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ローマ人の物語3~5 ハンニバル戦記(上)(中)(下) 塩野七生

塩野七生の大作、ローマ人物語のハンニバル戦記を去る19日に読了。
ハンニバルというローマの最大の敵との激闘を経て、カルタゴやマケドニアを滅亡させる過程まで記してある。
やはりハンニバルは強敵だった。どういう風に強敵かというと、戦力を真向からぶつかり合わせない、当時では珍しい、部隊を自在に展開させる戦術を駆使した指揮官(将軍)だったのだ。
例えば、部隊を二分して背後からついたり、横から挟撃形をしたり、といった感じのことである。こういう戦術を駆使した戦法というのは当時では画期的な戦術であったらしく、大抵は物量的に真正面からぶつかり合っていく感じであって、相手の虚を突く用兵は、まさにハンニバルの独創性の賜物であった。さらにハンニバルは騎兵の重要性を認めた部隊の構成を組んでおり、騎兵の突進力・突破力というのを非常に重視していたようだ。ハンニバル以前のローマでは、騎兵はいるにはいたが、数はとても少なく、中上流階級の市民から構成された重装歩兵が部隊の中心であったのだ。そういうハンニバルの虚々実々の戦術と騎兵を重視した部隊構成が、ハンニバルがローマを延々と苦しませ続けた要因であった。

しかしローマはその国家の成り立ちからして、ハンニバルに屈しない、その構造を内包している。いわゆる同盟国との堅固で密接な信義に基づく、友好関係というのがローマを最後まで瓦解させなかった。もちろんカプアなどローマからハンニバルに寝返った都市もあったが、ローマ化された都市や部族は、やはりローマを盟主として裏切らなかったのだ。そのローマの寛容性に基づく都市との同盟関係がやはりローマの強みであったのだろう。対してハンニバルには祖国カルタゴからの援軍や補給隊が、ほとんど滞りがちであり、それはもちろんローマが海域を制圧していたからであるが、その分孤軍奮闘で、ハンニバルはローマに挑まざるを得なかったのだ。その差はとても大きい。

あとローマ人は何でもシステム化するのが好きであり、マニュアル好きであったようだ。例えば軍の宿営地を築くときなど、手順に沿ったやり方というのがあり、完全にマニュアル化されていた。その利点は誰がやっても決まって同じになり、またスピードも速くなるということだ。それは当然だろう、手順に沿ったやり方というのは、とことん無駄な動きや行動が省かれているから、当然早いし効率的であったのだ。この物事に対する理知的態度というのは、ローマ人の特徴の一つだろう。
他には敗軍の将軍(執政官)を罰さないのも特徴的だなと感じた。例えばカルタゴは戦争に負けて帰ってきた指揮官を処刑にするのが通例だ。信賞必罰の原則から言っても、責任があるのは指揮官だから、処刑とまでは言わなくても、何らかの罰則を与えるのは自然だろう。カルタゴでなくてもそうだと思う。しかしローマは一切罰さず、通常の市民として権利は一切剥奪されないのだ。これは「負けて帰ってきて何かを学んだろう」という、肯定的な視点から見た態度であるといえる。やはり当時の地中海の覇権を握ったローマは、他の国家と比べると一味も二味も違う。

ハンニバルを何とか撃退したローマは、やがてそのハンニバルの戦争の巧みさ、戦術面の巧みさを完璧に踏襲して、より強力な国家へと変容していく。ハンニバルの優れた戦術面がローマの成長を助けた面があった。そしてギリシャの都市国家群、マケドニア、カルタゴとの対決を通して、より地中海に面する国々における覇権を確立していくのだ。
逆説の日本誌1~9  井沢元彦

以前からこのシリーズを読み進めてきて、去る6月5日に、9巻まで読み終えたので、その感想を書きたいと思う。

日本史の歴史には、歴史を紐解く上で、重要なキーワードというものがある(特に日本史に限らないが)。それは歴史の過程を不断に築いてきた民族の掟としての、民族原理を表す性質・特質といった類のことである。その民族原理を本書は的確に言い表しているように思う。それは和の原理、怨霊鎮魂の原理・穢れ思想・言霊思想といった性質のことである。大本は和の原理であり、全ての大和民族としての掟・原理はこの和の原理から全てを端に発する。

