気づいたのは、もう半年以上も前だと思う。果たしていつからいるのか、窓の外に、ヤモリがいた。トカゲならもっと大きいはずだし、子供の頃にどこかの水辺で捕まえたことのあるイモリは赤い腹をしていて、その白い腹を見ると、ヤモリだ。
漢字で書くと「家守」だから、おそらく住みついてくれているのは縁起のいいものなのだろう。ミミズのいる畑の作物はうまいというし、地方の古い一軒家なんかには縁の下にアオダイショウがいると聞く。
私は山の中に住んでいるわけではない。だが、二階建ての一軒家の裏手は切り崩した丘がある。家の前は車が一台通行可能な生活用道路で、その反対側は土手になっている。いったい誰が植えたのやらもうわからない樹木がかなり茂っていて、私も足を踏み入れた事は一度もない。その土手の向こうには一面たんぼがあって、カエルの声も珍しくなく、たぶん昔に比べて減ってはいると思うが、家の近くには色んな虫やヘビなどの生き物も当然生息している。
だから部屋にいる時には、コガネムシやカブトムシが明かりを求めてやって来ては窓の外に張り付くのだ。そのヤモリに関しては、カーテンを閉めたらもう視界に入らないし、時々、あ、今日もいるな、程度にしか感じていなかった。
世の中には、こういう爬虫類の類をペットにする人もいるが、この手の生き物を“かわいい”と愛でる気持ちは、少なくとも私には理解できない。
ペットを飼った経験がないわけではない。実家では長いこと犬を飼っていた。人間の寿命に比べればやはり犬の一生は短いから、何度か死に別れてつらい思いもした。犬なら、尻尾を振ったり声を上げたり、喋らないにしても、喜怒哀楽のいくらかは私にも察する事ができたし、愛着も湧くというものだ。しかし爬虫類は・・・どうだろう?
ある日、その、おそらくいつも窓に張り付いていたそのヤモリと、唐突に部屋の中で遭遇した。窓を開ける時には、私は必ず網戸を閉めておくのだが、恐らく、右を開けたり左を開けたりした時に網戸を引き損ねてしまったのだと思う。部屋の壁の、天井よりの高い位置に張り付いていた。
私は困惑した。
淡い灰褐色の、ぼんやりと斑模様の容貌には、やはり鳥肌がたつ思いだ。細身の百円ライターほどの大きさ。いつも内側の白い腹しか見たことがない。しかもそれは窓越しだからぼんやりとしていて、表を直に見るのはこれが初めてのことだ。こんなグロテスクな奴だったかと、私は身震いする。三角形の小さな頭には似つかわしくない大きめの目は、青黒く、しかし確かに鈍い光をたたえている。
人を刺すだとか噛みつくだとか、何かの毒を持っているというような事を聞いた試しはない。むしろそれは蚊とかハエとかの害虫を食べてくれて、「家守」な訳で、人にとっての縁起のいい生き物。だから放っておこうかと一瞬考えた。その刹那、ぞぞぞと何か得体の知れない恐怖感が全身を駆けめぐった。
それは何か?
