「私」とは何か?

そんな疑問を持ち続けていました。

 

そんなとき。。。どういうかんじだったのだろうか?

 

何かするとき、「私」は存在していませんでした。

瞑想では、「私ではなくあなた」を尊重します。

 

 

現実で、私を取り戻す

経験によって取り戻し、自分の考えを取り戻す。

私にはそういう解釈をしています

抑圧で、押し込んできた感情やら自分の意見やらを取り戻す感じです。

 

 

反対方向のような感じですが、現実社会では自分の考えを尊重するということではないかな?と

どうしても、正しさを押し合って(おしくらまんじゅうのように)よし勝ったグッグラサン競争社会では普通ですが

実社会でそんな論争やらなにやらしていると、建設的な方向に向かないな~なんて思うことはしばしば

 

そして、勝った人だけの意見が尊重されるという負のスパイラル

 

劣等感とか、優越感とかの感情が出来上がります

上下関係や、正反対の感じ

 

それが続いてきたというかそんな社会が出来上がった結果、、、

 

哲学が好きでというか、哲学に助けられてきた私にとっては、哲学が味方してくれた経験が多数あります。

こんな私でも、そんな考えを持った人がいたんだな~と安心します。

 

どうやって、その感情が生まれてきて苦しみが出てきたのか?

その感情に苦しめられてきた過去で、なかなか前に進めなかったこともしばしば。。。

 

やはり、現実社会では、どこか雲隠れ生活ばかりではできない環境にある私は、哲学が必須だったといえます。

 

生活に、智慧=哲学を生かすことは、40代初めに人生の底にいたこともあってそこから、貪るように本を読み漁った経験が

あります。

潜在意識やら顕在意識やら意味の分からない言葉を、もがきながら理解するまで調べ漁ったこと笑い泣き波笑い泣き

今になってきて、経験共に腑に落ちてきたこと

哲学があったことはほんとに感謝しています。

 

そんなこともあり、「私」を取り戻す作業は意味があったといえます。

いわゆるプロセスを歩んでいる。

 

点が線になって、また点=私となる感じがしています。

 

私は苦しみがあると思うけど、その苦しみが生きている実感と感じている。

 

それぞれの歩みを尊重できるってすごいことだな~と

といっても相手のことはよくわからないから、そこですれ違ったとしてもそれも意味があるのかもな~と

今は漠然とした感じがあります。

 

欲を言えば、若いうちに出逢いたかったな~と笑い泣き

探し続けて半世紀、自分で見つける喜びもあると思えています。

 

 

被害者意識の謎は、次回にしようと思います。