著者は聖徳太子の十七条の憲法で、日本人の最大の原理を発見し、それは太子が仏教信者であり、日本思想(和)を相対的に見れたからだと語る。私もそれに異論はない。そういう別視点からでないと、(普段は)和の原理に埋没している状態であり、和の原理は認識できない。それは自明の理であり、疑問を抱く余地はないところにある自然状態だからである。

怨霊鎮魂に関してはまさにその思想が本書のメインテーマであるかと思わせるくらいに、丁寧に叙述してある。例えば物語では、源氏物語や平家物語、太平記もそうだし、神社仏閣で言えば出雲大社、北野天満宮、東大寺に至るまで怨霊鎮魂思想の賜物だというのだ。いうなれば敗者や不幸な境遇に陥った人、政争の結果無念の死をした人に対する、弔いや哀れみの気持ちが強く込められている。世の中に強い恨みや憎しみを抱きながら死んでしまった人に対する鎮魂は、もちろんその祟りをひどく恐れるからであり、飢饉や疫病などの悲惨な現象は、こういった怨霊の祟りの仕業であると、古代の人々は考えていたようだ。だからこそ精一杯鎮魂し、成仏してもらい、怨霊から、人に害をもたらさない御霊へと変わってもらいたい。怨霊鎮魂思想は、そういった日本人の精神背景がその内実にある。

穢れに関しては、本質的には日本人は戦争は嫌いであり、政治権力を握っていた公家・貴族文化がその汚れ役(武力)を放棄したことから、その事態は平安時代から鎌倉時代への過渡へのきっかけとなる。元来は日本国家の原初形態となる大和政権は、天皇を中心とした軍事政権だった。しかし時代を経るつれ、天皇の軍事力といった要素が薄れ、公家・貴族を中心とした平安文化を形作っていく。いうなれば穢れは必要悪だ。戦争も治安を維持するためには時には必要であり、刑を定めるのも、刑罰というのは、武力の行使へとつながるから、やはり公家的には穢れの範疇に入る。しかしその武力放棄というのは、現実的には国を治める統治形態にはありえない。武士の発生というのは、国・国家が治安面に関する維持に対する責任を完全に放棄したからだと、著者は語るのだ。

言霊というのは読んでいて、最も難しい日本原理であると感じた。言葉があたかも実体を持つがごとく、人間にかかってくる。言葉の影響が現実面を束縛してしまうのだ。冷静に考えれば、言葉は単に音声の発露であって、発露されてしまえばそれで収束する。しかし日本人はその言葉から現象面に関する何らかの因果関係を見出すのだ。いかにも情緒的で、感情の機微に細かい日本人らしい特性だろう。言葉にまで霊を見出すのだから。

本書は、なるほど大作だけあって、なるほどと合点がいくところが多い。著者は日本史解釈の問題点として、現代の学会における史料至上主義、権威主義、宗教性の軽視という3点を上げている。やはり現代の科学万能の科学至上主義の洗礼を浴びれば、史料至上主義にならざるをえないのだろう。科学とは事実における実証というのが、至上命題であり、それが日本の歴史観を異様に狭めているのは間違いないだろう。著者はその点作家の想像力をフル稼働している感がある。権威主義というのも日本人は元々そうだから当然のことだ。宗教性の軽視という観点が最も興味深い。確かに現代の日本人は宗教性といった趣は皆無になっている。これについては何事も西欧的価値観を取り込んでいくだけでは、本来の資質が変節していくことであるから、非常に問題があると言わざるをえない。
インカの反乱 非征服者の声  ティトゥ・クシ・ユパンギ述 染田秀藤訳

インカの、今となっては滅びてしまった文明に関する歴史の一端であるが、これはスペイン人に滅ぼされてしまう終局が書いてある。著者は当時のインカ国王で、これはスペイン人に述べた事を、スペイン人が記述した形式の本となっている。スペイン王にインカならびに自己に関する弁明を述べているのである。

