PIPかんせん報告

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PIPの定期公演感想などを書きます

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一昨日レイトショーで Documentary of AKB48を見てきたのですが、前日に録画していたセーラーゾンビの最終回を見ていたせいで、私にはこの2つが、同じ物語にしか見えませんでした。

「大組閣や卒業などでAKBを離れること」を「ゾンビに食われること」と読み替えると、この2つの作品のプロットとメッセージが驚くほど似通っていることがわかると思います。

映画では、まずゆーりんが食われ、次にれいにゃん……というように、次々にメンバーがゾンビ(大組閣)の犠牲になっていきます。すーあやかれんのうち、かれんだけが生き延びてすーちゃんにお別れをいうシーンでは、セーラーゾンビ第8話「永訣」で親友と死別するシーンがフラッシュバックしました。

りっちゃんがスクリーンに戻ってくると、物語の終了が近いというサイン。

そしてラストカット。
セーラーゾンビでは、事件の黒幕までゾンビになってしまった絶望の世界で、舞子(なーにゃ)が高らかに宣言します。
「私は大丈夫!いくらでも歌えるから!」

映画では、大島優子がパドリングで沖へ向かう様子がカットバックされた後、字幕でハイタッチの再開が告げられます。これは「メンバーは何があっても、会いにいけるアイドルを貫き続ける」という宣言ともとれます。


犬童監督はツイートで、セーラーゾンビは歌い続けるしかないこの社会のメタファーである、という旨の発言をなさっていますが、それは図らずも社会とAKBの関係、AKBとメンバーの関係のメタファーにもなっている、ということなのでしょう。


※ もちろん実際は、組閣も卒業も終わりではなく、新たな環境でのスタートです。セーラーゾンビでも、ゾンビに食われた者達はただ去るのではなくミルプラ時空に集められる。それはつまり、ベタではあるけれど、閉塞からの解放、転生を意味しているからです。