That's IT !備忘録!!

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PHP、HTML、CSSなど。

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CSSでレイアウトをしていく際にはpositionプロパティを主に使う。

値としてrelative、absolute、fixed(スクロールしても固定するので、主にヘッダーなどに使用)がある。

relativeは元々のポジションからの位置を指定、absoluteは直近の親要素からの位置を指定する。

absoluteはスクロールしてもコンテントは固定しているが、画面が移り変わるとfixedではないので消えてしまう。既定としてはstaticになる。

 

あとdisplayプロパティも重要だ。inlineはインライン要素にし、widthとheightは指定できなくなる。blockはブロックレベル要素にする。inline-blockはwidthとheightを設定できるインライン要素だ。ゆえにすぐ横に別のコンテンツが来ることになる。

他にもいくつかdisplayプロパティの値はあるが、取りあえずはこの3つを押さえておく。

 

z-indexプロパティは要素同士が重なった時に、重なり具合の表し方の順番を設定できる。

 

ポジショニングする上でfloatも利用できる。positionで初期値のstaticのみ有効。要素を左または右に寄せる。clearプロパティはその回り込みを解除できる。

CSSで色のスタイルを表す場合、colorとbackground-colorの2通りのパターンがある。

colorはテキストや文字列などの要素その物に色を付ける。background-colorになるとその背景に色づける。

 

CSSでの色のスタイルの仕方というのは4通り(ちと多い(^_^;)

名前で指定。147色のみ。black、whiteなど

Hexで指定。#を最初に付加するやり方。256 * 256 * 256色、↓も同様。#23F41A、#fffなど

RGBで指定。rgbとは赤緑青の組み合わせの事。例:rgb(7, 210, 50)。

HSLで指定。hue (the color itself), saturation (the intensity of the color), and lightness の組合わせ。になる。例:hsl(200, 20%, 50%)。

 

※RGBとHSLは最後にaを付加する事により、opacity ~透明度を表現できる。rgba、hsla。

※なるべく一つのスタイルシートでは、一つのスタイルで色を指定した方がいい。<読みやすさの為。

ボックスモデルについて

 

CSSを習得するにはボックスモデルについての理解を深める事が必須となる。要素同士のスペース間を自由にカスタマイズする事ができれば、それについての理解は盤石となる。

 

①width、heightの各プロパティはコンテンツのみに適用される

②padding<border<marginの順にコンテンツの外延が適用される

margin:0 auto;はヒエラルキーの子要素に中央揃いを適用させる。※親要素にwidthの値を設定する

④要素が並んだ場合のmarginは、水平なら加算される。垂直なら大きい値に収れんされる。

overflowプロパティは子要素が親要素からはみ出た場合、値のhiddenが良く適用される(※overflowは親要素のプロパティにする)。

 

box-sizingプロパティも重要だ。デフォルトのcontent-typeではborderの太さとpaddingの値がコンテンツのwidthとheightの長さの値に影響を与えてしまう。これを無視し、コンテンツのwidthとheightの値を保持したいのであれば、値をborder-boxに変更する。

またuniversalセレクタ(*)で全ての要素に、border-boxを適用させるのが良く使われる。

 

 

 

さあ、今回はCSSのセレクタについてのまとめです。

 

①要素型セレクタ・・・タグ単体にスタイルが適用される。p、h1などタグで指定

②全称型セレクタ・・・全ての要素にスタイルが適用される。アスタリスク*で指定

③クラスセレクタ・・・クラス属性にスタイルが適用される。マルチに適用。複数選択できる(半角空ける)。またp.sampleのように要素とつなげる記述を特にチェインセレクタと呼ぶ。ドット(.)で指定

④IDセレクタ・・・ID属性にスタイルが適用される。一意に適用。#で指定

⑤子孫セレクタ・・・入れ子構造の子孫にスタイルが適用される。div pなど(半角空ける。全ての子孫に適用)、div>p(直下子孫のみ適用)

