幽霊は意外に姿勢がいい
今日から8月、浴衣姿の似合う季節になりました。
花火大会など若い女性がだらだらと着ているのも興醒めなのですが、
知人の非常に細身の女性が浴衣を着ると幽霊みたいになってしまうのが残念で、
何でそう見えるのだろうと、掲題の仮説を立ててみました。

そんじゃあ、幽霊画を見て実証してみるかと
東京台東区谷中の全生庵で本日から催されている「円朝コレクション幽霊画展」を見に行きました。

この寺は幕末の幕臣・山岡鉄舟が幕末・維新に斃れた人々の菩提を弔うため建立したものだそうで、鉄舟と、彼に縁のあるこれまた幕末・明治期の落語家、初代三遊亭圓朝の墓石もあります。

圓朝は、今活躍している人の2世代位前の落語家が口を揃えて真の名人だったと称える人であり、今の人に例えると…という聞き方では比較することが出来ない、いや比較することを考えるすら畏れ多い、とにかく大名人だったといいます。
創作においても人情噺や怪談「牡丹灯篭」「真景累ヶ淵」など、また海外の説話の翻案「死神」を噺にするなど業績は計り知れません。
この圓朝が生前コレクションしていた幽霊画50幅が当寺に所蔵されているそうで、今日は本堂の一角の展示室に39幅が展示されていました。
勿論写真撮影禁止なので、ここからは拙い文面でお伝えしますが、
まず圓朝自身の洒脱なシャレコウベの画が掛けられほっとすると、次に「後妻打(うわなりうち)」なる画題の一幅に度肝を抜かれます。
先妻が夫を奪った後妻の(恐らく夫も)の死後なお恨み消えず、後妻の骨を棒で打擲してるという、物凄いテーマの画です。
それを皮切りに江戸中期から明治期の画が並んでおり、よくぞこれだけ個人で集めたものだと感心します。
これら日本の幽霊画の礎は江戸中期の絵師・丸山応挙が「足のない幽霊」を描いたこと、と言われます。
コレクションにも応挙の筆と言われる一幅があります。落款はありませんがそれでも応挙の筆と言われます。
「言われる」としつこく書きましたが、これは世の中に真筆と証明できる画が実は殆ど見つかっていないからで、「応挙の幽霊画自体が幽霊」という状況を楽しむという世界になっています。
真筆かどうかはさておき、「応挙の幽霊画」が後の数々の画の基本になっていることはコレクションからも見て取れます。
画は撮影できませんが、3枚組の絵葉書を買って来ましたのでちらっと…

3枚持った左の物が応挙の画で、今の画法から言えばデッサンの狂いはあるのですが、顔立ちの気品は後世の追随を許していません。
「足がない」のは香の煙で曇って見えないように描いたからで、展示物には足のある幽霊もあります(幽霊と生霊の違いという話もあります)。
絵師もなかなか描きたがらない題材ですが、「応挙」以来色んな絵師が色んな趣向でぞぞっとする画を描き、西洋画の影響も受けた物もあるなど、見て回って面白いものです。
画に添えられた解説文がまたよく、見どころをゆっくり見て回れます。
ひとしきり拝観し終わって寺の方と雑談したとき、何でこんな恐ろしい画の需要があったかというと、江戸時代から稀に伊勢講など長く家を空ける事があり、その間留守宅に忍び込む盗人を追っ払う目的があったという説がある、とのこと。
無論町人の家屋には床の間などなく金も置いてないですから、少し金を貯めた人の用心の為なんでしょうね(そして絵師に頼めるだけのお金のある)。
電球の無い時代、蝋燭を頼りに忍び込んで行った先の床の間で、こんな怨み篭った幽霊と目が合った日にゃ、小悪党は震え上がったことでしょう。粋な防犯システムです。
掲題の件ですが、幽霊は首を垂れてはいますが、背中は特に猫背でなく、西洋の例えばゾンビの様にだらっとした容姿ではないです。
体がきりっとしている分、首を垂れた目遣いに一層凄みを感じる、そういった嗜好のようです。
見終わって帰るときには何も怖くなかったのですが、今になって例えば木の桟橋に向こう向きに腰掛けて、こちらを振り向こうとして向ききってない横顔の構図なんか思い出して震えてます…
○全生庵
東京都台東区谷中5-4-7
東京メトロ千代田線千駄木駅下車
団子坂口を出て緩い三崎(さんさき)坂を5分ほど登っていくと左手にあります。
○円朝コレクション幽霊画展は
時間:午前10時~午後5時
拝観料:500円
圓朝忌(8月11日)前後には落語協会などによる催しがあるようです。
詳しくは8月の催事のページを参照下さい。
花火大会など若い女性がだらだらと着ているのも興醒めなのですが、
知人の非常に細身の女性が浴衣を着ると幽霊みたいになってしまうのが残念で、
何でそう見えるのだろうと、掲題の仮説を立ててみました。

