旧型の神と新型の神。人生には神と悪魔が関与しているか。(後編)a | barsoのブログ

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(神に関する話が何度か続いて恐縮ですが、これは前編7月18日号の続きです) 

 

 

 中国の悪口を言うと誰でも逮捕される法律が香港にできた。
 欧米の先進国は、たとえ中国から報復を受けることになろうと、人間の基本的人権である「自由」を護るために強い警告を発し、制限を課している。日本政府は遺憾銃を発している。


 この「自由」は人間が持つ最大の特権である。
 裕福で、有能で、容姿端麗で、酒池肉林であっても、自分の考えを自由に言えないならどうか。牢屋にいるならどうか。自由がないなら真の幸福は無い。

 基本的人権である「自由」については、聖書も支持している。
 最初の人間とされるアダムと妻エヴァが、エデンの園で神から禁じられた木の実を食べようとしたとき、聖書の神エホバはそれを制止することもできたはずだが、そうしなかった理由は人間に「自由意思」を与えていたからであり、もし自由意思を制限したら人間は自分の意思がないロボットになる、と教会は説明している。

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   『楽園追放』ルーカス・クラナッハ (1472-1553)  

 

 しかし「自由意思」についてのキリスト教の説明には大きな矛盾がある。
 例えば公園の入口に《入場自由》と表示しておきながら、入ったら罰金を取るなら、管理者の言動は矛盾している。自由と制限(罰)は両立し得ないからだ。
 つまり(旧型の)神エホバが人間に「自由意思」を与えたのであれば、最初の人間に苦しみと死という「罰」を与えたのは全く矛盾していることになる。

 したがってアダムの「原罪」が子孫に遺伝して全人類に「死」が及んだが、信仰によって救われるとする「贖い」の教理は、前提から破綻しているのだ。※1

 一方、精神世界が教える新型の神は、善悪を定めず、したがって罰は与えない。

 人間は、根源の(創造者)の分身(神の子)として、肉体を持たない不自由なに代わって、喜怒哀楽の様々な感情や感覚を実感できるように造られた。すなわち、人間は、地球という3次元物質世界で、いわば神の代理体験をしていると考えられる。(※新型のは太字表示)
 そうであれば、人間の意思はすなわちの意思でもあり、本来(新型)のは、人間が自由意思を行使して自分の望む人生を生きられるよう、人間を助けているはずだ。
 ただし、そのは、人間が期待しているような助け方はしない。悪い人間がいても、必殺仕置き人は遣わさない。地球のことは地球人の「自由意思」にすべてまかせている「観察者」だからだ。


 地球上の諸問題は地球の人間が解決すべきで、人間はその能力を十分に持っている。もし世界の富裕者が巨万の富を貧困層に分配すれば、あるいは世界の政府が軍備を撤廃すれば、その費用で飢餓と戦争が世界から消滅するのは間違いない。

        jiuu93.jpg Pixabay  

 

 

創造者である神の領域に、なぜ敵対者「悪魔」が存在しているのか。※2
「創造者」を信じられない大昔の人間は、真のやすらぎが得られないために「不安感」を抱き、神が助けてくれないのは自分たちに問題があるのではないかと考え、「罪悪感」を感じるようになった。
 世の中に悪いことが多いのは、神の邪魔をする「強力な対抗者」がいるせいではないかと思うようになった。
 そうして神の意思と目的を妨害する「悪魔サタン」という概念を神話の中に考え出した。
 悪魔と訳されるギリシア語デビルは《そしる者》という意味、サタンと訳されるギリシア語は《反抗する者》という意味で、そのように神をいつも悪く言って攻撃することが最大の関心事の、いわば万年野党党首のような天使の実力者が実在すると思うようになった(聖書では邪悪な天使を悪霊と言う)。


 人は悪いことをした刑罰の場所として地獄の概念を生み出した。
 恐れる必要のないとか、善悪を決め付けたりしない、罰を与えないの概念は、あまりに素晴らしすぎて、人間の想像外にあるので信じることができない。
 そのような根源(新型)のの概念を信じられない人は、やがて神は悪い人間を罰するのが当たり前だと思うようになった。
 子供の最大の愛の対象は親のはずだが、その親は時々子供を叱って罰を与える。だから人が悪いことをすれば罰が与えられるのは当然で、人間のいわば親である神も、人間が悪いことをすれば罰を与えるに違いないと推論した。

 また、人は誰かから愛されると愛を返したいが、愛されないと愛したくないと思うこともあるので、神の愛は条件付きであり、神を愛する者だけを救うのだろうと思うようになり、それが旧型の神の概念になった。

 そうして人は「悪魔」が世の中を乱していると思うようになり、「地獄」の裁きと「最後の審判」を恐れるようになり、伝統的な(旧型の)神から救われたかったら宗教教団に所属し、神を畏れ、崇拝せよと教えられるようになったのだ。

      akiw86.jpg Pixabay  

 

 

 人はどのように「自由意思」を行使して生きるべきか。
 人がの分身として造られたのであれば、人は元ののレベルに近づくのがいいはずだ。すなわち人間の可能性を信じて、《自分が思う最高の人間になろう》と努めるのが最善であるはずだ。

 自分で目標を定めて達成する喜び。その努力途中の充実感を味わう喜び。誰かを助けて喜ぶ顔を見る喜び。――――そんな喜びは人生には沢山あるだろう。

 新型コロナで自粛をしていると、以前はマスクをしないで普通に出歩いていたことが、ささやかな幸福の一つであったことに気付く。

 ということは、日々起きることを楽しみ、悲しみ、笑い、怒り、泣き、また季節ごとの暑さ寒さの変化を感じ、まぶしい陽の光を浴び、鳥のさえずりを聞き、雨に濡れる緑の葉にも生命を見て、時には人の善意に触れて胸が熱くなる―――そんなことを日常で体験できることもまた人間の喜びであり、幸福であると気付く。

 もし他に良い生き方があると思うなら、その生き方をしたらいいだろう。それもまた自分が自由意思で選択したことなのだから。

 

 

 

《補足》――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――― ※1:アダムが犯した罪はアダムが負って、それで終わりのはずである。アダムの子孫までもがみな負うというのは道理にかなっておらず、神が陰湿で意地が悪いと言っているようなものだろう。預言者エゼキエルは「子は父の罪を負わず、父は子の罪を負わない(18:20)」と明記している。→拙記事

※2:なぜ聖書の神エホバが、邪悪な天使である悪魔サタンを滅ぼさなかったかについては、サタンから「神と自分とどちらのほうが人間を適切に導けるのか」という倫理的な疑問が提起されたからだという主張が、ものみの塔協会で主張されている。その「宇宙主権の論争」の教理に対する反論は、2011年の拙記事「ものみの塔の『宇宙主権の論争』の教理は非聖書的だ。(改) 」にあり、拙ブログのロングヒットエントリーになっているが、最近微修正を加えている。
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