⑥複数セレクタ・・・関係性のない複数のセレクタにスタイルを適用。p,h1など

 

他にもいろいろありますが、まずはこの辺から確実に抑えときます。

後は継承や優先順位の概念もあります。一例、p.sample>.sample

 

 

 

洗脳広告代理店 電通  苫米地英人

非常に関心深い内容だった。以前から広告会社「電通」の事は見聞していたが、実体はどのようなものか漠然とした印象しかなかった。
本書はその漠然とした印象しか抱かなかった「電通」という広告代理店を、明確的にわかりやすく、炙りだしてくれるような構成になっている。現代社会は広告の分野が非常にメディア権力と結託し安い状況になっており、その広告産業における分野を電通がほぼ一人勝ちしているという状況があり、著者はそれを権力の暴走を許さないという意図のもと、警蹕を鳴らしている。何故広告産業が(政治)権力と結びつくかというと、メディア権力が広告の一人勝ち企業「電通」と、ひどく癒着しているからであり、有り体に言えば頭が上がらないからだ。その構造は伝統ある社風ということと、通信社を分社化させた過去、そして広告主とメディア側(テレビ局)の、双方の仲立ちを取り持つ側だからという事である。そしてメディア権力が政治権力側から完璧に保護化され、既得権益、利権産業の温床になっているのは、例えばテレビで言うとわかりやすいが、新しい新規のテレビ局が参戦出来にくい現況を見てもらえば明らかだ。新聞もそうで、古くから新聞とメディア側はほとんど固定化されてしまっている。それ故に著者は現代日本のメディア側が権力の監視役をするという、本来の民主主義のあり方における役割から外れてしまっていて、権力側の意向を宣伝する権力癒着媒体であると主張するのである。
本書はその他にもインターネット時代において、ツイッターやフェイスブックが権力者側に宣伝広告のために利用される危険性を指摘している。そういえば本書には記載されていないが、ペニオク詐欺というのもあった。また著者は、大衆(B層)に対して、いかにネットやテレビを駆使して、宣伝広告によって「洗脳」していくかという愚民化政策を指摘しており、それは一考の余地があるであろう。

現代版 魔女の鉄槌  苫米地英人

グーテンブルクの活版印刷が発明された(1445年)後に、魔女の鉄槌という本が、当時において相当なベストセラーになっていたことは知っていた。本書はその魔女の鉄槌が成立し、それが民間に広く流布した背景を分析しつつ、現代日本とのその類似性を検証するというものである。
本書は言いたい主張というのは首尾一貫しているが、中世世界と現代社会の検証を行ったり来たり往復するため、非常に散漫な印象を受ける。それは情報が権力者のいいように都合のいいように、民衆に伝えられてきた、その(情報における)利用方法についての事なのだが、情報における共有化というのがテーマになっているという事だ。
中世キリスト教世界において、魔女狩りにおける異端審問官という、ある種特権的な地位は、魔女を断罪するとともに、資産的価値の没収の目的もあったと述べている。魔女の鉄槌の背景には、当時の社会不安もあり(ペストの流行など)、何かしらのスケープゴートを求めていたところに、魔女の鉄槌という情報拡散ツールが流布し、魔女狩りを神経症的にあるいは政策的に行っていったのだろう。また本書にジェームズ1世とテンプル騎士団についての逸話が述べられているが、それはとても興味深い。特にジェームズ1世は、現代英語版の聖書の欽定訳聖書を制定しており、それと同時に、悪魔学の権威書であるデモノロジーを編纂しているというのだ。悪魔と聖書、全く相反する要素に見える分野を、本にまとめた人物が同一人物だというのは面白い歴史的事実であろう。
現代における情報統制については、ツイッターなどのネットのツールがますます利用されるようになると警蹕している。原子力利権の問題やそれぞれの情報の意図的操作に基づく被害にあった人たちについて述べられており、本書は情報空間における知恵や知識を満たしてくれる内容になっている。
ガンジー自伝  ガンジー、 蝋山芳郎訳

