完結です。前の話はこちら。

父に対決した夏 前編

父に対決した夏 中編

「もう10時過ぎてるよ」と誰かが言った。

「えっ?」

「もう帰らなきゃ」と言って二人がさっさと帰っていった。正直驚いていた。それまで、僕は全く時間に対する意識がなかったからだ。

10時を回ってるだなんて、とんでもない時間だ。帰らなくてはいけなかった。だが、ちょうど今やっている奴がゲームオーバーになったら僕に順番が回ってくる。その機会を逃したくない気持ちが働く。僕は動けない。

それでも、さっき二人が帰った時に乗じて帰るべきだった。タイミングを逃した。

「12時になったら帰るよ」と誰かが言った為に、今いるみんなはそれまで大丈夫なのだなという暗黙の空気が漂ってしまう。

腰が落ち着かない。自転車で来てるのだから、「いや、帰るよ」と立ち上がったら済む話だ。「何だよ?12時までは大丈夫じゃなかったのかよ?」

その言葉を誰かに吐かれるのが嫌で、僕は腰を上げられないのだ。

怒られるだろうなと感じていた。だがその一方で、もう中学生なんだし、こういう日は無礼講でとやかくは言われないだろう、という考えもよぎる。現に「何時には帰って来なさい」というような言葉も言われてなかったではないか。

「お前はバカか?中学1年生の子供がこんな時間まで遊んでいていいはずないだろ?」


11時を回り、僕はとうとう12時までは付き合う覚悟を決めた。いや、覚悟と言うよりは「その時間にならないと帰りづらい」とあきらめた事になる。まさか、父と母がほうぼうを探し回っているなどとは思えなかったし、その時間になれば帰るのだから大丈夫と考えた。


その時だった。

からんからんと正面のドアが開く乾いた音が聞こえた。店の人が割りと出たり入ったりしていたし、特に気にしていなかった。「おい、ちょっと・・・」と声が洩れ、ずかずかと入ってくる父の姿がそこにあった。父の顔を知っている友人がそこには誰もいなくて、それでも誰かの父親だという事はすぐに察しがついたのだ。

「あ・・俺、帰るよ」

友人たちは伏目がちに「う・・・うん」とうなずき、父からも僕からも顔を背け目を逸らし、ゲームの画面に逃げた。「そしたら・・・またね」


父の顔は怒りに打ち震えていた。そこに青い炎さえ感じたものだ。店内に入ってきても一言も言葉はなく、むしろ言葉を精一杯「かみ殺している」かのようだった。その場にいた友人たちをぎろりと睨みつけ、しかし父は絞り出すようにこう言った。

「君たちも」

「もう帰りなさい」

友人たちが何と答えるかが心配で、僕はそそくさとドアに向かった。彼らは黙ったまま舌を向き、誰も顔を上げずに、つまり無視した。手近にあるテーブルをひっくり返すんではないかとひやひやしたが、父は「ふんっ」と鼻から息を押し出すときびすを返した。

父は軽トラックで乗り付けていた。僕は父が店から出てくるのを確かめると、自分の自転車で家に向かった。


父はあちこちを探し回ったのだろうか?この店にいる事なんて誰にも伝えたわけじゃなし、探す場所なんてそう思いつかない。それはわからない。とにかく思いつく場所を手当たり次第に、夏祭り会場である公園の周りから始まり、書店だとかスーパーだとか、探して歩いたに違いなかった。

かっこ悪いなと僕は感じていた。親に連れられて帰るだなんて。他の友人たちは、それぞれの自主性に任せてあるではないか。完全な子ども扱いだ。

いや、それは違う。違う事は百も承知だ。中学1年生が遊ぶにしては度が過ぎている。僕自身がそれもちゃんと分かっていた。10時の時点で帰っていれば、大目玉で済んだかもしれないし、もっと言えば、カレーを食べ終えた時に帰っても良かった。それが出来なかったのは、Sに対して借りを作ってしまったせいなのだ。頼んでもいないのにくじ引きをさせて貰い、ハラペコでもないのにカレーを食べてしまった。それほど親しくもなく、むしろ嫌な奴であるSに対して、どうしてはっきりと態度を示せなかったのか?それは僕が偽善者だからだ。協調性のある、いい奴でいたかったのだ。もともとSの態度にしてからが、太っ腹なところを見せ付けて金持ち自慢をしたかったに過ぎず、僕はその彼の軍門に下った事になる。敵視されたくなくて、反発を買いたくなくて、事なかれ主義に陥った弱虫だ。僕はそんな自分に嫌気が差していたが、しかしそんな話を父にするわけにはいかない。また、父も聞く耳を持ちはしないだろう。


だがその一方で、僕自身がこれほど友人たちとの関係構築に悩んでいるのだし、もう少し大目に見てくれてもいいのではないかという考えもあった。僕の気持ちなんて絶対わかってないはずだ。夏休みの、夏祭りの夜だし、無礼講でもいいのではないのか?

いやいや。いやいや。それでもなお。言い訳の通用する時間ではなかった。


父は自転車の僕を当然追い越して先に家に着いた。

家に入ると、父はテレビのあるいつもの席に黙って座っていて、僕は何も言わずにそそくさと自分の部屋に逃げ込んだ。

それを追いかけてくる足音がした。

僕は「来るな」と思い、「友達との付き合いもあるし、夏祭りだったんだから今日ぐらいちょっと遅くなったって・・・」などと言い訳を準備していた。

向き合ったその刹那、僕の視界は一瞬で暗転した。もんどりうって倒れた僕は右の腿をベッドの横木にしこたまぶつけた。たぶん3秒くらい意識が飛んだと思う。父の右手は僕の左耳の上辺りを殴りつけ、たぶんそれがこめかみに入ったんだと思う。拳ではなく平手だったが当たった部分がよくなかった。

「のぼせあがるのも!」

「いいかげんにしろ!」

父の口から放たれたのはその言葉だけ。

僕には弁明の機会は与えられなかった。そうして、頭ごなしに暴力だなんて、「ひどい親父だ」という思いと、「自分自身が認識している罪」と、「偽善者である自分」とが頭の中を駆け巡っていた。そのうえで、「信用されてないのかという疑念」を考えていたら「ほうぼうを探し回った父の姿」が目に浮かび、僕はその時初めて「心配をかけたのだ」と思い至った。他の友人たちの親がどうだったかは知らない。しかし少なくとも、僕の父だけはさんざん心配して、そうして実際に息子を探して夜の街を駆け巡り、ちゃんと探し当ててくれたのだ。愚かな自分。僕はいい気になっていただけだった。ただのぼせ上がって浮かれていたのだ。


ふと込み上げるものがあった。ごちゃごちゃと考えすぎたせいなのか、それともこめかみに「いいのを貰った」からなのか、僕は慌てて風呂場に行って思いっ切り嘔吐した。トイレを目指したものの、扉が開いていた風呂の方でないと間に合わなかったのだ。

自分が悔しくて、情けなくて、小さくて、そんな僕に対して父は大きな存在だった。


母が後ろから声をかけて、背中をさすってくれた。