思ったのはやはり当時の文明の最先端を走っているスペイン人の狡猾さである。純朴なインカ王(主に著者の父)が、狡猾で不誠実で欲望の強いスペイン人に翻弄され、裏切られる様子がよく描かれている。実際インカ王も、スペイン人がやってきた当時は、宗教的な神秘性の投影としてスペイン人を見たきらいがあり(それはビラコチャと呼ばれる、神に似た概念)、やはり実際的な判断や経験に裏打ちされた認識ではない。私の考えでは、甘いと言わざるをえないが、やはり土着の風土的に、外来的な敵はそうそういなかったという歴史があったのだろう。いうなれば本格的な侵略者としての人種という認識が想起できなかったのだ。
スペイン人(ピサロを筆頭とする)にしてみれば、相手の純朴さにつけ込むだけつけ込んで、黄金金銀を貢がせ、後は征服するだけであるから、インカ王の当初の自分たちに寄せる信頼感は、与し易いという思いを抱かせただろう。
しかしインカ王はスペイン人に対する態度は純朴でも同胞においてはそうでもない。読んでいてインカ人は内紛や仲違いが非常に多いと感じた。おもに王の位を狙う、権力闘争であるが、それはどこの世界でも共通的にある現象である。
インカ王は裏切られまくり、とうとうスペインの侵略者と戦うことを決したが、その戦いは機を逸し負けてしまう。そして拠点を移して臨むことになるが、やがて王は死に、本書の著者が王の位をつく。著者はスペイン人との融和策を志向しており、事実上の降伏であり、キリスト教的価値観を受け入れることにしたのである。

本書は文献的に信頼性に乏しいと言われていたようだ。それは改ざんや捏造が入りやすい成立過程にある。しかし本書はスペイン人の異文明に対する性格の苛烈さを言い表している部分が多々あり、やはりその攻撃心や支配欲に関しては、一考の余地があると感じる。本書を読んでキリスト教的価値とは何なのかという事は考えさせられる。

悪魔の話  池内紀

本書は悪魔・魔女・錬金術といった、キリスト教的価値の裏側にある概念にスポットライトを当てている。体系的ではなく、雑多な出来事が、著者の主観に任せて述べられている。主にテーマに沿ってという感じで、エッセー的な本である。
キリスト教的といったが、それは悪魔は、神や天使と対になる概念ということで、一神教のキリスト教に依るところが大きいからだ。魔女狩りも、主にドイツというヨーローパの中でも封建的な地域で行われていたし、それは時代の閉塞感が多大に影響している。
悪魔というのは蛇、山羊、鷲、とかげなど雑多な生き物を、部分的に接合させて、考案される場合が多い。形態も人間的な形をした悪魔もいれば、より動物的な形の悪魔もいる。思ったのは悪魔は自由に個人の想像や妄想に任せて、作られる(考案される)機会が多いのに対し、天使というのは背中に羽が生えてというように、総じて一様的であり、思い出す天使もステレオタイプ(紋切り型)のものばかりだ。これは著者も疑問を抱いているが、明快な答えは持ち合わせていない。私は天使に聖性といった犯すことのできない権威付けが付与されるから、自由に想像できないし、しても公に公表できないからだと解釈している。悪魔はその点、いわば嫌われ者だから、どれだけ醜く妄想してもOKなのだ。

本書は構成の仕方なのかやや読みづらい面があった。気軽なライト感覚で読む本であろう。悪魔に関する入門の本といった体裁である。
ローマ人の物語 ローマは一日にして成らず(上)(下) 塩野七生

今までローマ帝国に関して興味はあったのだが、実際に読む機会はなかった。
しかしそろそろ読まなくてはと思い、大作であり、シリーズ化しているローマ人の物語を手に取った。
今回レビューするのはその1巻目と2巻目だ。副題はローマは一日にして成らずとある。

1巻は、最初のローマの成り立ちと、国家としての発展段階として、王政から共和制に至る過程が書いてある。原初の成り立ちから政治体制として、王と元老院(土地持ち貴族)と市民集会が両立していた。もちろん原初は中央集権的に王の権力が相当優っていたのだが、時代が下るにつれ、そうでもなくなり、圧政的な王の反感からか、革命的な人物が現れ(ブルータス)、王政は廃止され、共和制へと至る。
ローマ人の気風としては、異民族に対しひどく寛容的であり、戦争で勝利したならば、自分たちの一員として、統合したり試みる。この寛容性がローマを語る上でもキーとなるのは2巻でも触れられている。それは宗教についても同様であり、ローマは多神教の宗教であるが、他の宗教の神、ギリシャの神々を取り入れたりする。
もちろん古代の時代であるので、ローマの歴史は戦争の歴史でもある。その軍事における重要性を表す制度として、軍制が税制と選挙制が一体化している。選挙権に関しては100人隊ごとに1票となる。
ここら辺り全く知らなかったので、とても興味深かった。