今までガンジーに対して、どのような印象を抱いていたかは、「非暴力主義」というステレオタイプ的な表現の見方に終始していて、その実体は(私にとって)よくわからないという感じだった。
本書はガンジーが、ある時期に本格的に政治家に転身するまでの、今までの人生を振り返った自伝的形式となっており、人生における出来事のみでなく、ヒンズー思想を背景にしたとも言えるガンジーの精神の内面が叙述してある。
そう読んで一番に感じたことは、ガンジーの人生に由来する、インド人差別における様々な困難な闘争よりも、まずガンジーの内面、その思想的哲学の真骨頂にある。ヒンズー教のギーターの敬虔な信者だったガンジーは、その教えと実際的生活との狭間の、精神の葛藤に度々揺れ動くことになるが、やはり自己の内面に忠実な生き方を、種々の人生の分岐点において、度々選択していることが見て取れるのである。例を挙げると菜食主義(肉は禁止)、断食、純潔、自給自足の農園経営、不服従、非暴力のプロパガンダ的遊説運動と、まさにガンジーの一連の行動背景のその背後には、確固とした信念と主義信条における強固さがある。またリーダシップ、統率力も抜群といった趣であり、社交力に優れ、本書においても様々な人達がガンジーと交流している様子が見て取れる。実際その思想的背景は別にして、ガンジーのリーダーシップは天性のものがあったと思う。それはやはり譲れない、こびない対人スタイルであり、自己の信念に忠実な意見や思いは、臆さずに、権力のあるイギリス人であっても堂々と開陳することができ、またそのために被ることになる自由の権利を奪う、拘束や投獄さえも、辞さないという感じであるからだ。実際ガンジーは何度かイギリス人を主体とした当局に拘束されている。
ガンジーの内面にあったスピリットは何であったか。その思想的哲学の根源は何であるか。情念レベルでたどれば、被抑圧者に対する解放はもちろんだが、その根底にあるのは各種人種における包括的な平等思想か、それともインド人の民族意識を喚起した場合における民族主義思想なのか。まだまだ本書が執筆された時点では、まだガンジーの活動はこれからというところなので、本書のみではわからない。これから政治家として有名な「塩の行進」運動もなされることになるが、当然触れられていない。ただどれだけガンジーがその思想性の奥行き差において深いか、また忠実であるかということが、如実にわからせてくれる本なのである。そして私は、本質的にはガンジーは政治家向きの人間ではないように思った。何か求道者的な趣があり、妥協を許さない徹底さを感じるからだ。しかし自分の思想を追い求めていった先が、政治における改革であり、それはガンジーにおける運命の皮肉さを感じさせる。

日本を追い込む5つの罠  カレル・ヴァン・ウォルフレン

作者の事は、著名な日本人論・日本社会論の一論者として以前から知っていた。というのも大昔にこれとは別の本を一冊読んだことがあるからだ。その時は知識もまだ高くなったが、深い感銘を受けた事を覚えている。本書は2冊めの本となった。
本書は5つの視点・問題から日本に降りかかるであろう災難(本書は罠と形容している)を、論理的に叙述するという形式になっている。TPPと、EUの「財政緊縮」、原子力権力と対米従属の沖縄、そして権力への無関心という問題だ。なるほど、読んでいて全体的に説得力が強かったように感じた。特に終章の権力に対する、特に若者の無関心さについては、警告を発すべき時期に来ていると思う。TPPに関しても経済協定のように見せかけて、アメリカの中国・ロシアに対する牽制の意味合いを兼ねた政治協定なのだという見解は興味深い。著者はアメリカと日本の関係性を非常に興味深く分析していたが、過去、現在とどのような国においても見当たらない、純然たる同盟国でもないし、ましてや宗主国と属国の関係でもない、どのような類例にも当てはまらない、特殊な関係性なのだそうだ。なるほど、指摘されてみると、珍しいように思う。私の考えでは、アメリカの国民性と日本の国民性がまるで別の世界の住人のように異質であるという事のためと考えているが、いずれにせよ対極な国民性といったものが関与しているだろう。
全体的に日本人論の舌鋒鋭い論者としての作者の矜持はある程度満たせたかの様な出来となっていて、非常に興味深い構成となっている。
インカ帝国探検記 ある文化の滅亡の歴史  増田義郎

