フジモータースポーツミュージアムの企画展蘇える日本グランプリより今回はトヨタセブンです。

車内コードはS747、一般的には2代目とか5リッターセブンなどと呼ばれている。

 

 

1969年日本グランプリ出走車両で河合稔が隣に鎮座するニッサン382に対し1周遅れの3位になった車両です。

ただリヤウイングを装着したこのボディはその年の日本CAN-AMでやはり川合稔がドライブし総合優勝した仕様だ。

 

 

日本グランプリではレギュレーションでウイングの装着が出来なかったのだが、CAN-AMではOKだったのですね。

なので日本グランプリではリヤスポイラー一体のリヤカウルだったのですが。

始めからスポイラー無を前提としてウエッジ形状にしたR382に分があったという訳でしょうか。

勿論寸前まで仕様を隠し、1リッター多い6リッターエンジンにしてきたことが決定的では有ったようですがね。

なにのでこのスタイルがアメリカCAN-AMシリーズ挑戦を前提とした本来という事でしょう。

 

このボディ形状の制作には前記P5やP3といったレーシングカーを製作していたダイハツの風洞を使って決定されたという。

当時はまだダイハツはトヨタの資本下では無かったのですが関係は綿密だったようですね。

 

 

いかにも無駄のないスタイルは今見ても美しい、空力を追求してフォーミュラにフェンダー付けたようなLMPマシンよりもよっぽど流麗だ。

 

 

エンジンは79E型と呼ばれている5リッターV8で当然DOHC4バルブだ。

前年欧州選手権出場を前提に3リッターのセブンで出走し、日産が事もあろうR381にシボレー製5.5リッターを乗せて優勝をさらったのを教訓に。

当時F1でもスタンダードになってきたコスワースDFVを教材に5リッターに拡大し設計された物を搭載してきた。

製作したのはヤマハである、当時既にトヨタ2000GTを制作していたし。

3リッター時代からエンジンはヤマハ製である、なので79Eの依頼は必然的な物だった。

公称値は530PSだったのですがベンチテストで584 PS / 8,400 rpmを発揮したという。

この数値は当時アメリカCAN-AMの主流だったシボレーV8ユニットを凌駕しています。

 

という事でボディサイドには協力した各社のロゴが付いています。

 

 

エンジンのヤマハに空力のダイハツと。

NDは日本デンソー、そう電装関係は既に系列会社だったこちらが担当しています。

もう総力戦といった感じ。

 

 

両サイドのラジエターと共にリヤ中央のオイルクーラーが高性能の証だ。

薄く見事なリヤスポイラーは芯材こそアルミパイプだが桁材はバルサ材で有るという。

こういったつくりにも当時の技術者、いや職人の技が判りますね。

 

 

スクリーンが非対称ですがちゃんと2シーターになっている。

ヘッドレストが無いのが今では信じられませんがこれが当時の仕様だ。

 

 

バックスキンが巻かれた細いステアリングにタコと水温、油温に燃料計です。

こんなので富士スピードウェイの30度バンクへ300キロで突っ込んでいたのですから相当な度胸が必要だ、当時のレーサーは本当に死と隣り合わせだったのをひしひしと感じます。

先日のF1での角田祐樹の予選クラッシュでも怪我一つなかった今のカーボンファイバーシャーシにはテクノロジーの差を実感じますよね。

 

 

69年の日本グランプリの結果は日産が経営統合したプリンス自工の技術を、いや隼や疾風や誉を作った中島飛行機の技術が数歩先を行っていたという事でしょうか。

とはいえこの年の勝敗は例の日産の極秘戦略によるものというのが殆どだと思うのですが。

381に搭載されたシボレー5.5リッターエンジンを自社製のGRX-1という5リッターエンジンに換装したR381Ⅱは当初このS747には敵わなかったですからね。

R382にGRX-3と呼ばれる6リッターエンジンを積んだものが発表されたのは日本グランプリのたった2日前でした。

 

日本グランプリでの敗退を基にこのエンジンにギャレット・エアリサーチ社製のディーゼルトラック用のターボチャージャーユニットを付けた怪物ターボセブンが登場するのだが、開発中での川合氏の事故死による社会問題(当時婚約していたタレントの小川ローザさんとの関係で各週刊誌に大々的に取り扱われた)に、オイルショックと排ガス規制のダブルパンチによる事態により一気に各メーカーはレースから撤退してしまいます。

 

S747が走っていた頃私は小学生でした、車が特にレーシングカーが大好きでした。

当時はテレビでリアルタイムで放映していたし、ゴールデンタイムにダイジェスト版も放映していました。

父も好きだったのでそれらは必ず見ることが出来ました、興味のない母親だって生沢氏の顔と名前は知ってましたしね。 

 

さて、次回は勿論ニッサンR382です。

現在はどうなってしまうのかの同社ですが、本当に技術のニッサンだった時代のマシンを乞うご期待です。