2巻はローマがイタリア全土を支配する過程が主に描かれている。ギリシャとの折衝、そして影響を強く受け、しかしそれに因われないで(全く模倣せず)、新たな制度を構築する。そして発展段階として重要な出来事がおこる。ケルト人の襲来だ(前390年)。そのケルトショックはローマにおいて、相当な挫折を味わせたが、やがて立ち直り発展への気運を見せる。ここらあたりは貴族と平民の対立をいかに押しとどめ、国家としての一致を模索するかが重要な事柄であったようだ。なぜなら国家として一致団結しないと、外敵との戦争で大きな不利になるからだ。
ケルトショックを乗り越えると、地域地域に存在する同盟国、植民地、直轄地へと結ぶ街道が次々と建設される。有名なのは南へと到るアッピラ街道だ。そして南のギリシャの植民地・タイラントを支配、征服するとローマはイタリア全土をほぼ支配下に治めたことになる。

全体を読んでみて、非常にわかりやすくローマの歴史をまとめていると感じた。政治、宗教、軍事、経済と国を図る指標はいくつかあるが、ローマはどれも先進的である。この辺りわかりやすかったのは、著者の叙述の明快さに依る所が大きい。次作が楽しみだ。
星の王子様 著者 サン=テグジュペリ

世界的ベストセラーであり、有名な本であるが、今まで読む機会がなかった。一読してみて、なるほどと頷く部分を強く感じた。というのは、非常に繊細な感受性が、本書の中に、まるで宝石のように散りばめられている感じだからだ。宝石と形容したのは、その感受性の所以が、人間の一番大事な機微に触れる心の部分に、明快な形で焦点を当てているからだ。愛や共感や、おもいやりというような人間の心情の最もきらびやかな部分が、王子様とパイロットの会話を通じて、美しく叙情的に表現されている。「一番大事なものは目に見えない」という言葉が印象的で、これは人間の精神賛歌であり、それはもちろん人と人との結びつきにおける愛情に他ならない。しかし単に愛情といってしまうのもなにか物足りないし、実は的確のようで的確な言い表し方でもない。やはりそこにおいてロマンチックな叙情的な繊細さを表現したほうが、その真意は伝わりやすいということなのだ。愛情を表現するのに、婉曲的だが、非常にロマンチックで、人の心情を揺さぶる表現をとったところに、著者の真骨頂があるだろう。

著者はこの作品の「ぼく」と同様、パイロットである。パイロットは、経験はないので憶測だが、非常に孤独であり、寂しい職業の面があるのではないだろうか!?なぜなら飛行している間、操縦する緊張感を常に一人で受け止めなければならないし(一人用の場合)、その間話し相手はいない。また空中から見下ろす形で地上を俯瞰できるので、地上の人々との意識の乖離は激しいという感覚に陥ることになるからだ。著者の感受性の豊かさは、このパイロットという職業が助長させた面はあるし、またその感受性のために、それを保持・育むための、いわば孤立への憧憬として、死ぬまでパイロットの仕事にこだわり続けたのだろう。

本書は非常に素晴らしい本で、世界的ベストセラーなのも頷ける。おそらくこの本は心が豊かできれいな人のほうがより楽しめるだろうし、その価値を認めるのは間違いない。なぜならこの本自体がそういう資質の人の著作であるからであり、そこにおいて、本の内容や表現の数々において、一種のシンパシーを抱くからだ。ぜひ再読してみたいし、友人恋人などにも積極的に進めていきたい良書である。

