ちょっと間が開きました。

「阿久悠」追悼記事 の続きです。


近頃流れているCMで、スバル・インプレッサのがある。ポルノ・グラフィティの曲が使われている。

「愛とぉ~いう~っ、名の心にきざっまぁ~れぇ~た・・・をぉ~」という歌詞だ。CMで流れている部分しか知らないし、その先はよく聞き取れないが。僕はポルノ・グラフィティに関して特に好悪はない。一定のファンを獲得しているから売れているんだろうと思う。ただ僕にとって問題なのは、このフレーズ内の「きざまれた」の部分。特段気にしていなかったせいかもしれないが、この「きざまれた」が相当聴かないとわからなかった。何て言ってるかわからず(判断できず)、そのままにしていたが、テレビで流れるたびに、次第に注意して聴くようになっていた。それでもわからない。もう何度となく聴いて、或る日やっと「きざまれた」と歌ってる事に気づいた。ファンではないから彼らの曲を聞くことは滅多にないし、その声質にも馴染んでいなかったせいかもしれない。そうは言いながら、やはり「きざまれた」を「きざ」と「まれた」に区切られるとなかなか解りにくいのでは?と思うのだ。

今は他の例が思いつかないが、そのように言葉を妙なタイミングで区切られたせいで、困惑するケースはしばしばある。


そこで阿久悠の歌詞だ。膨大な詩作をチェックしたわけではないものの、氏のものした歌詞には、そういうケースはあまりないんじゃないかなぁと考える。それは、阿久悠が日本語を大切に使っているからにほかならないと思うのだ。中学生あたりで習った文節というやつだ。文節は文節ごとにきちんと区切って使う。「きざまれた」の真ん中で、音の高低をつけた上にリズムまでも変化されると、聴いてる方はなんだかわからない。わかりにくい。

その、文節を区切るというのは俳句や短歌にも通じるもの。変則的な例もあるだろうけど、5・7・5または5・7・5・7・7のリズムを守って文章が書かれていれば、歌唱が全体としてまとまりのあるものになるのではないだろうか。

別の言い方も出来る。標語を考えたり、オリジナルの詞を作ったりするような場合、割合と5・7・5を中心としたリズムは基本となるもので、作りやすいしそらんじやすいものだ。

前回取り上げた尾崎紀世彦の「また会う日まで」を見ても、字数は必ずしも5・7・5ではないが、リズムはほぼその拍に揃えられていないだろうか?

・・・数えてみたが・・・合わないなぁ。(笑)

いや、僕は音符を読めないから、何分の何拍子とかで違って来るんだろうけど、何しろ文節ではきちんと区切ってある。言葉プラス「てにをは」の助詞でひとまとまりだ。とてもわかりやすいのだ。

あまりにもジャンルが広く、これが全て阿久悠の詞だと聞いて驚くばかりなのだが、演歌からフォーク、ボサノバ風、更にピンクレディまで網羅する詞のどれを聞いても、「何て歌ってんのかわからない」というのがないのだ。とにかくない。見当たらない。

あるいは僕のひとりよがりかもしれない。が、インプレッサのCMを聴くたびに、「阿久悠の詞にはこういう例はなかったよなぁ」と思うわけだ。


詞が先か、曲が先かはその時によって違うと(たぶん)思う。思うが、詞と曲が揃った段階でチェックはしているはず。「歌いやすく」、「聴きやすく」、「意味がわかりやすい」という、万人に親しまれるよう入念に言葉を選び、更に独特の世界観まで与えるという、その仕事量からしても、本当に誰もできない事を成し遂げていた偉大な人だったんだなぁと改めて思う。


天国から、自分の歌が歌い継がれているのを微笑みながら眺めている事だと思います。

ご冥福を祈ります。