さい、いよいよ全国3000を超えるという熊野神社の総本宮、熊野本宮大社です、、。
それは昔の旅籠の面影を残す町並みの国道の脇に突然現れた、、。思わず通り過ぎそうなくらいである、、。
ここは良心的に駐車場は無料、ゆっくりと参拝することが出来ますねー、。
参道中央は神様が通られる道なので、我々は端を上がって行きます、。

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ここも伝説の鳥、八咫烏がシンボルになっています、、。山道は石段ですがそれ程の距離でもなさそうですね、。
でも石段途中にはベンチが置いてありお年寄りは一服しながらゆっくりと上がって行きます、、。
石段右わきに参拝処があり、先ずはここで参拝してから入場をとの事です、、。
社殿は各神ごとに分かれているのですが、これ全部回ると10か所くらいになります、、。
本殿よりおまいりしていきます、。

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これまた荘厳な佇まいです、、、。ですが手前に写っている家族連れがまあ、このような場所ではしゃいで写真撮ってます、、。睨みつけて合図したら自らの愚行が分かったかそそくさと帰って行きました、全くです、。
ここには6神が奉られていて、順番が有ります、。2礼2柏1礼と、順番通りに拝礼してまいりました、。

熊野詣は平安時代に貴族の間で流行したようで、。上皇(引退した天皇)や后などがこぞって参拝に来たのが資料に残っています、。
あの後鳥羽上皇は28回も詣でておりますし、後白河上皇に至っては何と33回も詣でています、、。当時は熊野古道を歩いての行脚で、それ自体が修行と、。にしてもこのお二人はかなりご健康だったのでしょうねぇ、、。

現在の本宮は明治24年に創建されたもの、。元の熊野本宮大社は熊野川の中州に有って、上四社、中四社、下四社の荘厳な社殿が立ち並んでいたという、。
明治22年の水害により流されて、現在の中腹に遷宮されて現在に至ります、、。なので現在でも大斉原という中州に高さ33.9メートルと言う大鳥居が立っているのです、、。

ちなみに全国に広がる熊野神社ですが、その数全国2位の県が千葉県なのだ、。これは漁業の繁栄に従い遠くまで出漁することにより発見した、。ここ紀州と似た地形の地、房総半島へ移住した方が多かっと言うのが真理のようで、。勝浦や白浜と言った同名の地が有るのがその証です、、、。



さて、熊野川沿いに国道を下って新宮へ戻ります、。次は熊野速玉大社です、、。
そこは国道を脇道に入った、熊野川のほとりに、割とひっそりとした場所に突然あった、、、。

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これまた素晴らしい社殿だ、。
神倉山の山頂に鎮座する巨石に神々が降臨したと、。ゴトビキ岩と言うご神体を山麗の現在の地に遷座したという事で新宮と言う地名になったという、。
現在でもご神体のゴトビキ岩には神倉神社が奉納されており538段の石段を上がると御参拝可能と、当然行きませんでしたが、このご神体は新宮の町中より見ることが出来るんですね、、。御神体に見守られながら生活している新宮の方々は、当然皆さん良い方ばかりでしたよ、、。


さて、これで熊野三社に参拝することが出来ました、。願ったのはね、、、やっぱり世界平和ですよ、、。
自分のちっぽけな願いよりも、皆が安泰に過ごせる世界、これしかないでしょねー、、、。
見所はもっと沢山ありますし、色々と勉強できたこともありました、、。

高野山ではあの供養塔の並ぶ参道に、なんと浄土宗の開祖、法然の供養塔が有り、。元は天台宗の僧侶だった法然もご供養してしまうという高野山の懐の深さに灌漑の思いを感じ、。
熊野本宮ではその浄土宗の僧侶で時宗の開祖、一編が熊野を中心として活躍していたという事など、(明治以前は神教と仏教の境が無かった)や、。
前記しましたが、日本サッカー協会のシンボルの八咫烏が、。当時前身の大日本蹴球協会の理事であった現筑波大学教授内野台嶺氏がこれを選出し、彫刻家日名子実三氏がデザインし、正式にシンボルとしたのが昭和6年と、。以来これが現在にまで引き継がれていることなど、。
現地に行かなければ中々判らない事も色々と知ることが出来ました、。



このような仕事にかけた旅は時間が有る限り(予算ももちろん)やっていて、つくづくフリーランスな身をありがたく思います、(ても金は無しですが)、、、。
美味しい物も沢山食べたし、実に有意義な高野山、熊野詣でした、。ありがとうございました、、。