりと大助の頬にめり込ませる。

「刺激的にもほどがあるだろうが馬鹿女が。程度っていうものを知れアホ」

「いいからさっさとこの汚らしいコップをどけてもらえないかしら。頬が腐るわ」

「じゃぁお前のさっきから俺を踏んでる臭い足をどけろ」

「亜梨子弁慶の泣き所キック」

  亜梨子の攻撃に身悶えるのを傍目にさっさと歯を磨いて洗顔、使用人が用意しておいたタオルで顔を拭く。

「おい、てめぇ……」

「怒ってる暇はないわよヘタレ大助。今日は急がないといけないんだから」

 亜梨子はタオルを置くと広い洗面所を出ようとする。

「ヘタレヘタレってなんだよ……」

「ヘタレじゃない」

 亜梨子はそのポニィテールを揺らして振り返り、言う。

「『虫憑き同士は絶対に手を組めない』」

 大助は少し驚いたような顔をしてそして苦しそうな表情に変わった。それを亜梨子は黙ってみている。

「俺の意見は変わらない。 ハルキヨ、リナ、俺やお前が揃うことなんてありえない」

「なんでそう言い切れるの」

 亜梨子の反芻に大助は頭をガシガシと掻いて言った。

「お前も少しは冷静に考ろ。一号指定が勢ぞろいしてみろ。前見たく戦闘が起こって “大食い”殲滅どころじゃなくなる」

「でも可能性は、ゼロじゃない」

 横から入った亜梨子の言葉に僅かに大助の瞳は揺れた。しかし一瞬で顔を逸らす。なにかバツの悪そうな顔をして俯いた。

「そうやって、出来ない、無理とかいってやる前から否定しっぱなしだからヘタレ大助なのよ」

 そこで一呼吸おいて、亜梨子は言う。

「あの夜のこと。もう忘れたの?」

 大助からの返事はない。それを見て亜梨子はタオルを置き、洗面所から出ようとするが、大助が口を開いた。

「『答え合わせ』っていうのはなんだ?」

 ―――次にあったら答え合わせをしましょう。

 摩理はそうあの夜に亜梨子に言った。摩理と亜梨子だけの約束。これは大助にも言っていない。言うべきか迷ったけれど言わないでここまできてしまった感じだった。

 きっと摩理は天使の薬を望んでいる。でも自分は――どうなのだろうか。

「別に。言うほどのことじゃないわ。今日は早くいくからね。早く支度して。部屋で待ってるから」

 そうそ知らぬふりをして亜梨子は出て行った。

 一人残った大助はしばらくただ立ち尽くして、呟いた。

「バカ亜梨子が」



 大助にああはいったが、亜梨子自身、あの夜のように一号指定が勢ぞろいするとは思ってもいない。ハルキヨに至っては、亜梨子のモルフォチョウに宿る花城摩理目的で来るようなことを言ってはいたが、戦闘に参加するとはこれっぽちも言ってはいない。来るかどうかさえも怪しい。それにリナが率いる虫憑きの集団にしてもまだ考えあぐねている様だった。

 本当に “始まりの三匹”の一匹を倒せるのか。その疑惑と仲間を戦闘に参加させたくないリナの意思があるのだろう。

 大助はあれだ。ハルキヨはわからない。なら一番最初に当たるのはリナだ。実はすでに “アキ”経由で今日会うことになっている。それを大助には絶対に知られたくない。事故承諾にしないと大助は特環の局員を連れてきてくれないだろう。

 自分の自室の前まで戻ると、隠していた靴を履き、鞄も持たずに中庭を通って塀に背を預ける。

「 “霞王”」

 亜梨子は一言だけそういった。すると塀を越えて黒い霞が亜梨子を取り囲む。包み込むように霞が亜梨子を隠すと今度じゃ塀の向こう側から声が聞こえてきた。

「 “かっこう”はどうした?」

「まだ洗面所よ。あと十分は気付かない」

「それで足止めしろっつーのかよ。どんな無茶振りだ」

 表情は見えないがきっと塀の向こうでは苦虫をつぶしたような顔をしているのだろう。

「なんでオレ様が手助けなんかを……」

 そう呟くと黒い霞が亜梨子を持ち上げる。以前戦った時も乗ったことがあるから違和感はないが、中をういているようだった。軽々と一之黒邸の塀を越え、向こう側の一般道へと亜梨子は霞からジャンプして着地した。

 振り返ると同じホルス聖城学園の制服を着た金髪碧眼の美少女が腕組みをしながら、塀に背を預けて立っていた。

「それは私の考えに賛成してくれたからじゃないの?」

 くるりとまわって金髪の少女に向き直る。少女―― “霞王”はその綺麗な顔を歪めながら舌打ちをした。

「そういうわけじゃねぇ。本当に “かっこう”が “大食い”を倒せたら、お前らが共闘するところをみたくなっただけだ」

 それでも亜梨子は微笑む。

「でも “霞王”もきてくれるのよね?」

 首を傾げて質問すると、 “霞王”はますますそっぽを向く。

「んなことどうでもいい! 今は行け! オレ様がしといてやっから!」

「はいはい」

「それとなぜ “かっこう”をわざわざ起こしたりしたんだ? 寝かせとけばいいじゃねーか」

「どーせ寝かせていてもすぐに気づくだろうし、それに運があったらリナにあわせたくなっただけよ」

 それを聞いて “霞王”は無茶しやがるを吐き捨てた。

 亜梨子は困ったような表情をしてから笑顔になると黙って赤牧市へと走っていった。



 その数分後。亜梨子の言った時間よりかなり早く “霞王”の上の塀瓦に大助が乗った。

「おい、 “霞王”。これはどういうことか説明してくれるんだろうな?」

 そこで当人はめんどくさそうに答えるだけだった。

「別に。あのクソ女に興味があっただけだ」

「またケモノマンで買収されたんじゃないだろうな……」

「されてねーよ!」

「とりあえずこれは規約違反だぞ “霞王”」

「規約ぅ?」

 少女の体がぴくりと反応し、大助と対峙する。

「規約ナンテドウデモイイデス」

 にっこりと上品な笑顔を浮かべた “霞王”の周囲から黒い霞が溢れ出た。

 大助はこめかみを押さえてから目を鋭利なものへと変化させる。



 赤牧市の朝は早い商業街のオフィスビルが立ち並ぶベッドタウンで、亜梨子達学生が登校する数時間前でもすでに人ごみができていた。中心街までくるとさすがに走るのも困難だ。

