え~と、昨日の続きです。
あらすじを書くつもりはやっぱりないので、大雑把に流します。
奥寺は転落した北澤を探しに向かうが、骨折してまともには動けず体力的にも限界の状態にある北澤を探すなど容易ではない。悪天候の為に無線が途切れ、スタッフも二人共に絶望かとあきらめかけた時、鬼のような形相で目を見開いたまま奥寺は戻ってきた。一人だけの生還。
帰国後の記者会見で、「北澤の転落原因は何ですか」と問われる。ヤシロ側はこれから究明しますと(確か)答えるが、直接マイクを向けられた奥寺は友の名誉の為「カラビナが壊れたんだと思う」と答える。北澤が初歩的なミスをするわけがないと言い切るのだ。ちなみに、カラビナとは命綱をつなぐフックの事で、これが壊れたのだとしたらどんなベテランでも転落は避けられない。この奥寺発言が大いに物議をかもす。
ヤシロとしてはたまったもんではない。K2プロジェクトを成功させて業績を伸ばす算段が、プロジェクトが失敗に終わって犠牲者を出したばかりか、自社製品に欠陥があるとまで取られ兼ねない発言。
以下、ドラマは発言の「撤回を求めるヤシロ」と「友の名誉を死守する」奥寺の裁判になだれ込む。この裁判では、カラビナを提供したヤシロ側に「落ち度はなかった」と証明する為、周囲の人たちを傷つけるドラマが展開される。現場には奥寺と北澤の二人しかいなかった。奥寺が単独登頂を目論んでいなかったのかとか、骨折した北澤は自殺したのではないかとか、北澤と美那子の不倫が暴露され、更にカラビナの耐久テストの結果がヤシロ側の主張どおりに示されると、奥寺は次第に窮地に立たされる。係争中、ヤシロ側は示談に応じるよう奥寺を説得にかかるが、彼は頑なに拒否する。そんな中、奥寺は次第に美那子への思いを募らせ、美那子もまた、奥寺に傾いていく。
で、・・・結局は約1年後か?北澤の遺体が発見され、残されたメモから真相が明らかになる。北澤は奥寺の足手まといになるのを嫌い、かつてK2行きを決めた日に取り交わした約束である「俺がぶら下がった時は迷わずザイルを切れ!」を守り、みずからカラビナを解いたのだった。奥寺が和解に応じ、裁判は終わる。奥寺は発言を撤回し、山岳雑誌に謝罪広告を掲載する。
全てを捨てて奥寺のもとに身を寄せた美那子だが、北澤の遺体が回収された途端、亡霊に悩まされる奥寺の姿を見て?夫の元に帰る決心をする。
このドラマで描かれたものは何だったのか?
山には魔物が棲んでいるというが、その魅力に取り付かれたものは友や愛する人をも犠牲にする事を厭わないということか?従って美那子に惚れた北澤も奥寺もクライマー失格で、そういう「クライマーである前に一人の人間だという」そういう部分だったのか?
或いは、ロマンがどんなに大きかろうと、大企業の存在の前にはちっぽけな感傷でしかないという「夢と現実のギャップ」なのか?山岳アドバイザーとして成功を収めていたかに見えた北澤が、奥寺に吐露する場面がある。「お前を助けてヒーローに祭り上げられた時、俺は苦しくて仕方がなかった。本当は、『俺はザイルを切ろうと考えていたんだ』『ヒーローなんかじゃないんだ』それをお前に言いたくて、でもずっと言えなかった」マスコミの前ではヒーローでいた方が収入は安定する。それは友人を利用した形であり、しかし資金面でのバックアップがなければ難関に挑戦するという夢の実現もままならない。現実は厳しい。
僕が思ったのはこうだ。
太宰治の「走れメロス」を持ち出すまでもなく、友を信じるという友情は崇高な精神だと言える。打算でなく、施しでなく、依存でもなければ利用でもない。ただ純粋に信じる事。奥寺は北澤の技術を信じたから「ミスはなかった」と言い切り、彼の言葉を信じたから「美那子の為にも自殺はあり得ない」と考え、北澤の男気に惚れていたから「名誉を守り」通した。しかしながら、その『崇高な精神』は周囲に様々な波紋を呼び起した。ヤシロの業績に影響を与え、美那子のプライバシーを暴き、カラビナ製造を請け負う美那子の兄の生活を脅かした。裁判の為に、ベースキャンプにいた奥寺の先輩に偽称をさせる結果を招き、ヤシロが強硬手段に及び、奥寺の雇用主は仕事を干され、自らも生活苦に陥る。いい事などひとつもない。
では、奥寺は記者会見でただ黙っていればよかったのか?
「わかりません」とだけ言えばよかったのか?たとえそうでも、いずれヤシロは落ち度を認めず、そうなれば北澤のミスが原因だとされただろうしすると黙ってはいられなかったはずだ。
北澤は手記に書いている。「K2から戻ったら山を降りる」と。「本気で愛する人ができたらクライマーは山を降りるしかない」と。しかし、死の危険と隣り合わせにある難関に挑む『崇高な精神』にこそ女は惚れるのだ。逆に、自分の生きがいであるネイルサロン経営に打ち込み、美しく輝いている美那子にこそ男も惚れた。
そういう風に考えていくと、この作品は非常によく出来ていると思う。原作は読んでないから、ドラマ版では当然違う面もあるのだろうが、ある意味ドラマの中での『崇高な精神』に酔った。もし現実にこれと同じシチュエーションがあったら、大半の、いやほとんどの人が現実に流されるはずだ。とすれば、作り事のなかにしか『崇高な精神』はないのか?いや、そんな事はない。最後に北澤の死の真相を教えてくれたではないか。北澤は『崇高な精神』によって自ら命を絶っている。奥寺の思いはちゃんと共鳴していた。「あいつとのザイルは切れてない!」のだ。奥寺が亡霊に悩まされたのは、『崇高な精神』がずたずたになっていて、もう押し潰されそうになっていたからだ。北澤が信頼に足る男だった事を知って、逆にパニックに陥ったのだと思う。
現実はドラマのようには行かないが、誰の胸にも『崇高な思い』は宿っている。ちゃんと奥寺を引っ張り上げた(「信念を貫いた孤高のクライマー」なる記事)結末は、どろどろとした現実の沼にはまりかかっていた奥寺をすくい上げてくれた。
金銭欲に任せて拡大幻想に取り憑かれ、自己の欲求をひたすら満たそうとする風潮。社会との関わり合いの中に個があることはほとんどないがしろにされている現代。
奥寺の精神を忘れたくはないものだと思う。そういう「きれいごと」ではご飯は食べられないし、もちろん煮ても焼いても食えないが、人として、そのカケラくらいは持っていた方が人間らしく生きられるという気がする。