インカ帝国はかって南米大陸、現在のペルーの辺りで覇権を握っていた、大帝国だった。
周辺部族を傘下に収め、覇権を握るまで、各部族との抗争はもちろん、王という最高権力を握る
ための、骨肉の争い(肉親同士の争い)が頻発してあり、これはそれだけ王という最高権力が、帝国を支配するための絶対性の強さとなりうるかを物語っている。
またインカ族は太陽を最高神と崇め、各地域に太陽の神殿を建設する。文字文化は持たず、縄(キープ)を組み合わせたものが、数字を表し、記録を残すための媒体となっていたようだ。また中国で言う「後宮」に類する宮殿があり、各地方から集められたインカ族の処女が集められていた。これは王の権力の強力さの一端を示す事実であろう。そして黄金鋳造技術の確かな水準の高さは、征服しにきたスペイン人を驚嘆させた。著者は黄金の国とはインカ帝国のことであろうと述べている。
しかし金属では「鉄」は持たなかった。オリエント文明圏ではあれだけ猛威をふるい、各文明の軍事力や生活の利便性に寄与した「鉄」が未発見だった。そして馬もいなくて、リャマなどを飼育していた。こういった事実は、まさにインカ文明のオリエント文明に対する、特徴的な対比を見せつけられたようである。

本書はスペイン人の征服側からの視点で主に描かれているが、インカ帝国の概括的な歴史の過程も述べられている。淡々とした描写で描かれており、読みやすい。また先人のインカ帝国に関する著作を(スペイン人の著作で原資料が多い)、ところどころ引用しており、それが時代背景を語る裏付けとなり、信頼できる資料としての材料になっている。著者は若いころ、インカ帝国の遺跡のマチュピチュまで冒険に行っており、なかなか(インカに対する)思いは深いようだと感じた。
ところでスペイン人側においても、征服者ピサロとアルマグロとの仲違いや確執があったり、順風満帆な征服過程ではない。それは拠点のパナマから数回に分けて遠征している事から明らかであり、地勢状況を調査しながらの、手探り感満載の征服過程であった。またスペイン人が、インカ帝国の文化や遺跡を破壊したからといって悪一点ばりに断罪することはできない要素もある。それは中世キリスト教世界観的秩序を、インカの各地域に広め、定着させようとしたからであり、それが新たな秩序の維持形成や、インカ帝国の支配に変わって、社会の安定に大きく寄与しているのは間違いないことだからだ。物事は単純な見方で、一意的な味方では、判定できない面があり、私も今のところこの問題に関しては考察の余地があると思っている。

