最後のハンカチ

第10章:声でつながるフィールド

タカシは冬のラグビー場に立っていた。冷たい風が頬を刺し、仲間たちのスパイクが芝を踏む音が響く。ボールが弾む音、顧問の笛の音。それらの中で、タカシの胸には別の声が残っていた――母の言葉だ。

「伝えたい時に、伝えなさい。」

その言葉を最後に、母は帰らぬ人となった。感謝を伝えたかった。もっと話したかった。けれど、もう遅い。後悔がタカシの心を締めつける。

だからこそ、彼は決めた。仲間には、後悔させない。試合で、練習で、声を届けることの大切さを伝える。

 

練習が始まる。スクラム、ラインアウト、パス回し。だが、タカシの耳に届くのは沈黙だった。

「コーリングがない…」

誰も声を出さない。自分が何をしたいのか、何をするのか、何をしてほしいのか――それを言葉にする者はいない。

タカシは思う。

「いい、ダメでもいい。声を出すことが大事なんだ。黙っていては、何も伝わらない。」

彼は仲間に話しかける。

「もっと声を出そう。『ナイス!』『そこ違う!』って言おう。それが理解につながるんだ。間違っていてもいい。話すことで気づけるんだ。」

顧問の方針もそうだった。理解していない者は、言葉にできない。説明できることが、本当の理解だ。

タカシは続ける。

「試合は限られた時間しかない。だから、練習から意識しよう。今、ここで声を出そう。」

 

その言葉に、仲間たちの心が動いた。最初はぎこちない声だった。

「ナイスパス!」

「タカシ、右に!」

「ディフェンス寄れ!」

声が重なり、フィールドに熱が生まれる。勘違いや思い違いが洗われていく。プレーの精度が上がり、チームの理解度が深まる。

タカシの胸に、母の面影が浮かぶ。涙がこぼれた。

「伝えたい時に、伝えなさい。」

その言葉が、今、仲間に届いている。

顧問は遠くからその光景を見て、にんまりと笑った。

チームは一つになった。声が、心をつないだのだ。

 


最後のハンカチ 

第9章:まるはなぜ3番

夏の午後、スクラム練習の掛け声がグラウンドに響いていた。

「押せ!もっと腰を落とせ!」顧問の声が飛ぶ。

まるは額の汗を拭いながら、必死に前へ押し込む。しかし、スクラムは崩れ、悔しそうに顔を歪めた。

「まる、上半身で押すな。丹田で押せ。」顧問が低い声で言う。

「下半身を使え。横の仲間とのバインドを意識しろ。後ろからの押しを前へ伝える姿勢だ。」

まるは黙って頷いた。

練習後、顧問がまるに問いかける。

「なぜお前が3番かわかるか?」

「身体がでかいから…ですか?」まるは答える。

顧問は首を振った。

「違う。3番はスクラムの一番前、タイトヘッドだ。相手の両方から頭を挟まれる。逃げ道がない。スクラムの大黒柱、これがしっかりしないとスクラムは安定しない。押せもしない。我慢、最も忍耐が必要なポジションだ。」

顧問の目が優しく光る。

「まる、お前は穏やかで安定した動作ができる。包容力がある。うちのチームで3番を任せられるのはお前だけだ。よろしくな。」

その言葉に、まるの胸に熱いものが込み上げた。

「はい…やります!」

それからのまるは変わった。練習への姿勢が一段と真剣になった。

その様子をトビがからかいながらも、ふと真剣な眼差しに気づいた。

――馬鹿にできない。

トビは自分のプレーの軽さを恥じ、反省した。

タカシはその光景を見ていた。

――チームは、互いに影響し合っている。

良いベクトルが生まれていることを、タカシは感じていた。

 


最後のハンカチ

第8章:再びグラウンドへ

夏合宿まで、あと一週間。

タカシは部屋で静かに座っていた。机の上には、母が畳んだ最後のハンカチ。

そのとき、姉がドアを開けて言った。

「そろそろキャプテンも練習に戻らないといけないんじゃないの?」

その言葉に、胸の奥がざわつく。

夜、父が低い声で言った。

「最後まで役目、責任は果たせ。人の思いを無碍にしてはいけない。葬儀の夜、集まってくれた仲間…きっと待っている。その気持ちのままにさせていいのか。」

タカシは黙って頷いた。

――想われるありがたさ。

――想いへの感謝。

――その想いに報いるために。

翌朝、タカシはジャージを手に取った。

「戻ろう。」

その一言が、心の奥から湧き上がった。

夏合宿一週間前、タカシはグラウンドに立っていた。

「キャプテン、おかえり!」仲間の声が響く。

追い込みの練習が始まる。汗が流れ、息が切れる。

でも、タカシの胸は軽かった。

――この場所が、俺の居場所だ。

仲間とともに、前へ。