話を聞かない男、地図が読めない女 著者 アラン ピーズ, バーバラ ピーズ

大脳生理学の見地からの、男女論ともいうべき本。もちろん立場上、遺伝や脳の構造に固執しているので、それ以外の要因、後天的環境面による人格形成を極端に軽視している。ゲイやレズビアンなどの性的倒錯者もいわば、脳のホルモンバランスの異常だという。要するに本人の意図は介在していないし、生得的な問題なので、社会的に寛容に受容してあげる必要があるという論法も見受けられた。

内容自体は納得いく箇所も多く、男女における相違についての分析としては、一定の評価が与えられる。大脳自体の神経系の電気信号やホルモンの分泌をその根拠としているし、実際統計やデータ上確かなのもあるわけだから、一定の信憑性は与えられるからだ。しかし一方であまりにも機械論的な物の見方に終始していないだろうかという疑問は残る。環境における人格形成を全く問題にしていないのが疑問だということだ。本書の論旨としては、大脳それ自体や遺伝的要因のみで、人生が决定されてしまうと言っているに等しいし、それは余りに短絡的なものの見方というものだ。人と人との出会いや、それにおける好影響や悪影響が、どれだけ性格それ自体を大きく変容させてしまうかという可能性は常にあるのは間違いない。科学的でない、人為的な相互作用の可能性を捨てさることはできない。
連合赤軍「あさま山荘」事件 著者 佐々淳行

以前から知っていた事件だが、あまり詳しくは知らなかった。本書を読むことで、事件における背景と大体のあらましを知ることができた。著者は元警察官僚ということで、その文体はやや硬質的な印象を受ける。しかし事実推移はよくまとめており、余計な装飾はしていない感じで、率直的である。それは著者自身がこの事件において責任的立場にあって、警察部隊を指揮する立場にあったからである。それゆえに裏側の事情やそこにおける苦心などがよく見て取れる。

まず印象に残ったところは、警視庁部隊と長野県警部隊における利害の相克というべき箇所があり、長野県警は警視庁に完全に従属している管轄ではないという事実が興味深かった。県警は県警なりのメンツがあり、そのメンツを保持し、高揚するためには、中央の警視庁との意見の相違による衝突も辞さない。その県警原理主義というべき主張を、どうおだて一つの組織にまとめていくかという、著者なりの苦心が述懐してあるが、このことは結局県警側の一つの失態を契機に、中央の警視庁側の主張が、優勢になっていく。

またあさま山荘が天然の要塞であり、ここを攻略するためには相当の作戦が練られたようだ。また赤軍側も偶発的にこの天然要塞を選んだのあって、実際この立地条件における利便性についてはそれほど認識してなかったようだ。事件の決着は、約10日を経て、警察側の強行突入によって、犯人側が逮捕拘束されるという帰結になった。人質は無事確保したが、警察側の犠牲者が二人、民間にも一人出た。

本書は基本的事実推移を警察側の視点にたって、適度にまとめている。大量に押し寄せるマスコミ各社との交渉ややりとりも、なかなか問題であったようだ。ここにおいても日本の野次馬根性精神が見て取れる。実際民間の群衆も物珍しさからが、大量に押し寄せていた。しかし現代はこの時代(1972年)ほど、群衆は他人のことに関心がなく、より冷淡になっているといえる。

嫌われる勇気 著者 岸見一郎・古賀史健

ベストセラー書ということで一読してみた。なるほど示唆に富む所がかなりあり、納得いく箇所も多い。本書は対談形式になっているが、これは古代ギリシャのソクラテスとにおける対話理論に準拠している。本書における「青年」は我々の共有意識を代弁している感じもあるし、それを著者側は意図している。そして「哲人」が「青年」を啓発し、教えを紐解くという感じだ。

