言い訳というのは、なかなか侮れない。
人は「言い訳するな」と言うが、むしろ言い訳の中に、その人の "本音の影” みたいなものが見える。
影があるから形がわかるように、言い訳があるから人間性がわかるのだ。
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言い訳のソムリエ
僕が真実を失って、物語を手に入れた日
村上夏樹
僕の部屋の時計は、いつも締切の三時間後を指している。
壊れているわけじゃない。直す気にならないだけだ。
締切というものは、僕にとって、旧約聖書の預言みたいなものだ。読むぶんには興味深いが、実際に従うとなると、どうにも腰が引ける。
その夜も、僕は原稿ではなく、冷蔵庫の中を眺めていた。
冷蔵庫は誠実だ。「求めよ、さらば与えられん」なんて言葉があるけれど、冷蔵庫は求めなくても何かを与えてくれる。人間よりよほど優しい。
電話が鳴った。編集者の小野寺だ。
「村上さん、原稿は……」
「いや、あのですね」と僕は言った。言い訳というのは、僕の中で自然発酵する。ワインみたいに、勝手に熟成して、勝手に香りを放つ。
「未来の僕が来て、原稿を持っていったんですよ。未来で賞を取るために」
電話の向こうで、紙袋がしわくちゃになるような気配。小野寺は何も言わず、電話を切った。
僕の胸の奥に小さな空洞ができる。そこに夜風が吹き込む。
昔、何かで読んだ。「人は空洞を抱えて生きるために、物語を必要とする」と。なるほど、と思う。
そのときだ。部屋の隅で、本棚がかすかに軋んだ。
「やあ」と声がした。
古本屋の店主のような老人が立っていた。薄いグレーのコート、分厚い帳簿を抱えている。この世のものではない、という雰囲気があった。
「誰ですか」
「締切の神様だよ。君の言い訳を見に来た。天は自ら助くる者を助くというが、君の場合は言い訳のほうが助けを求めている」
帳簿には、僕の言い訳が細かい字でびっしり書かれていた。
「猫が哲学的反抗を始めた」とか「宇宙のリズムが、今日は “書く日” じゃない」とか。みな、ひどい嘘話ばかりだ。
老人はゆっくりと言った。
「いいね、じつにいい。もっとよくしてあげよう。ただし、才能はふたつ同時には持てない。言い訳を創造する才能と、物語を書く才能。どちらかひとつを選びなさい。光と闇を同時に掌に乗せることはできないのだよ」
部屋が古い礼拝堂みたいに静まり返った。
僕はしばらく考えてから言った。
「……言い訳の才能を残してください」
老人は目を細め、うなずいた。「やはりそう来たか。人は、自分のもっとも信じたい物語を選ぶものだからね」
カチリ、と僕の内奥でスイッチが切り替わる音がした。乾いた音だった。
翌朝、原稿を書こうとしたが、一行も出てこなかった。だが、言い訳だけは泉のように湧いた。
「昨夜、天使が来て、僕の文章を天国の図書館に寄贈したんです」
「キーボードがチャクラの乱れを感じ取って拒絶反応を起こしたんです」
「隕石が天井から降ってきて原稿用紙を直撃したんです」
言い訳が、自動書記のように勝手に書かれていく。自分でも笑ってしまった。
昼過ぎ、小野寺から電話が来た。
「村上さん、もう原稿はいいですよ。あなたの言い訳、全部まとめて本にしましょう。『世界の言い訳大全』。どうです?」
胸の奥の空洞に、なにか温かいものが流れ込んだ。
「……いいですね。それなら僕にも書けます」
「村上さん。書けますじゃなくて、もう書いてるんですよ。あなたの人生そのものが言い訳の物語なんですから」
電話を切ると、窓の外で鐘が鳴った。18時だ。ニコライ堂の鐘は音量が大きく、ガンガン頭に響く。人生を煽られる。
その音を聞きながら、僕はようやく理解した。
締切の神様が言っていた「光と闇を同時に掌に乗せることはできない」という言葉の意味を。
物語を書く才能を失った代わりに、僕は僕だけの “言い訳という物語” を手に入れたのだ。
言い訳は逃げ道じゃない。僕にとっては、世界を説明するための、もう一つの言語なのだ。
鐘の音は、締切の神様の笑い声にも、新しい章の始まりにも聞こえた。
どちらにせよ、悪くない音だった。
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人は誰しも、胸のどこかに言い訳の小部屋を持っている。
そこには、誰にも見せない弱さや、ちょっとした願望や、「本当はこうしたかったんだよな」という未練が、そっと置かれている。
言い訳という名の、もうひとつの言語。
それは、僕らが人生の中でいちばん自然に話してしまう “母語” みたいなものかもしれない。
そこには人間らしさがいっぱい詰まっていると思う。
※画像はCopilotによります。
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