藩政の世は封建制で、徳川家を中心に各藩は土地を領有し民(武士以外の九割以上の人民)は、臣従の義務を付けられて家屋様式、衣服、髪型などは法度(定め)によって分相応な暮らしにおける規制が掛けられていた。このような世は私達、百人・商人・魚人・職人などの殆どの庶民は、生き辛いですね。露骨な身分制政治を変えようとする国人(藩)が薩摩・山口を中心とした活動家が発起されたが、徳川幕藩体制は武家政権(武力)で覆そうとするエネルギーは、相当な気概が要ります。大方の国元(各藩)は徳川家と関わりある親藩など、行方方向を眺める日和見主義だったと書籍では思える。「私は当然、生存していないが曾祖父母…祖父母、古い歴史書等からも伺えた」
さて、改革派藩とも言える山口藩(県)の初代県知事に関心を持ち始め、歴史書及び子孫の方が、お持ちの日記を基に書かれた「中野梧一日記」も読んでみた。廃藩置県の前は山口藩で藩知事以降の首長は、てっきり旧 長州(周防国・長門国)か、薩摩藩出身の方だと思っていたが何と、かつての敵対する幕臣の方(彰義隊しかり)だった。
〇 旧幕臣 斎藤 辰吉(天保13年) ≪1842年≫ 1月8日 生誕
父 幕府御細工頭 斎藤 嘉兵衛(雄之) → 後に郡代掛代官
斎藤辰吉は、幕府御勘定評定所組頭書物方 役人 (安政六年)
評定所組頭 御役御免 (慶応四年四月十五日)
函館五稜郭の戦いに榎本武揚と共に戦いに敗れて捕虜となる。
函館戦争に敗れた降伏者が放免されて静岡藩に渡され、斎藤 辰吉は静岡藩
の従弟の静岡藩貫族士族「中野 誘」(中野又三)氏の附籍となった。
大蔵省七等 出仕 (明治四年 1871年九月三日)
〖改姓〗 中野 梧一 (辞令書 氏名は中野第長と記載されている)
明治四年11月15日 初代 山口県参事
明治五年(1872年初頭の山口県首脳部)
【奉任官】 官等 職名
4 県令
5 権令
6 参事 中野梧一(旧 幕臣)
7 権参事 久保断三(旧 長州藩士 八組士)
七等出仕 木梨信一(旧長州藩士 大組士)
【判任官】 8 典事 時田光介(旧 長府藩士)
他 略
≪ 興味ある人物 ≫
前山口藩 権代参事「杉 孫七郎」(宮内大丞)・「杉 民治」権典事(吉田松陰 の長兄)・藩大監察 → 権代参事「高杉 丹治」(高杉晋作の実父)…………。
中野参事の人事に強く関わった「井上 馨」(大蔵大輔)、また井上の竹馬の友 と言える山口宰判大庄屋 矢原村庄屋「吉富藤兵衛」(簡一)<明治に士族>ら
が中野県政を支えた。中野参事赴任における手土産として運上、冥加、国益
金などの雑税の免除である < 大蔵省認可 >。この措置は一般農民から大歓迎
された。現在も公園として残されているが井上馨邸を中野居住に提供してい
る。幕末~明治10年前後の旧湯田村・下宇野令村辺りは旅館四軒・士族在宅
四軒、陪臣(家臣の家来・小者・遣い)20軒、殆どが農家で田園地帯であっ
た。 (中原中也 著籍 青木 健、中原 思郎様などから)
当時、「県令」「権令」がおかれなかった県が多く、「参事」は県令代行職
である。後に権令を経て県令に昇進し初代 山口県令となる。
全国に先駆けて「地租改正」を実施、1875年に辞官した跡は大阪商法会議所
の副会頭に就任した。
1883年9月15日 自殺(享年41歳)
静岡県 士族 中野梧一
話題は逸れるが、山口縣と言えば甘党の方は「外郎」を思い浮かばれると思う
が、外郎は室町時代に明国から伝えられたお菓子で、山口が日本での発祥地で
であると知った。
「外郎屋」(福田家)が経営され、現在の御堀堂は屋号として継承されている
が、豆子郎(田原家)は御堀堂の分かれと言う。
名古屋の「ういろう」は、明治維新後においての新作であると記されている
るので、興味ある方は掘り下げて食を楽しんで頂きたい。
最近の散策写真で寛いでください。
初代 広島県 大参事 河野敏鎌(土佐藩士) ≪郷士≫
広島県 県令 千田貞暁(旧 薩摩藩士) ≪1880年≫( 明治13年)
案内板の通り「宇品築港」にリーダシップを発揮された。
千田 貞暁
千田公園にある銅像
縮景園の今
焼き鳥の推薦店「豚鳥」(西区横川 ビクトリーロード)
私が大好きなタン(ネギが多い)