魔女と聖女 中・近世の女たち  池上俊一

本書は中世キリスト教世界において、社会や国家や宗教的権威(カトリック教会)によって、女性がどのように扱われ、あるいは評価されてきたかを述べた本である。本の題名は魔女と聖女になっているが、全体的な視野に立って、(中世ヨーロッパ地域において)女の地位や生き方がどのような感じであったかを記している。
魔女狩りはやや近世に立ち入りかけの17世紀後半には下火になっている。全盛期は17世紀最初の四半世紀だったようであり、意外と近世に近いという事がわかった。イメージ的には因習的な響きすら感じる用語なので、もう少し古い時代の出来事だと思われがちだと思う。
もちろん、各地方の閉じた共同体、農村集落における、多くは女性に対するネガティブなレッテル貼りが、魔女という概念を生み出した契機となった。男の魔女もいたが(魔男?)、ごくごくわずかだったようだ(1割位)。やはり集落における、他の住民と馴染めないもの、はみ出し者、あるいは評判のいい呪術者、共同体に利益を成すものまで、要するに得体の知れない女性が、魔女として、カトリック教義の権威を脅かす異端としてレッテルを貼られ、多くは適当かつなおざりの裁判を経て、処刑されたということだ。まさに異端としての権威を成す基盤としてのカトリックは、当時のペストなどの疫病を(それは社会不安を呼び起こす現象であるが)、それの転嫁的断罪としての特定の社会的弱者としてのそれぞれの女性を、魔女のレッテルを貼り付けて意図的に裁いていったのであろう。まさしく呪術と魔術、迷信の支配する世界観であり、現代の科学文明とは一線を画すことである。
しかしキリスト教の影響が強い時代なので、聖女と形容されるべき女性も多く出現した。中世ドイツのヒルデガルトはその典型であろう。イエスの存在、神の教えに近づこうとして、いわゆるエクスタシー現象による、神秘体験をした女性が聖女と呼ばれることになる。それは強烈な信仰心がなせることであり、信仰心の偉大さが聖女の条件であり、それはもちろんキリスト教世界観の賜である。魔女と聖女、一見相反する要素に見えるが、同じ女性であるのは間違いなく、それは紙一重の差であり、当時の社会的・宗教的見地によって移ろうものなのだ。いずれにせよキリスト教的世界観の所産であるということだ。
終章近くでは、宗教とは関わらない、一般社会・世俗社会に生きるたくましい女性の姿を叙述している。ベギン会(半聖半俗の修道会)などは、女性のたくましさの賜物のような組織であると思う。男は理想を追求するが、女は現実的なあり方に依拠することを基盤として、なおかつ精神の豊かさを求めるという、その生活に密着したたくましさということだ。
本書は、中世の因習的世界においても、決して社会や権威に抑圧された一辺倒の存在ではなかった、女性の生のあり方が記してあり、通常の歴史本では全く日の目を見ない、女性を生き生きと描いてる点において、かなり評価の与えられる本であろう。
最近は週に4~5冊は本を読むように心掛けている。

どんなジャンルの本を読むかは決まっていて、思想・哲学・心理・歴史・社会・宗教・経済・自伝に関する本を読む事にしている。最近は歴史に関心があるので、歴史の本を読む機会が多くなっている。また私が評価しているお気に入りの著者がいて、昔では心理に関する著作が多い岸田秀、最近では様々な分野に造詣が深い苫米地英人、ローマ人の物語の塩野七生、逆説の日本史の井沢元彦、ユダヤ人の別名がある山本七平などである。フィクション・小説の類は、以前はミステリー小説や歴史小説など色々読んでいたが、もう最近は全く読んでないし、これからも読む事はないだろう。では何故私は色々と本を読むのだろうか?

まず読書する事によって、自分の中の知識欲が満たされるからだ。色んなジャンルの本を読むのも、色んな分野に関する知識欲を満たしたいからであり、もちろん本によってはその欲求を存分に満たしてくれる。私はそれだけ知識欲が旺盛ということなのだろう。また社会科学に関する本に多大に関心があるのは、その分野に関する関心、即ち人間という生き物に対する関心が多大にあるからだ。人間に関する関心、人間という存在の謎を解き明かすことは、私の生涯をかけて追求しなければならないメインテーマである。人間をもっと知る、深く知るという目的のために、読書の習慣は絶対に欠かせない習慣として定着させなければならない。
そして良い本を読むという事は、自分の精神が、それに何らかの影響を受ける形で、いい意味で啓発されるという事がある。そういう良本における啓発的効果も、大いに期待している面があるのは否めない。何も全面的に感化されるという事ではなく、批判精神を持ちつつ読むので、そうした上で、本内容を、総合批評した上で、大いに(その本を)評価するのだ。そうして大いに評価した本は、やはり私の精神のおいて、何らかの啓発的効果を及ぼしうる可能性が大きくなるだろう。
あとは自分の中で何らかの取りえ・特徴を見つけたいという欲求があるのかもしれない。読書が趣味という取りえ・特徴を、他者との峻別において、強く(それが自分だという事を)アピールするのだ。読書好きの自分、本の読破にかけては誰にも負けたくはないという、負けじ魂も、私の内面においてはあるだろう。負けじ魂、即ち負けず嫌いという性質は、人を測る性質においての普遍的性質の一環を成している。私もそれを認めなくてはいけないだろう。

