そのころ僕ははたち。櫛に流るる黒髪の、ではありませんが、おごれる春ならぬ熱い夏の1日を過ごしていました。

初めて彼女と過ごす!お泊りの海水浴で千葉に来ていたのであります。

海ではしゃぐ若い(単なるガキ?)・・・僕ら。

彼女が「あれ?今の飛行機、何?ずいぶん低いとこ飛んでたよ?」

僕「え?なに?どこ?見えないよ。」

彼女「んん?気のせいかなぁ・・・」


彼女が見た低空飛行の機があの「日航123便ボーイング747ジャンボ機」だったかどうかは、その時確かめるすべはなかったし、もうわかりません。ただ、民宿のテレビ(全国的にそうだったんだが)が全てジャンボ機墜落の事故を流していて、「退屈ぅ~。全部こればっかじゃ~ん」と相成りました。そう、その頃の僕らにとって、飛行機の墜落事故は全く他人ごとでしかなかったのです。何せ、初めてのお泊りです。夏の夜はテレビで盛り上がり、花火ではしゃぎ、スイカで涼み、海の風にあたりながら将来を語り合い、クールダウンしつつムードを確かめて、明かりを落として・・・となる予定だったのです。ですが、そんなムードは事故のニュースで一変します。

「こんな時にはしゃいでていいの?」

「だって俺らには関係ねーじゃん」

「でもこんなに亡くなってるんだよ」

確かに不謹慎とは思いつつも下半身の欲求は正直で、しかし彼女の方も身の置き所がない様子です。手はつないでるんだが、その先になかなか進めない。うだうだ抱き合ってキスはしても、なんか今日はそこから先はちょっと・・・みたいな。

そうこうしているうちにくんずほぐれつ状態になり、その時耳に飛び込む「びりりっ」という鈍い音。

「あっ、破れちゃったぁ~」

そう、彼女のパジャマを破いてしまったのです。変な形で僕が乗っかっていた時に、ごろんと彼女が横になった拍子にです。

もう、最悪。

その夜は、いわゆるBどまりでした。

僕も彼女もナイーブだったということで。


事故は85年8月12日夕、羽田から大阪へ向かっていた日航123便ボーイング747ジャンボ機が群馬県上野村の御巣鷹の尾根に墜落。乗客・乗員524人のうち520人が死亡した。
 4人の生存者の一人となった川上慶子さんは事故当時12歳。島根県大社町(現出雲市)から北海道への家族旅行の帰途、事故に遭い、会社員の父と母、妹の3人を失った。慶子さんは看護師だった母和子さん(当時39歳)と同じ医療の道を選び、94年春に看護師として兵庫県内の病院に就職した。


日航ジャンボ機事故のニュースにふれるたびに、僕はあの夜を思い出すのです。524人中の生存者の1人、川上慶子さんがヘリコプターに吊り上げられた時の映像が未だに記憶にも残っています。川上さんが母親と同じ看護士の職業に就いたというのは、以前に何かの記事で知りました。家族を一度に無くした彼女の思いは筆舌に尽くせず、強く生きて欲しいと願うばかりです。


「川上慶子さんが入院した国立高崎病院(当時)=群馬県高崎市=の副院長だった故浦野悦郎さん(事故当時58歳)が、慶子さんが転院するまでの2週間を記録した手記を残していた。入院時の様子などが克明に記され、事故から20年たつ今年、初めて明らかになった。」

「転院が決まった日、慶子さんは「島根に帰りたくない。家には思い出すものがいっぱいありすぎるから」とこぼし、浦野さんは「返す言葉もなかった」と記している。
 同27日、慶子さんは島根県内の病院に転院。3カ月後、入院中の慶子さんから手紙が届いた。後遺症が残る右手で書かれた字は震え、「早く学校に行って友達にあいたいです」と記されていた。」


浦野医師は94年6月に白血病で亡くなったそうですが、亡くなる2カ月前、慶子さんが看護師になったことを週刊誌で知り、浦野さんは「良かった」と喜び、週刊誌をしばらく枕元に置いていたという。(妻の)千代子さんは「退院後もずっと気にしていた。医者人生で最も忘れられない患者だったんでしょう」と振り返った。


「返す言葉もなかった」時の浦野医師の気持ちをおもんぱかると、僕はあふれる涙を抑え切れません。ひとつしかない命を取りとめた自分と、それが叶わなかった愛する家族。「悲しみを乗り越えて強く生きて欲しい」と願いながら、浦野医師はそのときばかりは「言葉を発する事も」できなかった。


500人を超す命を失いながら、航空業界での事故は未だになくなりません。死と直結する乗り物なのに、危機意識が全く欠けている。この時期になると、マスコミに必ず取り上げられるニュースですが、敢えて言うと「風物詩」と化している気がするのです。航空業界でこの事故を今現在どう扱っているのか、どんな形で教訓にしているのか疑問も生じます。

日航ジャンボ機事故