アドラー理論は初めてだったが、徹底的にアンチフロイトの立場に固執するあまり、本質を見失っているという印象も受ける。実際アドラー自身が、自分の理論の独自性を示すために、巨匠フロイトを利用したと考える向きもできる。それほど本書を読んだ上で、フロイトの理論を否定的に捉え、それを媒介に自分の理論の正当性を示す向きが強いと感じた。
まず目的論だが、フロイトの因果論を否定した上で、新たな見地に立った上での理論であるのは明らかだ。あらゆる現象は目的が先立った上で、その目的ゆえに縛られているという見解だが、なるほど一理あるが、それは間違っている。実際世の現象は因果関係ゆえの帰結にあり、そこに存在するにすぎない。まず目的という概念自体が、人間のある種の未来を予測するための契機付のための概念である。即ち架空概念であるともいえる。その架空における虚構が、何故現在を束縛し、そのあり方を規定しなければならないのか!!?このように考えると、アドラーの目的論は誤りであると断ぜざるをえない。
また課題の分離という提言もあるが、これは完全にあり方の本来を歪曲して捉えていると考えられる。現象の整理把握には便宜的な概念であるのは間違いない。課題とは自己の課題であり、それぞれがそれぞれの責務を負い、そこには干渉しないし、期待をしないということだが、理屈上は納得させられる整合性を秘めている。しかし実際は理屈どおりには行かず、そう単純に分離だと割り切れるものではないのが、人間であり、人と人とにおける感情の結びつきなのである。
それゆえ本書で書かれてあることは、あくまで心理学ではなく、こう考えれば楽に生きられますと提言する、自己啓発書にすぎない。心理学的なことは劣等感に関する箇所だけ書かれてあったが、それは概ね正しい。しかし他の箇所は単なる自己啓発書であり、いわゆる思考は現実化するというような、都合のいい自己解釈本にすぎない面がある。

しかし全体を通してみれば良書であるのには間違いない。自己啓発書といえども、その理論がなかなかよくまとまっており、わかりやすいし、説得力もあるからだ。一読だけではわからない箇所を秘めていると思われるし、再読する価値はあるのは間違いない。全般をまとめて言えば、心理学という体系的学問ではないが、生き方を啓発してくれるありがたい本という感じだ。
自殺者 著者 若一光司

過去の日本の自殺者を、著者の恣意に任せて、118人ピックアップして、その背景や動機に迫っていく。時代は昭和20年代から平成9年と幅広い年代を取り扱っている。人物は政治家や作家、俳優、映画監督、学生、市井の人々など様々な立場の人々だ。

まず本書を一読した上で、私が感じた、自殺者の動機をパターン化して捉えていくと、
①社会的な地位や面目が失われる事に対する恐怖、あるいはすでに失われてしまった事による自己喪失感や強烈な恥意識。例、若山セツ子、河合大介、山本昌二、竹脇昌作など。
要は仕事がうまく行かなくなったりして、経済的な面で苦境にさらされたりする場合であり、社会上における自分の立場というのを見失う。
②自分の思想あるいは哲学というのを順守するために、死ななければならないという観念に引きずられた上での自死という選択。例、三島由紀夫、山口二矢、森恒夫、山崎晃嗣など。
これは肉体を滅ぼすことより、精神を滅ぼすことに主眼が行っており、要は自己における死を志向している。信念や思想によって命を断つというのは、極めて人間的な現象であろう。
③対人関係において裏切りや失恋、失望、などショックな出来事が起こり、精神における自己のバランスを見失っていく。乖離意識によって、均衡状態が崩れてしまったため、自分の充足が満たされず、自分を信頼できなくなっていく。例、安城美智子、奥浩平、岡田有希子、中川一郎など。
現代におけるうつ自殺などがその典型である。うつにおいては、対人関係の拒絶がその根底にあり、社会との緊張関係が続きすぎた挙句、自己と社会との均衡状態が決壊する。

とりあえず3パターンに分類してみたが、まだまだ足りなく感じる。自身の健康における不安やその苦痛のための自殺も主な動機であるが、それは不可避的なことであるので、あえて省いてある。
分類して感じたことは、どの自殺も社会上における自己との関連性における何らかのバランス状態の欠如を満たしている、ということである。上記の①③は当然、社会における彼我の立ち位置を見失っているのは明らかだろう。②はやや特殊なケースだが、やはり思想性に関わる上での自死という意味を満たしており、それは常に現在の社会システムと関係している。だからあながち現況における自分を取り巻く環境から、引き離した上での思想や哲学とは考えられない。

