履き違えたスポーツマンシップ | picture of player

履き違えたスポーツマンシップ

http://www.mainichi-msn.co.jp/sports/feature/news/20060723k0000m040132000c.html

え??これってだめなの?
攻撃のとき勝手にアウト増やそうが、そのチームの自由じゃないの?


これはおそらくマナー上ダメだ、ということなのだろう、理解し難いけど。
ルール上は可能んだけど、マナーとしてやっちゃだめよ、という。
多かれ少なかれ、スポーツにはそういう部分がある。
ルールだけでは規制できない例外事項が数多くあるからだ。


マナーによる禁止行為は概ね2つに分けられると思う。
1.相手を意図的に傷つける行為
2.相手への敬意を失している場合。


1.の場合は言わずもがな。
野球の危険球や、サッカーの悪質なファウル(マテラッツィがよくやるやつ)とかがこれに含まれる。
最悪の場合は選手生命を奪う場合もあるので、これは禁止するほかない。


2.はより規準が難しい。
これに含まれるのは、たとえばサッカーだったらプレゼントボールの拒否などがあるだろう。
野球だったら、大量点差がついたときに勝ってるセイフティバントで塁に出ようとすると、次の打席でデッドボールがくる。


ただ、プレゼントボールの拒否はともかく、セイフティバントは2.に含まれるのだろうか?
正直、微妙だ。
サードがあほみたいに下がってりゃ、私でもバントする。
追いつかれる可能性があるのに、なんで可能性の高いほうを選択する自由が与えられないのか?
理解できない。


まあ、百歩譲ってそれもありとしよう。
だが、今回の件は全く理解できない。
たとえば、リードしていた本荘の監督が普通にやっていて、雨で中止になったらどうするのだろうか?
12‐1のリードがちゃらになり、また0‐0からのやり直しだ。
これがサッカーの12‐1ならば、再試合も似たような結果になるだろう。
ただし、野球はわずかな力の差が大きな点差になるスポーツだ。
プロの球団でも前日10‐0で勝っても、次の日にまったく同じスコアで負けるという場合があるだろう。
そうなったときに、責められるのは誰だろうか?
間違いなく本荘の監督だ。
7回までやればコールドゲームになるというルールがある以上、それを利用することが間違ったことだろうか?
逆に、私は相手の監督がルールの範囲内で精一杯時間稼ぎをしたとしても、それはそれでありだと思う。
松井秀喜の五連続敬遠も不恰好極まりないが、ありだろう。


もし、この件がスポーツ上アウトなら、10人で守ってカウンターだとか、ひたすら前線に放り込んでファウル狙いだとか、いわゆる「爽やかでない」弱者の戦術について、高校サッカー協会(正式名称知らん)が批判することもあるのだろうか?
決してそんなことはないだろう。
これを認めてしまうと、終了間際にコーナーフラッグ付近で時間稼ぎをする小笠原などは機関銃で撃ち殺されても文句は言えないという事になる。いや、さすがにそれは言える。機関銃痛い。
ともあれ、相手に危険も与えない、礼儀も失しているとは思えない、ルール上保証されている選択を犯す権利が、高野連にあるのか、ということだ。


この件に関して、秋田県の高野連は本荘の監督に始末書の提出を求めている。
彼らはたとえばこの試合がリプレイになり、本荘が負けたら、どう責任をとるのだろうか?
爽やかな試合でしたね、で終わるのだろうか?
本荘の選手はどんな気持ちになるだろうか?
わけのわからないマナー上の問題で、彼らが高校最後の大会を終わる可能性もあったはずだ。
高野連はそこまで想像できたのだろうか?
さらに救いがたいのは、相手の監督が「正々堂々勝負したかった」と憤慨していることだ。
「正々堂々」戦って、あんたら12点も取られてるんじゃねえの?


「プロじゃないのだから」と言う人もいるかもしれない。
だが、私はプロじゃないからこそ、純粋に競技として勝負すべきだと思う。
勝利という一つの規準のみで戦うほうが、よっぽど健全だ。
教育上の問題?
負けている試合を競技の内容以外の理由で覆されるほうがよっぽど教育上有害だと思うのは、私だけだろうか?


単純に競技として見るべきだ。
汚いプレーはある程度規制されなければならないと思うが、これはいくらなんでもやり過ぎだ。
「爽やか」「正々堂々」という聞こえのよい文句を旗印に、高野連は自分たちの好みに合うように枠組みを作りたがる。
しかし、ドラマが必要なほど、野球とは卑小なスポーツなのだろうか?
そうではないだろう。
純粋に競技としてみていて面白いからこそ、これだけの発展をしてきた。
「21世紀枠」などの小賢しい細工をしなくても、野球はそれだけで輝けるはずだ。


「ドラマ」は外野が作るのではない。
それは競技の中で勝手に生まれてくるものだろう。
ストーリーテラーはあくまで選手でなければならない。
もう「感動」は聞き飽きた。