そう、恐らくそんなことはないのだが、寝ている間に部屋の中を這いずりまわり、ベッドにすすすと近づいて、はては私の顔の上をひたひたと通過していくさまが浮かんだのだ。
冗談じゃない。それは勘弁して欲しい。
ないないと考えつつも、ヤモリにとっては私の不安など関係ない。このまま部屋内での滞在を許しておけば、ヤモリは自由奔放に動き回り、いつかそんなことがあるかもしれない。その可能性はゼロではない。起こり得ない話ではない。
私はヤモリに殺意を抱いた。
部屋の中には殺虫剤を一本置いてあった。しかしそれはよく見ると、網戸に吹き付けるタイプだ。虫を寄せ付けない性質のものだから、もしかすると即効性よりは成分を長時間持続させる方に重点があるやもしれない。
いやそれ以前に、蚊やハエに効くものが、それを食べるヤモリに対して、果たしてどれほどの効果があるのかということの方が疑わしかった。だがここにはヤモリを殺す為の殺虫剤・・・殺爬虫剤はないのだ。
私はいてもたってもいられず、その効果のあやしい頼りないスプレー缶を手にした。
シューッ・・・・・・・。
反応して床にポトンと落ちると、かのヤモリは瞬くうちにするすると壁を走ってタンスの裏に逃げ込んでしまった。
タンスのうしろにシューッ。
その反対側からシューッ。
これがゴキブリなら、数秒後には苦しみにのた打ち回ってカサコソと悶え転げることになるはずだが、はて?何の音も聞こえては来ず、タンスの裏からあいつが出て来た様子もない。
じっと耳を澄まし、タンスの周囲を床から天井までのがさず目を凝らして息を呑んだ。まんじりともできずにその姿勢のまま身構えた。
どれくらいの時間、私はそうしていただろう。実際には一分もなかったかもしれないが、感覚的にはその十倍も時間が流れたような疲れだった。タンスの裏から出てこないのなら仕方ない。どうやらあの殺虫剤ではやはり効き目はなかったと見える。私はタバコをくわえると、ベッドの上によじ登ってテレビのリモコンを押した。
テレビを見やりながらも、私はタンスの周囲から目を離してはいない。出てきたら今度こそぶっ殺してやると思っていたからだ。そわそわしてどうにも落ち着かない。このまま出て来なかったらと思うと不安でならない。この部屋にあいつと二人きり?では寝るに寝れない。
その時だった。私の目は不意に天井に釘付けになった。
あいつがそこにいるのだ。
しかも、今日最初に見つけた、その全く同じ場所だ。頼りないスプレーを吹き付けたさっきの位置だ。「だって、ここが好きなんだよ」とでも言いたげな、ふてぶてしいその態度!
私の怒りは頂点に達した。
許さん!
私はもう効き目のない殺虫剤なんかには目もくれなかった。絶対殺す!
部屋の中を素早く見回すと、私は新聞に入ってくるチラシを見つけ、わしづかみにしてくしゃくしゃに丸めた。それを力まかせにあいつにぶつけた。
はずれた。
もう一度ぶつけた。
はずれた。
もう一度ぶつけた。
当たった!
あいつはポトンと床に落ちたがしかし、今度はタンスの裏に逃げようとはしなかった。そこに留まって動かない。
その時確かに私には見えた。
あいつはとろんとした、あおぐろいプリンのカラメルのような目を上目遣いに私に向けて、三角形の小さな頭を斜めにして笑ったのだ。
「効かねえな」
昨日、スポーツドリンクを飲み干したペットボトルが目に入った。私はその空のボトルの首を掴んであいつの背中めがけて振り下ろした。
つかまえた!
そう思った瞬間、尻尾が切れてあいつはこそこそ逃げる。そうはいくか!このチャンスを逃がすものかと、今度は肩甲骨のあたりをしっかり押さえた。ペットボトルを介して、ぐにゅうという、肉を押さえている感覚が指に伝わって来た。その時、四つん這いになって開いた口からかすかに、きゅう、というような音が洩れた。切れた尻尾がぴこんぴこんと床を跳ねた。
だがこいつはまだ全然元気だった。手を離そうものなら、たちまちどこかの物陰に駆けていってしまうだろう。右手でこいつを押さえたまま、さてどうしたものかと目を逸らした時だ。するりと抜けたのだ。私は反射的に動きを捉え、むんっ、と力を込めてそれを押さえた。その動きに合わせながら押さえたせいで、少しばかりひきずる格好になった。
床に光って見えたのは、ヤモリの体液だった。そして尻尾の切断面には明らかに、赤黒い血が滲んでいた。私はそれを見て、冷静になろうと思った。ここで、こいつを力まかせに潰すのは得策ではない。小さいながらも、ひと通りの内臓物を備えている。
誰か助けを呼ぶあてはない。まあ、もしあっても、こんなこと、拒否される可能性が高いと思うが。
私は傍らにあった扇風機を引き寄せた。
思い切って、それを奴の上に台ごと乗せた。
ふむ、押さえにはちょうどいい重量だったようだ。
私はヤモリの頭をそっとつまむと、扇風機の下から奴を引きずり出した。窓を開けて、田んぼに向かって思い切りそれを投げ捨ててやった。
投げる瞬間、何かの感覚が手に残った。
あいつの血だった。いや、体液かもしれなかった。
一階の洗面所に降りて手を洗ったが、親指の下に浮き出ている静脈の辺りに、どういう訳だかその薄茶色がいつまでも消えずに残っていた。
