家庭の中で

揉めてると

何回話し合っても


同じ

局面に

出会いますよね。


彼女は

忙しいにも

関わらず


これもあれもやってくれと

せがんできますが、

そもそも


間違いですよと

指摘された

部分で


立ち止まり

自分や誰かに

依存していくなら


そこは

やはり

回帰や


新たなる

別離的に

向かう場所でなくては


ならない。


その様な

説明が

あったか


学んだかを

ついこないだ

得た人が















解らない

知らない

という。


最初から

最後迄

ウルサイと


仰る。


残念です。


何故揉めない

秘訣を

教えて下さいと


よく尋ねられる

様になりました。

あなた達


あい変わらず

仲が

いいわね、と


そうでしょうか。


相手を尊重し、

傷つけ合わない

生活は


依存的では

ありませんよ。

むしろ、


その逆です。


ですから

個々が自立し

その後


いつもの様に

会い、

相手の嫌な事に


陥ったり

そんなあんなと

なってやしないか


わたくしも

後を見回して

警戒を示しています。


家族も大切な

他人様でございます。

私の兄も


その兄も

私の

最初の


他人様でございます。


親しき仲にも礼儀あり。

まだまだ

まだまだなのでございます。


疲れを抜く

一旦休む、戻る

待つ、待ちなさいとは


この様にございます。


全力を

尽くしても

私達には


帰る自分の家が

御座います。

自立した


生活の中で

新しく

得たいと家族が願うならば


当たり前ですが

何かに

すがるならば


安全で、

安心に

暮らす事以外には


思い浮かばないのです。


その中で

何度も

教わる中に


自分の甘え心で

絶対に負けては

ならない、


挫けては

ならない、

悲しむ、哀しみとは


どうして

それ以上では

いけないか。


甘んじずに

行えた事には

何故豊かな


暮らしが

待っているか。

私は普段の


お給料より

今月は天気に

恵まれず、


いつもより

20万〜40万程

少ない生活で


生活をしています。


当たり前ですが、

最初は

苦しかったんです。


しかし

ダラダラではなく

腹を据えて


これをやりましょう、

こちらから

やりましょう。


では、自分が、

ではこれは

明日の分に。


簡単では

無いのですが、

残るのです。


幸せが

私の胸に

与えられます。


苦しみから

放ち、痛みは

僅かで消え


私と娘には

僅かではありますが

希望が叶いました。


罪を消し去る事は

出来ませんが

罪を悔い改める事は


自分自身で

行えます。

自分で死を選ぶことも


罪です。


全てすぐに出来なくても

大人になるまで、

大人になっても


悪いとされる

習慣から

離れる事は


幸いです。


まだまだ

しっかりと

手にし、


それから

行える事が

誘惑や自分達の


助長となるものでは無く

地に足をついた

断固とした


期待される通りの

生活を得て

それから


楽しみを得る。


その前に

私達の目の前には

沢山の娯楽やサービスが


誘惑の様に

現れます。

胸が痛まない筈など


無いでしょう。


今日

あなたを思い

今日愛する我が子と


兄にも一糸報わず

死を選ぶ等

どうして出来ましょうか。


不出来な

あの子や自分の

手にできない


我が子を思い出すなど

どうして

叶うでしょうか。


それくらい

生まれた命は

尊いとされています。


彼が怯えた場所は

私達の痛みとは

別な場所であるよう


幸せをいつも

お祈り

致します。



 



 




 


 



貴方に

素敵な言葉と共に

健康が守られる場所


そこに

忙しい両親の姿も

見えなくとも


それをご覧に

なられております、

校長先生や街の


大人がおります。


酷く惨い

言葉は

お身体に堪えます。