これからも切磋琢磨して読書していきたいと思う。読書するという事は、私の中で、ある種の苦行だと思われる部分があるが、それは楽しみのために本を読むのではなくて、習慣として、あるいは知識欲を満たすという目的のために、果たさなければならない行為の一環として、読書が成立するからだ。明快に言えば、私は楽しみのために本を読むのではなくて、真理の体得のために読むのである。
君は1万円札を破れるか?  苫米地英人

なかなか含蓄のある啓発的な内容が多い。1万円札を破れるかどうかは、多くの人が破ることが出来ないだろう。しかし著者はそれは経済的上位者からの金銭洗脳の賜であるという。金を史上の最高価値を思い込むところに、経済上位者(欧米の大銀行の株主・頭取クラス)の一般大衆に対する、洗脳の効果が表れているのだ。インフレやデフレの経済現象も、単なるモノとの(その対応における)相対価値における上昇下降関係であるのに過ぎないのに、金を基準においてモノを図っている、現代のその視点が誤りであるという。なかなか納得させられる論理である。
また仏教に関する視点を取り入れた啓発的内容があったり、著者の関心は色々と幅広いようだ。
一番印象に残ったのは、現実の世界における物理的側面と、情報世界における仮想(概念)的側面に分けて、多様な価値を、それぞれの実情に合わせて分別したことにある。例えばネット上におけるウェブマネーや、例えば伝統的な茶道の家元とかも、後者の情報世界におけるバーチャルバリューである。バーチャルバリューという概念も独特の発想だと思うが、現代社会は、単なる物理的な物質に囚われない価値というのが、多くできあがってきているという事だ。仮想世界における価値付けを提唱した上において、世上の実情に合っているといえるだろう。
本書は自分にとって新たな視点を呼び起こさせてくれたきっかけになったし、内容的にも多岐にわたって関心が持てる構成になっている。

青春を山に賭けて  植村直己

本書の著者は世界的にも著名な冒険家であり、本書は一定の成功を収めた1971年に初上梓されている。もちろん私にとって著者の作品は初めて読むことになった。
読んでいて、著者の性質というのは、すごく行動力があり、忍耐強く、勇敢であるなと感じた。もちろん冒険家なのだから当然とも言えるが、それは結果的に後から見た後付である。勇敢と行っても、ほとんど無謀に近いくらいの大胆さを兼ね備えた感じの勇敢さであり、まさしく著者における卓越した資質であるとも言える。もっとも後書きのほうで、著者は、挑戦しがいのある冒険とは、生命を犠牲にするような無謀な冒険ではないと述べているし、それはまっとうな述懐であろう。
登山(アルピニズム)だけではなく、アマゾン川下りなどもしていて、本当に血沸き肉踊るような冒険譚であり、私にはとても真似できない。そして感性的な刺激が呼び起こされる体験の数々は、著者にとって豊かな記憶の財産であるが、私にとっては若干のジェラシーを感じさせるものであった。しかし誰にでもできるものではない。
登山は団体的スポーツであるから、著者の性質は社交的であるとも言えるが、本質的には孤独を好む一匹狼的資質の持ち主である。実際単独登山をよくやっていて、本当に(登山における)ノウハウを学ぶまでは団体でやって(明治大学山岳部)、後は単独登山・冒険がほとんどなのである。エベレスト登山は団体でやるという決め事になっていて、団体的登山になったが、本音ではエベレストも単独に登りたかっただろうと思う。
いろいろの生き方があるだろうが、著者のような生き方は本当に少数派だろう。しかし人を惹きつける困難に立ち向かう普遍的な冒険魂があり、それが後世においても、彼を唯一の冒険家にしているのである。
アントニオ猪木自伝  猪木寛至

