白内障の手術をした。
左目だけだが、ほとんど盲目に近かったのが、以前のようにはっきりと見えるようになった。
健康な目というのが、これほどよく見えると感謝している。
死ぬ前になって、あと何年楽しめるのかわからないが、カロライナの緑を思いっきり楽しんでいる。
私の白内障は、すりガラスを通して見えるようで、影は見えても何なのかわからなかった。
その状態で困るのが夜の運転だ。
ヘッドライトが磨りガラスの中で広がって、何も見えなくなる。
右目も中心はいいのだが、回りの白内障が始まって視野が狭い。
手術前に困ったのが曲がり角だ。
ヘッドライトの中は見えても、曲がる道がよく見えなかった。
大曲りをしたりする。
それが見えるので、夜の運転が楽になった。
時々左目をつぶって見ると、その視野の狭さに驚く。
今は百八十度の視野があり、小さな蝶やとんぼの動きも見える。
眼は私の体の中でも優れた部品だった。
というのも、若い頃、勉強もせずに近視になることもなく、皆が老眼になる四十代の後半から五年くらい、視力が弱って、ついに来たかと諦めかけたが、眼鏡も買わずにいたら、五十歳から元に戻り、よく見えるようになって今日に至っている。
眼科医の話では、生涯眼鏡を使わない人間は少ないらしい。
今、針の穴に糸が通せる。
私のようなガサツな人間は、それで良かった。
使っていたら忘れたり、壊したりして、どれくらい不自由をしたり、金をつかったかわからない。
眼は心の窓と言う。
私の曇った眼を見て、私と眼を合わせた人がどう思ったのだろうか。
親しい人は、本当のことを言ってくれない。
親しくない人は、汚れた心の人間だと思ったのかもしれない。
カロライナは、緑の美しいところだ。
森も牧場も、今年は雨が多く豊かな緑で、良くなったその眼で一段と美しく見える。
眼が良くなったので、字も上手くなったかというと、それはない。
眼が良くなって、文章に進歩があったかというと、それもない。
何かに目覚ましい進歩があると、人々は開眼したと言う。
せっかく眼が良くなっても、何一つ開眼しないという現実、私としては少し寂しい。
と言っても、虫や小鳥がよく見えるし、薄暗い繁みの中で育つ茗荷がよく見えるようになると、取り残しが少なくなるだろう。
みょうがの花もあと数十日で見られるようになると、いい眼と共に心待ちにしている。

