ウサギとカメの寓話を知っている人が
あとになって出してくる問いがある。
「なぜカメは、眠っているウサギを起こさなかったのか?」
この問いは、たいてい “思いやり” という言葉を連れてくる。
昨今流行りのポリコレ風に言えば、"平等" でもあり、
少し古風に言えば、キリスト教的な "博愛" でもある。
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あとになって出してくる問いがある。
「なぜカメは、眠っているウサギを起こさなかったのか?」
この問いは、たいてい “思いやり” という言葉を連れてくる。
昨今流行りのポリコレ風に言えば、"平等" でもあり、
少し古風に言えば、キリスト教的な "博愛" でもある。
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だが、答えは一つではない。

ある人は言う。
起こしても無駄とカメは知っていたのだ、と。
一度目を覚ましたところで、
ウサギの慢心そのものが消えるわけではない。
別の人は言う。
ここは助け合いの場ではなく、
選択の結果が現れる場にすぎない。
起こすことは、教育でも救済でもなく、
ただの介入にすぎない、と。
また、こう考える人もいる。
ウサギは、助けを求めていなかった。
眠っている者は、
必ずしも困っている者ではない。
求められていない善意は、
ときに思いやりを装った支配になる。
さらに、こんな見方もある。
これはレースではなく、人生の縮図だったのだ、と。
「起こしてもらえる」と信じて走ることは、
優しさに包まれているようでいて、
自分で目を覚ます機会を先送りにしている。
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さて、最後にもう一つだけ、 残る問いがある。
神は、どちらを祝福するだろうか―――。
一度だけどうにか勝ったが、あとは二度と勝てそうもないカメか。
それとも一度は負けたが、何度でも走り直せるウサギか。

おそらく神は、
このレースを「教訓」として眺めてなどいない。
なぜなら、神は人間の事柄に関与せず、
個々の人の "自由意志" にまかせているからだ。
そもそも、勝敗に意味を与え、努力に徳を貼り、
安心できる物語に加工しているのは、
いつも人間の仕事であったのだ。
神が祝福したのは、勝者でも、敗者でもない。
たぶん、どちらの走り方も自由であり、
それぞれの者には適切だった――と、それだけのことだ。
弱った相手に手を差し伸べて一緒に走るのはさらにいい、
と思う人もいるだろうが、
それ以外は駄目ということでもない。

ただし、
どれかを「唯一の正解」に仕立て始めた瞬間、
この寓話は、少し窮屈になり、
"自由" という、人間最大の祝福は忘れられてしまう。
ニーチェは「神は死んだ」と言った。
それは、神への信仰が薄れ、
絶対的な価値観がなくなった時代、
人間は起きているのか、それとも立ったまま眠っているのか、
という皮肉な問いかけである。
※画像はGeminiによるAI生成です。
※画像はGeminiによるAI生成です。