プロレスラーの猪木の自伝本である。本書を一読してみて、感じたことは、行動派で感性で生きているなという事だ。金の管理には無頓着な面があり、子飼いの部下・新間に、告発されたりといった、不可解なことが起こるのも、経理や会計の仕事を一任してきたその不用心さをつけ込まれたということだ。私は猪木を見て、直感的に感じる事は、細かいことは苦手だなということであるが、こういう大雑把な面の弊害が出たのだろう。

他にはライバルのジャイアント馬場への対抗心を感じさせる記述が多々あり、プライドの強さを感じさせる。あれだけの実績があるのだからプライドが強くて当たり前なのだが、猪木はそれでも柔らかい雰囲気を醸し出す所がある。それはブラジル1世であり、ブラジルの大陸的な風土の影響を大分受けていて、島国日本人のせせ細かい所が大分中和されてるからだ。

数々のプロレスの激闘を通して、猪木は力道山からのプロデュース力と喧嘩殺法における闘魂に大分影響を受けていると語る。父親が早死にしたので、力道山は猪木の怖い父親代わりだった。やはりアントニオ猪木を形成せしめた要因の第一は、師匠・力道山だったというのが、記述を読み進めて、実感できた。またブラジルから連れてきたのも力道山であるし、彼がいなかったら、猪木は日の目が当たらない身であるのは明らかだ。そういった意味では、力道山は最大の猪木の人生におけるキーパーソンであった。

本書を読んでみて本当にカラッとしてるというか、日本人によくありがちなネチネチした陰湿さを感じさせない。これは猪木の性質を言い表しているのであるが、やはりブラジルの奴隷労働の苦労体験が生きているのだろう。金に関しては事業面の失敗など、その才能には恵まれない所があるが、プロレスラーとしての力量は誰しも認める所があるし、やはり一角の人物であろう。

突破者(上)(下)  宮崎学

下巻を去る5月25日に読了したので感想を書きたいと思う。大分遅れてしまったが、まだ一ヶ月以内だし、そう昔でもないだろう。
まさに戦後の激動の時代をたくましく生きる著者の武勇伝、並びに当時の世相を描いた素描的体裁がある。まさしく著者は独特な感性であり、周りを客観的な視点で分析する目を持ち、論理的、しかし暴力団の親分が父親だったので、その影響を多分に受け、闘争的・攻撃的な面もある。本質的には分析家であり理論家であるが、やはり情緒の多分に大きい家庭で育ったゆえ、激情的な面が育ったのだろうと推察できる。かなりユニークな人材だと思った。

日米安保における著者の主義信条は、当時学生運動の中心思想であった、共産主義思想に託された。革マル派や中核派など、色々分派していたようで、著者の青春時代も、その共産主義的(新左翼)思想に大分費やされる。私は体験していない世代なので、当時の苛烈さや激しさにやや驚きの念を感じた。まさしく隔世の感があったからだ。時代がぜんぜん違う。当時は警察機動隊と新左翼学生達が、たとえ表面上でも、場合によっては暴力に訴える形でやり合っていたようであり、現代では考えられない。時代がまだ活気があったとも言える。

そして著者は、学生運動を経て、後に建設会社の代表となったり、地上げ屋をやったり、犯罪者に疑われたり、まさしく波乱万丈の人生であったようだ。当時の諸々の体験談は本当に興味深い。普通のひ弱なサラリーマン連中には一生体験できない事を経験しており、それは社会の闇の部分に該当するが、著者はその面に関して本当に処世法がたくましくあるようだ。著者は日本は談合の文化が根強いという。それは私もそのように感じていたし、著者の体験を通じてより確信した次第だ。