 ふと駅に近いスクランブル交差点の中央でクラクションの嵐が起こった。何があったのだろう。

 亜梨子が道路の交差点まで行くとなんと中央に人が倒れていた。恐らく成人の男性だろう。びっくりはしたが、どうしようかがわからない。しかしもっと奇異なものがあった。

 誰も彼を助けようとしない。交差点付近の人も好奇心、奇異、興味、無関心の目で倒れている男性を見ているだけ。数人は助けようとする人も見かけられたが行動はしない。もちろん車に乗っている人達も。

 亜梨子は後ろを振り返り、ため息をつくと躊躇なく倒れている男性に足早に近づいていった。この真夏だというのにマフラーをしたぼさぼさの髪に、二十代後半と思われる男性だった。とにかく道路からどけようと亜梨子は男性を後ろから腕したに両手を回して引きずるように引っ張っていく。毎日稽古をしているのでこのぐらいはできるが、流石に抱えることは出来ない。

 男性が歩道まで乗るとせっかちな車はすぐに発進した。そして数秒でいつもの喧騒に変わってしまった。亜梨子はとりあえず人目につかない建物の物陰に男性を運ぶが、やはりその間誰も手伝わなかった。奇異の目や無関心が多い。

 ――最近の虫に関する騒動がこの町の人を萎縮させているのかもしれない。

 流石に特環も情報統制はしているが、在野の虫憑きまでは手が回らない。だから妙なことには手を出さない、そういった思想が芽生え始めているのかも。

 男性が唸り声をあげたので亜梨子は近くのコンビニからミネラルウォーターを買ってきて、ハンカチをだし、十分に水をしみこませびしゃっと男性の額に乗せた。過剰な水が歩道に流れ落ちていく。


「――大丈夫っ?」

 ようやく男性がきづいたようだった。よく見てみるとまだ若い。

「うう――――」

 男性が立とうとしたので、亜梨子は慌てて止めた。

「あっ、まだ横になってたほうがいいわ。目を開けなくていいから」

 乾いてしまったハンカチにもう一度水をしみこませびしゃっと男性の額に置く。前に大助にもやったことがあるが、気分が悪い人には十分に水をしみこませた布かなにかを額にあてるとよい、と誰かに習ったのだ。

 男性は気持ちがいいのか何も言わない。

「こういう場合、どうするべきかしら? 頭を打ってるかもしれないから、救急車? それとも警察のほうがいいかしら?」

 亜梨子の韜晦に男性は酷く動揺した。

「い、いや、どっちもいらないよ。ただの立ちくらみだから……」

「そう?――それにしても、みんな冷たいわよね。あんな目立つ場所で人が倒れたっていうのに、誰もたすけようとしないんだもの」

「はは……」

 男性はなぜかはかなげな笑い声を返す。

「ところで、あんなところで何をしていたの? ぼーっと突っ立ってたら、危ないわ」



「えっ、お医者様だったの?」

 風貌からしてまったく全然そうは見えない、といってしまえばかなり失礼だろうけれど本音。

「お医者様なら……やっぱり患者さんと別れることもあるの?」

 少し亜梨子は躊躇した。こんな不謹慎なことはマナーとして聞くべきじゃない。でも――摩理と別れた自分と同じなのか、確かめたかった。

「まあね」

 男性の答えは短い。

「……辛くはないの? それとも、そういうことに慣れちゃうのかしら?」

 真剣な亜梨子の様子に男性は言葉は吐き出す。

「少なくとも僕は……辛いよ。それに悲しい」

「悲しいのに続けられるの?」

「――せめてもの抵抗ってやつなんだと思う」

「……?」

「もう悲しいのはこりごりだ。そうならないための抵抗を続けないと……どこかでやめてしまうと、それまでに見送った人たちに顔向けできなくなる気がする」

「……」

 男性は本当に患者さんを思う優しい医者だったのだろう。そうでなければこんな考えは出来ない。無言で男性に笑顔を送った、と思ったが亜梨子は反対側のスクランブル交差点にある人物を見つけて顔をゆがめた。

「――うっ」

 大助が憤怒の形相で亜梨子を睨み付けていた。思わず立ち上がる。 “霞王”はどうしたのだろうか。さすがにあそこで大規模な戦闘はしていないだろうからだらだらと話だけで引き止めていたに違いない。ちょっと男性に付き合いすぎた。

「ヤバイ、大助だわ」

 さてどうしよう。

「リナと会うから、こっそり家を抜け出したって説明してら、納得してくれるかしら。ああ、絶対に無理だわ。だって拳を鳴らして、物騒な顔しているもの」

「そうだな……あれは悪い目だぜ。事情はしらないが、一刻も早く逃げたほうがいい」

「さようなら、 “先生”!」

 思わずそういって亜梨子は信号が青になってから元気よくポニィテールを揺らし走る。最後に振り返り、 “先生”に言った。

「良い “先生”になってね!」

 それだけいって猛牛の如く追いかけてくる大助から逃げるべく、亜梨子は疾走した。