夏ドラマがそれぞれ最終回を迎えており、秋に始まるドラマの番宣もちらほら流れ出した。今回のクールで僕が観たのは計4本。まぁそれなりに楽しめたが、TBSの「山田太郎ものがたり」に関して、思うところがあるので書く。


もともとこの作品はマンガを原作とするコメディ。6人の兄弟達と、病弱でまともに働けない母親を長男がアルバイトしながら支えている超貧乏一家のお話。その長男が通う高校では、イケメンの上にスーパー優等生であるという理由だけで(何の根拠もないのに)「お金持ちのお坊ちゃま」だと勘違いされている。勘違いしている周囲と、勘違いされている事など意に介さない、いや勘違いされている事すら感づいていない主人公の間には認識の違いによって様々なドタバタが巻き起こるというわけだ。ばかばかしいが、本人を含めて周囲のキャラクターも能天気だから独特の筋が一本通っていて、その世界観はうまく統一されていたと僕は思う。


二宮和成(山田太郎)の演技は期待通りものだった。優等生だからといって肩肘張らず、貧乏だからといって卑屈にならず、まさに「わが道を行く」超マイペースキャラをふうわり演じていた。この二宮君と、もう一人は田部未華子に期待していた。負けず劣らずのばかっぷりが笑えた。百面相と言っていいくらいのバラエティに富んだ表情と、毎回数度衣装がえをして出てくるコスプレと。


こういうコメディは、ややもすると「くだらない」と感じて途中で観る気が失せるのでは?と心配していたんだが、微妙な均衡を保ちながらとうとう飽きることなく最後まで観る事ができた。この作品を観ていると、なんだか妙な懐かしさを覚え、そうして、どこか昭和の香りを感じていた。平成の世にいながら、現代を舞台にしていながら、何故か時代を遡ってタイムスリップした感覚を感じていた。そうして気づいたわけだ。


山田太郎はウルトラマンなのだ、と。だから懐かしかったのだ。だから昭和なのだ。


M78星雲からやってきたウルトラマンは、初めから地球防衛を目的として飛来したわけではない。違う理由で来たのに、どういうわけか地球に留まってその地(もちろん主に日本)を守る為に怪獣と対峙する。僕の記憶を辿ってみる。

まずウルトラマンはベムラーを追いかけて地球にきた。そうしてパトロール中だったハヤタ隊員に誤って激突して彼を死なせてしまう。ハヤタを死なせたウルトラマンはそれを「申し訳なく思い」、ハヤタに乗り移り、地球に留まる事を決意する。

ウルトラセブンにしろ、帰ってきたウルトラマンにしろ、やはりその死を(単なる事故だったにも関わらず)申し訳なく思って地球防衛を決断するのだ。宇宙を舞台に活躍する、或いは全く別個の星に住むウルトラマンが、よその星に住む(彼らにとっての宇宙人となる)赤の他人である地球のたった一人の人間の為に、自らを犠牲にして地球防衛を行なう。そこには正直言って何の理由もない。「ハヤタを死なせたから」というだけではあまりにも釣り合いがとれないのだ。

しいて言うなら、そこにあるのは博愛の精神であり、博愛主義に則って、ウルトラマンは地球を守るのだ。初代ウルトラマンからセブン、新マンと続くウルトラシリーズが人気を博したのは、その博愛主義に基づいて地球を守る姿が時代にマッチしていたからだと思う。あの時代は高度経済成長のただなかにあった。強いものが弱いものの味方をして、頭のいい子はそうでない子に勉強を教える。自分の得意な事は、そうでない人の為に進んで使う労を惜しまない。現実にはそうでないケースもあったろうが、そういう博愛の精神は万人の胸に共通していたと思う。何故なら、日本は丸ごと日ごとに成長していた時代だったから、皆が手を取り合って「豊かになる」という目標を目指していたからだ。


では、現代を振り返るとどうだろう?万人の共通の目標なんて今やどこにもない。皆が手を取り合って豊かになるなんて幻想もいいとこ。家庭には自分用のテレビがあり、携帯電話があり、個別の付き合いだってあるからお互いに干渉しない。学校に行けば、クラス内では固有のグループが出来ていて、それぞれが閉じたコミュニティを形成している。学園祭や体育祭では「仕方なく」「流れに沿って」仲良しを演じる。博愛の精神なんてちょっと見当たらないんじゃなかろうか?


太郎は山田家の長男。小さな弟や妹を可愛がる気持ちはわかるが、家計を支える為に自分の時間を削ってアルバイトに勤しみ、病弱な母親に代わって家事をこなす太郎の姿は平成の世から考えると違和感を拭えない。兄弟たちと歳が離れているとはいえ、あそこまで頑張る必要はないはずだ。父親はどうした?が、その父親は「世界を旅する放浪の画家」であり、家庭を全く顧みない存在。そうして、それを誰も(太郎自身も)咎めようとはしないのだ。経済的に家庭を支えようという考えを全く持たない父親を誰一人非難する者はない。生活保護を申請すべきだろう。

そんな太郎の存在は、彼がウルトラマンだと思えばすんなり合点がいく。博愛の精神に強く裏打ちされた兄弟愛と家族愛を持って、太郎は今日もバイトに明け暮れる。睡眠時間なんて殆んどなくても、学校では常にオール100点のパーフェクトな成績。あんな状況に置かれた高校生が本当にいたら、そりゃ一ヶ月で家出するだろう。頭脳明晰で超のつくイケメンなんだから、ヒモ生活だって可能だ。しかし、太郎はそういう状況に愚痴ひとつこぼさない。だって彼はウルトラマンだから。


・・・とまぁ、多少の強引さはあるが、ウルトラマンを連想してしまったからこんなこと書いた。ひとつのおかずを家族全員で分け合うなんて、本当に昭和を彷彿とさせるドラマだった。このドラマで作り手が訴えたかった事を考えると、やはり「家族愛」であり、もうひとつは「周囲に惑わされずに自分の信じる道を逞しく進め」ということかなぁなどと考えた。


余談だが、ウルトラシリーズはセブン以降で「正義(ウルトラマン)VS悪(怪獣)」という図式が明確にされていく。初代ウルトラマンは必ずしもそうではない。作品の初期から携わった脚本家・金城哲夫氏の想いが反映されており、人間の怨念が怪獣を生むケース(ジャミラ、ウー、ガバァドンなど)や、墓場に行く予定が事故で地球に辿り着いてしまった哀れなシーボーズなどがいる。根底には実は大人も唸る深いテーマが眠っていたのだ。セブン以降は、スポンサーである玩具メーカーの意向により、武器を強化し、メカを派手にし、正義と悪の構図を際立たせる事を余儀なくされた。そうすればおもちゃを作りやすく、子供達に受けるからだ。プロダクションが採算面で火の車だったにも拘らず、経済援助的なウルトラマンはいなかった。