貧しさの中での、彼女の死は痛い。

ただ会社に勤めていたので、高額な入院費は払うことが出来た。

不幸中の幸いだろうか。

トーマスは子供たちを心配してくれて、いつも目をかけてくれていたので、私の見ていないところ、知らないところで、息子はお世話になっていた。

トーマスは私を気遣って、何も言わなかった。

後に息子から聞いて分かったのだ。

もうトーマスに私は不要だった。

仕事も信用も、私以上に持っていた。

トーマスは、私にいくらでも金を使わせてくれるのだが、そこは私にもプライドがあって、そうはいかない。

人からその仕事ぶりを聞くと、自分のことのように嬉しかった。

私が日本に帰国する時、いつも空港まで送り届けてくれる。

退職後に日本に帰国する時、

「いつ帰るの?」と、心配そうに聞く。

「うん、もう帰らないかもな」

「そんな、子供たちはどうするんだ。嘘だろう。頼むよ、すぐ帰って来てくれよ」

留守の間、家を頼んで帰国した。

飛行機の中で、コートのポケットに封筒が入っていて、見ると下手なスペイン語と英語で、アミーゴ スペンディング マネーと書いてあり、百ドル札が10枚入っていた。

数多くの日本人がいるが、メキシカンから餞別をもらう男は少ないだろう。

それほど自分が貧しいのと、トーマスがよくできた男だからだ。

ありがたかったが、使うつもりはなかった。

別れの時のトーマスの目が淋しげだった。

私の留守中、トーマスは私の長女を何度も訪ねて行ったらしいが、彼女も何も知らない。

それくらい私は、日本から手紙を出していなかった。

そして、数年ぶりにアメリカに帰って来て、大変なことに気が付いたのだ。

永住権が期限切れで、入国できない。

テロリストのように、入国管理事務所に縛りつけられて、身動きできなかった。

私が解放される手段は、グリーンカード永住権を放棄するしかない。

滞在期間は4ヶ月、旅行者並みのビザで帰って来た。

その間に、永住権の再申請がある。

もうどうでも良かった。

空港には長女が迎えに来てくれた。

数日後にトーマスが家を訪ねて来た。

軒の傾いた荒屋を見上げて、

「修理しようよ、手伝うよ」と言う。

「まぁ、この俺がくたばるのか、家の軒が落ちるのかって言う時だ。このままでいいよ」

「それにしても、よく帰って来たね。一緒に食事に行こう」

午後2時のレストランは、人もまばらだった。

暖かい冬の陽が差し込むテーブルで、久々に向かい合うと、トーマスが手を出した。 

久々に握った手は力強かったが、前のように指先が硬くなかった。

「この野郎、仕事してねぇな。手が柔らかいじゃないか」

「わかるな、そう言うヒロだって柔らかいぜ」

「それより困った事になった」

「何が?」

「ほら、日本に行きっぱなしだったから、グリーンカードを取り上げられて、もうこの国に住めないんだよ。数十年前のトーマスと同じさ」

「えっ、モハオ 密入国者」

「うん」

トーマスは、腹の底から笑った。

そうして、目が合うとまた笑う。

「俺の弁護士、紹介しようか」 

「いいよ、自分で探すから」

40年で立場が逆になった。

彼はもう、安心してアメリカに住める。

私は、下手をすると移民官に追われる。

私のように、だらしない日本人は少ない。

少なくとも、私の周りにはいない。

父が言った言葉がある。

「お前には、向上心がない」

そう言われてみると、確かにそうだ。

だったら、何のために生きてきたのだろう。

ふとそう考えさせる。

子ども達を一人前に育てようと思った事はなく、子ども達は自分で育ってくれたのだ。

親としての私に、普通の日本人が持つ教育方針もない。

まぁ自分自身も、子供の手本になるものを持っているとも思わない。

物欲が弱いのは確かだ。

それに、日本人の持つ誇り、それも欠けている。

世の中に認められる多くの人々は、とっくに私を見捨てて行った。

それは、よく自覚している。

何もない私でも、私の内側がわかっている人がいる限り、そこで生きて行ける気がする。

トーマスは裸一貫でやって来て、私と一緒に働き始め、私の安月給で働き、独立してたちまち頭角を現した。

親からろくに教育もしてもらえず、今の生活を築いたのだ。

メキシカンも給料生活では、生活は良くならない。

メキシコよりは豊かだろうが、トーマスのように新車や農場を持てない。

確かにいいスポンサーに恵まれたのだが、その信用を持ち続けた努力は、並大抵では無い。

トーマスは信用されるものを持っている。

仕事が綺麗だからだ。

農地にトーマスが延々と築いた石垣の間で、数十頭の馬が草を噛む光景に、私は言いようのない感動を覚えた。

数百メートルの石垣は、数年かかって築いたらしいが、その仕事は彼の生涯でも誇りだろう。

多くの人々に感動を与え、彼から仕事がなくなる事はなかった。

「トーマス、やったな。見事だよ」

「ヒロに教えてもらったからな」

「自分でも良く出来たと思うだろう」

「初め、こんな大きな仕事ができるか心配だったよ。困ったらヒロに頼むつもりだった」

「俺なんかいらない」

牧場の中に谷川の流れもあって、丸太の橋があり、2エーカーごとに区切られている。

空間には樺の木や石楠花の繁みがあり、馬も牛も木陰で憩い、谷川の水を飲む。

自然石の石垣には、苔むしてシダが生え、牧場を渡る夏の風に揺らいでいた。

石は牧場の石を使っている。それがいい。

かつては、私にいちいち教えられたトーマスが、何だか眩しく見えた。

今では、教えられるものはない。

彼の方が技術が上になってしまった。

丘の上から見下ろした牧場の景色は、飽きることなく、いつまでもそこに居続けた。

トーマスの白いシボレーの四駆は、快適に牧場を抜け、守衛のいる門のところで止まって守衛に手を振った。

トーマスから見た私はなんだろう。
出来の悪い兄貴だろうか。

私にとっては、数少ない生き残っているメキシカンの友達だ。

私の同僚の多くは、メキシカンを使って仕事をしている。

私も最初はそこから始まったのだが、それは数年で、今のトーマスは彼が築いた人生だった。

彼の成功に妬みは無い。

むしろ、自分の事のように嬉しい。

友達がどういう関係で続くのか予想できないが、私はいいメキシカンの友達に、若い頃出会った事になる。

子ども達も、トーマスの家で食べたトルティーヤが好きで、いまだに家で料理したり、食べに行っている。

子ども達の目からすると、トーマスは叔父さんという存在である。

それも頼りになる叔父さんだろう。

子供たちがトーマスを見る目でわかる。

それは子どもの頃から変わらない。

子供たちは、今でも交流がある。

私が死んだら、真っ先に駆けつけてくれる男かもしれない。

それを心の友と言うのだろうか。
                    完