pnr_RYUSEIくんについて(3) | ランニングとフライトシミュと・・・♌スフィンクスのホロスコープ☄

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星好きな市民ランナー 兼 バーチャル・パイロットの日記、フィクション、タワゴト、ちょこっとボランティア

今までご紹介してきました、斉藤国治氏は「古天文学」(現代では
「考古天文学」と言った方が通りがいいでしょう。)の我が国での
先駆け的な人物です。それも、1974年に現役引退(東京天文台
を退官)された後に研究に入ったといいます。

 

しかも、氏はタイミングよく、今では絶版となっている「ノイゲバウエ
ルの数表」や「ショッホの数表」など、貴重な古典的資料を手に入
れて古代の天体位置推算法を習得されました。

 

氏によれば、太陽・月・5大惑星・周期彗星の位置推算はある種の
数式を用いれば、古代に遡るだけでなく現代までも適用できると
述べています。

 

そこでまず、古代に起きた日食を斉藤氏の数式を用いて推算した
いと思います。

 

氏が著書「古天文学」の中で、「漢書 天文志に漢都長安で、高后
7年正月己丑(つちのとうし)朔(ついたち)に日食があったという記
述がある」と述べ、それは現代の暦で紀元前181年3月4日の14時
42分(長安地方平均時)であったといいます。

 

これは、「史記」にも記述があるようで、前漢時代に専制政治を行っ
た呂后(高祖劉邦の皇后で恵帝の母)は、恵帝が没した後、劉氏
一族を次々 と謀殺していき、勢力を強めていったとされます。
その矢先に日食が起こり、周囲の者に「私のせいだ」と言って不安
を感じ、祭壇を造らせて厄払いの儀式を執り行ったといいます。

 

著書「古天文学」のなかでは、日食の詳しい計算結果について記載
が無いので、『pnr_RYUSEIくん』で推算しました。

(長安の位置を東経108.9°、北緯34.3°として計算)


そのシミュレーション結果が下のグラフィックです。

日食の推移を皆既日食となる10分前から10分後まで3コマに分け
て拡大表示をしています。(青が月で赤が太陽)

 

左上の西暦年が-181年でなく、-180年となっていますが、これは
歴史学上では’紀元0年’が存在しない(紀元1年の前年は紀元前1
年となる)ためです。正しく計算するためには紀元前の場合は1年
プラスしなければなりません。

 

図のとおり、14時42分に太陽が月に全部隠れて皆既日食となった
ことが推算されています。

このときの主な数値(2番目の図の左部分)は以下のとおりです。

 

●太陽  天球上の位置:赤経=342.258° 赤緯=-7.627°
       視半径=0.2663°

●月    天球上の位置:赤経=342.262° 赤緯=-7.624°
       視半径=0.2737°

 

視半径の数値からわかるとおり、月のほうが太陽よりも0.0074°大き
く赤経・赤緯の位置の差がそれよりも小さいため、すっぽりと月に隠
れています。

 

このときの現地の地平線上での見え方は下のようになります。
赤丸の箇所に青い月が映っています。(太陽は隠れて見えません。
大きさは実視直径よりも大きくしています。)

現地時刻が午後3時前ということで、月と太陽の高度は35.43°と若
干低めですが、晴れていればよく観察できたことでしょう。


この計算により、呂后が死去する前年に皆既日食が、漢都長安の
地で実際に起きたということがわかり、古代に編纂された文献の記述
の信憑性が高まるという訳です。


月と太陽の見かけの直径は、上記の視半径の2倍ですが、1°の半
分程度しかありません。天文現象の計算がいかに微妙なものかがわ
かります。

 

斉藤国治氏の著作は、他に『飛鳥時代の天文学』河出書房新社、
『国史国文に現れる星の記録の検証』雄山閣出版、『定家『明月記』
の天文記録 古天文学による解釈』慶友社など、日本の歴史書に関
するものが多く、外国の文献に比して天文記録が乏しい我が国の古
代文献記事の年代特定に寄与されたことに敬意を表します。

 

次回は、最近起きた天文現象のシミュレーションについてお伝えした
いと思います。

 

 

※このテーマの記事は、都合により
 「です・ます調」で投稿しております。

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