「百足ちがい」と「胡蝶の夢」から得られる処世訓。 | barsoのブログ

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 今は昔、百足ムカデが権力闘争をした。
 力勝負なら、悪路走破性と噛む力と強い毒で相手を仕留める百足の圧勝。
 大衆受けするかどうかなら、空を舞い飛べて容姿も美しい蝶の圧勝。

 しかしながら両者の土俵が地上界・空中界と違うので、論戦で決着をつけようとなり、早い話が口喧嘩となった。

 芥川龍之介が『侏儒の言葉』の中で、その典型事例を示している。

 百足「ちっとは足でも歩いて見ろ」
 蝶 「ふん、ちっとは羽根でも飛んで見ろ」


 ここに喧嘩に勝つコツがある。すなわち常に自分の土俵で戦うこと。つまり自分の優位性をもとに、相手のウイークポイントを集中攻撃するのがいいのである。

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 この『侏儒の言葉』では、他にこんな論争事例も出ている。

 又、
 批評家 君は勤め人の生活しか書けないね?
 作家  誰か何でも書けた人がいたかね??


 作家は自分の弁護だけで終わっているので、批評家をやり込めたいなら「君は勤め人の小説どころか、批評しか書けないね」と言ったほうがいい。
 ともあれ、互いに相手を批判するだけだと、そのうち持ち駒がなくなり、相手の親族を罵り始めることもある。いまは死語になった「お前のカアちゃん出べそ」がそうだが、これは鎌倉時代にルーツがあるそうだ(なんでそんなことを知っているのかを考えると侮蔑語であることが分かる)。

                 ●

 では「論争」以外に相手に勝つ方法はあるか? 
 山本周五郎が小説『百足ちがい』の中で、いかにも昔の日本人らしい対処法を示している。
 あらすじを述べれば、頃は武家時代。せっかちでよく失敗した父親が、息子の又四郎には落ち着いた人間に育ってほしいと思い、知り合いの和尚に教育を託した。(→青空文庫

 和尚は又四郎に「参つなぎの処世訓」を教えた。 「この世には男が本気で怒るようなことは一つもない。怒ると一刻が命を減らす。怒りっぽい人間はみんな早死にだてば」と腹を立てるなら命を縮めることを述べ、次に対処法を教えた。
世の中すべて『参』だべさ。天と地と人。火と水と空気。膳と茶碗と箸。日と月と星。人間は冠婚葬。男と女が夫婦になって子が出る。作る者と売る者がいて買う者がいる。顔は鼻と目と口。耳は別だ。耳なんぞは有るから有るようなものでまあいい。人生すべて『参』でつながっている」と言って、世界の事象をすべて「三」で強引にまとめて、こう結論した。(※)
どんなことがあっても怒るじゃあねえ。家へ帰って三日我慢する、それでもまだ肚(はら)が収まらねえなら三十日我慢する。三十日して肚が癒えねえなら三月よ。それから三年まで我慢してみて、それでもまだ承知できねえときは、行くがいいだ。そのぶっくらわした者のところへ行って聞く。『どうしてあのとき、おらをぶっくらわしたか、その魂胆が聞きてえ』ってよ。それで大概のことは収まる。何事にも我慢、急くな、騒ぐな、じたばたするな」と、辛抱強くあることを骨の髄まで叩き込んだ。

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 又四郎が和尚の処世訓を実践していたら、藩の者からなめられ、軽んじられるようになった。
 世間では、ほんのわずかな時間のズレで互いに会えなかったことを「ひと足違いだった」と言うが、又四郎の反応が何事もちょっと遅かったため、ひと足どころか百足も間に合わないで用が足りないというわけで、「百足(ひゃくあし)違い」とあだ名が付けられた。

 しかし我慢と辛抱の結果は良かった。
 又四郎は藩主に認められ、側用人に推挙され、「どんな場面でも、物おじしない器の大きな人物と評されるに至った」が、又四郎をからかった五人の同僚は「そのほとんどが酷い人生を送り、ある者は死に、ある者は藩から放逐されたり、脱藩したりしていた」のである。

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 ここで百足から蝶に意識を移せば、荘子の『胡蝶の夢』を思い出す。
 荘子が夢の中で蝶になって、嬉々として舞い飛んでいた。はっと目が覚めたら、自分は夢の中で蝶になっていたのか、それとも自分はじつは蝶であって今は夢を見て荘周となっているのか、いずれが本当か分からない、という説話である。

 それにしても、夢の中の蝶は何をしていたのか。
 ひょっとしたら荘子と同じことをしていたかもしれないが、それでは蝶になった意味がないので、百足なんぞ相手にせず、自由にひらひらと"蝶らしいこと"を楽しんでいたと考えられる。
 ということは、人間も自分が"いま居るところにふさわしいこと"を楽しんでいくのがいいのだろう。

 むろん、より上を目指す向上心は持ったほうがいいし、他に適所があればそこに移動するのもいいが、基本的には会社員は会社員として、職人は職人として、店員は店員として、主婦は主婦として、選手は選手として、そして通訳は通訳として、みな自分の分を誠実に楽しみながら果たしていく人生もまたいいのではないか。




【備考】――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
 「参つなぎの処世訓」は実益があります。私バーソは以前、何をされようが何を言われようが、文字通り「左のほおを差し出す」ことはしないでも、ひたすら我慢をして怒らないようにしていたら、中には図に乗ってわざと無礼な言動をして喜んでいる人たちがいました。
 しかし数年かそれ以上経つと不思議なことに、そんな特別嫌味だった人は突然引っ越したり、転勤したり、辞めたりして、そして誰もいなくなったことを実体験しました。
 その頃は 「神が天からすべてをちゃんと見ている」と思っていたのですが、その後スピリチュアルを知ってからは、そんな嫌味な人たちは「私に何か必要な教訓を学ばせたら役目が終わったのでいなくなったのであり、彼らは私の人生ドラマの中で悪役を演じてくれた『特別友情出演者』だったのだろう」と思うようになりました。

※和尚の台詞のここまでは一字一句、本文通りではなく、若干要約しています。
※画像はMicrosoft BingのImage Creatorの生成AIによるものです。
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