こうなると人間という生き物は、どこまでも現在自分が生きている社会に従属せざるを得ない生き物であるということの意味が、真実味を増してくる。もちろん社会上における自分の位置を見定め、それを生きる糧としていくということを含意しており、裏を返せば、対人関係や社会のシステム上における、(自己にまつわる)位置解釈というのが何より重要なのである。
それが決壊、崩壊すると感覚するから、自殺という選択を選ぶ。位置解釈は当然便宜的な解釈であり、恣意的な解釈にすぎないので、どこまでいっても主観の枠組みのうちにおいての解釈であるが、自分にとってはそう解釈するしかないのである。それは現況における自己の構造それ自体が、そういう解釈をするための選択の連続をしてきたという意味でもあるし、またある状況下においては他の選択肢など目にはいらないという場合があり、それはよほど混乱疲弊しきっており、解釈それ自体が認識されないということもあるのだ。

しかしまだまだ検証していく余地はあるし、事はそう単純ではないという実感もある。
いずれにせよ本書はまずまずひとりひとりの紹介をコンパクトに纏めており、参考になるべき箇所も多かった。

卒業式まで死にません 著者 南条あや

女子高生の日常風景を日記形式で書き綴っている。本書の著者はいわゆる「メンヘラ」であり、その分、健全な生活スタイルの女子高生とは相容れない部分が多い。一見、その内容によっては、元気があって、ハツラツとしている印象を感じるが、それは表層的な部分であり、またこの日記が本来はネットを通して、不特定多数の人に対しての閲覧を意識した上で、書かれた内容ということもある。

著者は小学生時代と中学生時代の時期に、クラス全体からの強烈な虐めにあったと述懐している。強烈とは私の視点から見て感じるのであるが、実際この嫌な体験から、彼女はリストカッターという自虐行為に目覚めていくのである。クラスのある優秀な人に対して、とても嫌われているという事実を知った時に、ひどく落ち込んだ挙句、元友達にも非難された時には、彼女にとってこのリストカットという行為は自己回復のための手段ではなく、何かの儀式として変容していく。思うに本書を通してのテーマはこの部分においてすべて満たされるのであり、彼女が日常において発作衝動的に繰り返していくリストカットの因を解く最大の鍵となっている。最初はリストカットは自己の立場を回復させるための手段であった(同情を引くため)、しかし自分が「最大に嫌われた」と感じることによって、それは何かの儀式になっていった。
この最大に嫌われたことにより得られる感覚というのは、徹底的な自己嫌悪感を通り越すほどの、自己否定的観念である。当時の彼女は、中学一年という年頃の女の子であり、周囲との対人関係における良好さや円満関係を何より重視したがり、ややもすると人間関係に縛られる時期である。当然人間的に未熟であり、体験を通して、自分という人間をわかっていないことが多く、特定の思想や信念、理念もなく、行動の一貫性というものが一切ない。すると周りとの関係をいかに良好に保つかということに意識がより腐心させられ、そこにおける自分の立場や有用性を確認したがる。当然この時期特有のいわば思春期の前段階なわけだから、だれでも経験あるし、普遍的な現象でもあるわけだ。
それゆえに、この多感な時期にクラス全員からいじめを受け、最大に嫌われたと感じる失望や落ち込みというのはそのショックたるやなみなみならぬことであったろう。トラウマとして精神背景に沈殿しつつ、いつまでもこの時期に感じた自己否定的観念はついぞ消失することはない。中学2年生以降、彼女はなんとかこの苦境を乗り越え、友達もでき、表面的には普通に暮らしていくことができたが、やはり嫌な不快な体験が飛来するごとに、彼女はリストカットという自虐行為、(それは自分の自己否定観念を正当化するものでもある)を発作衝動的に選択することになるのだ。

彼女の性質は、日記を散見する限りにおいて、非常に内省力があり、また自己批判が厳しく、その方向性においてしばしば自責の念に駆られることも多い。自分を取り巻く環境を、いわば客観的に評価できるということで、決して自己中心的かつ自分本位な人間ではなく、人の立場を配慮し、その内奥に共感するという資質はある。内面においては、絶えず対人関係においてその葛藤に苛まれているようであり、人を批判する感情もあるが、なかなかその批判感情を相手に表明することはできない。しかし批判すべき時に、批判する箇所も結構あるので、言いたいことも言えずに溜め込む一方の人間とは違う。友達との関係は、結構相手のペースに引きずられているような印象であり、完全な対等意識を持つということはなかったのではないだろうか。これはもちろん他者に対する信頼感の圧倒的な欠如ということにつながり、要は心から信頼出来ないし、もちろん過去のトラウマに起因する部分がある。
また彼女の性質を語る上で最も重要な人物となるのは父親である。この父親に対する不平不満や恐怖や不安、または感謝など、入り混ぜの複合的感情を抱いているのであるが、それが彼女の人格形成に影響を及ばした度合いはものすごく強い。この部分は読書感想の範囲を超えるので、また別枠を設けて書いていきたいと思う。