そんじゃあ、幽霊画を見て実証してみるかと
東京台東区谷中の全生庵で本日から催されている「円朝コレクション幽霊画展」を見に行きました。

この寺は幕末の幕臣・山岡鉄舟が幕末・維新に斃れた人々の菩提を弔うため建立したものだそうで、鉄舟と、彼に縁のあるこれまた幕末・明治期の落語家、初代三遊亭圓朝の墓石もあります。

圓朝は、今活躍している人の2世代位前の落語家が口を揃えて真の名人だったと称える人であり、今の人に例えると…という聞き方では比較することが出来ない、いや比較することを考えるすら畏れ多い、とにかく大名人だったといいます。
創作においても人情噺や怪談「牡丹灯篭」「真景累ヶ淵」など、また海外の説話の翻案「死神」を噺にするなど業績は計り知れません。
この圓朝が生前コレクションしていた幽霊画50幅が当寺に所蔵されているそうで、今日は本堂の一角の展示室に39幅が展示されていました。
勿論写真撮影禁止なので、ここからは拙い文面でお伝えしますが、
まず圓朝自身の洒脱なシャレコウベの画が掛けられほっとすると、次に「後妻打(うわなりうち)」なる画題の一幅に度肝を抜かれます。
先妻が夫を奪った後妻の(恐らく夫も)の死後なお恨み消えず、後妻の骨を棒で打擲してるという、物凄いテーマの画です。
それを皮切りに江戸中期から明治期の画が並んでおり、よくぞこれだけ個人で集めたものだと感心します。
これら日本の幽霊画の礎は江戸中期の絵師・丸山応挙が「足のない幽霊」を描いたこと、と言われます。
コレクションにも応挙の筆と言われる一幅があります。落款はありませんがそれでも応挙の筆と言われます。
「言われる」としつこく書きましたが、これは世の中に真筆と証明できる画が実は殆ど見つかっていないからで、「応挙の幽霊画自体が幽霊」という状況を楽しむという世界になっています。
真筆かどうかはさておき、「応挙の幽霊画」が後の数々の画の基本になっていることはコレクションからも見て取れます。
画は撮影できませんが、3枚組の絵葉書を買って来ましたのでちらっと…

3枚持った左の物が応挙の画で、今の画法から言えばデッサンの狂いはあるのですが、顔立ちの気品は後世の追随を許していません。
「足がない」のは香の煙で曇って見えないように描いたからで、展示物には足のある幽霊もあります(幽霊と生霊の違いという話もあります)。
絵師もなかなか描きたがらない題材ですが、「応挙」以来色んな絵師が色んな趣向でぞぞっとする画を描き、西洋画の影響も受けた物もあるなど、見て回って面白いものです。
画に添えられた解説文がまたよく、見どころをゆっくり見て回れます。
ひとしきり拝観し終わって寺の方と雑談したとき、何でこんな恐ろしい画の需要があったかというと、江戸時代から稀に伊勢講など長く家を空ける事があり、その間留守宅に忍び込む盗人を追っ払う目的があったという説がある、とのこと。
無論町人の家屋には床の間などなく金も置いてないですから、少し金を貯めた人の用心の為なんでしょうね(そして絵師に頼めるだけのお金のある)。
電球の無い時代、蝋燭を頼りに忍び込んで行った先の床の間で、こんな怨み篭った幽霊と目が合った日にゃ、小悪党は震え上がったことでしょう。粋な防犯システムです。
掲題の件ですが、幽霊は首を垂れてはいますが、背中は特に猫背でなく、西洋の例えばゾンビの様にだらっとした容姿ではないです。
体がきりっとしている分、首を垂れた目遣いに一層凄みを感じる、そういった嗜好のようです。
見終わって帰るときには何も怖くなかったのですが、今になって例えば木の桟橋に向こう向きに腰掛けて、こちらを振り向こうとして向ききってない横顔の構図なんか思い出して震えてます…
○全生庵
東京都台東区谷中5-4-7
東京メトロ千代田線千駄木駅下車
団子坂口を出て緩い三崎(さんさき)坂を5分ほど登っていくと左手にあります。
○円朝コレクション幽霊画展は
時間:午前10時~午後5時
拝観料:500円
圓朝忌(8月11日)前後には落語協会などによる催しがあるようです。
詳しくは8月の催事のページを参照下さい。