本書の著者は、高校卒業式の後、わずか20日後に自殺という選択をえらぶ。その頃には恋人という将来を約束した男性がいたのにもかかわらずである。高校という束縛機構から開放されて、これから自分の人生を開拓していく彼女にとって、何が足かせになったのであろうか。心的外傷後ストレス障害(PTSD)を克服できずに、死を選んだと考える向きもできるし、それは当然適当な答えなのであるが、これだけ強烈なトラウマ体験を克服しろというのがなかなか難しいのではないか。いずれにせよ、本書の著者はまた別な機会に考察していきたい。
毛沢東の私生活(上)・(下) 著者 李志綏

22年間にわたって、中国共産党の創始者毛沢東の主治医を務めた人物による回想記。いわば暴露本の体裁があり、公にはなかなか見ることのできない、毛沢東の実像を述懐していく。
だいたい独裁者としての、自分の直感的予想としてのあるべき姿と、別段乖離しているという要素は少なく、最高権力者を超越した、専制的独裁者としての毛沢東のあり方が興味深い。毛沢東にとっては、他の党員にとって、自分は神のように超越的存在でありたいのであるし、またそのために絶対的忠誠を要求する。しかしその誇大妄想狂的な、自己賛美は、その反面において、癇癪持ちであり、異様に猜疑心の強い性格に反映されており、そこにおいては非常に孤立的で孤高な実体を伴った一人間ができあがる。それはメーデーを含む国家的行事に望む際に対し、人民の前に姿を表すことを、非常に嫌がったという記述において認められており、人民大衆の自分に対する神格化による賛美や信奉に対するプレッシャーが強くのしかかってきたのである。それは自分の神格的なイメージを強く保持していきたいという政策的意図と強く関与している。

政策としては大躍進政策の大失敗における不名誉を、後の文化大革命によって、やや求心力が低下したかにみえる、自分の絶対的権力を奪回しようと企む。ナンバー2の劉少奇を粛清させたのは、自分の権力が脅かされるまでに力をつけた劉少奇を非常に恐れたからであり、それは後の林彪事件も本質的には同様であろう。政治党員の権力を一極化させないような配慮や取り決めというのを常に算段しており、例えば文革における4人組の抜擢は、他の政治党員の権力を分散させるために、妻の江青を含めた4人組を取り上げることによって、利用したに過ぎないのだ。いかに毛沢東が政治的権力を自分のもとに集中的に帰順させることに腐心しており、その目的のためには、人民や他の政治党員の事情など、取るに足りない事柄であり、その帰結として、人民の命を極端に軽んじる「中国は人口が多いので、何人死のうと構わない」というような台詞が飛び出したがわかるだろう。

著者の目を通してみる毛沢東は非常に生き生きしており、リアルな存在感が備わっている。また話全体としても全体的に辻褄が合い、整合性がある。おそらく殆どが事実であり、決して捏造ではない。
著者は毛沢東の死に至るまで、時代の荒波に飲まれていき、政治的な権謀術数の保身と権力闘争が渦巻く世界から、身を引きたいと何度も感じてきたが、そのたびに毛沢東に引き戻らされたと述懐している。著者の性質は、まだ狡猾で陰険な所が少なく、医師として自分の人生を全うしたいという、ある種求道者的な純粋な匂いも感じさせる。まさしく毛沢東やその妻の江青とは相容れない人物であったろうと推測できる。

本書は独裁者の類型を知るという意味において非常に価値のある歴史的史料であるし、また中国共産党の内幕を垣間見るという意味でも、その価値は高い。全体的に訳の旨さもあるが、誠実な構成になっており、いい加減で適当な所が少ない。読み通すまで、ある程度時間がかかったが、非常に面白く読ませてもらったし、興味深い箇所が多かった。良書である。