いつものカフェ、いつもの席。オーダーはもう決まっている。豆の品種も、ミルクの量も、淹れ方も。何もかもが、体が覚えている。窓の外を、淡い冬の光が通り過ぎる。街を行く人々の顔に、年の瀬の慌ただしさと、どこか浮ついた期待のようなものが刻まれている。私はただ、白いカップの縁に触れ、その温もりだけを確かめる。

来年、といえば、社内ではもう新規プロジェクトの企画書が飛び交い、決算の数字が踊り、社長として、いくつかの「展望」と「戦略」を語らねばならない場が控えている。あの会議室の大きなテーブルでは、私は「孤独」などという言葉とは最も縁遠い存在でいなければならない。決断し、鼓舞し、先頭を切る存在でなければ。その顔は、鏡で見るたびに、少しずつ確かなものになっていく。シワも、白髪も、すべてが「らしさ」の一部として馴染んでいく。

でも、この時間だけは違う。

ただ、流れる時間を見つめる。2025年という一年が、静かに、しかし確実に、コーヒーの湯気のようにかすんで、消えていこうとしている。

振り返れば、達成した目標の数々が脳裏を過る。新規事業の立ち上げ、苦手だった取引先との契約、何百人もの従業員の生活がこの会社の営みに懸かっているという重み。歓声を上げた打ち上げの夜もあった。全てが、「成功」という言葉で括られる軌跡の上にある。

なのに、なぜか、心の奥底には、この温かいカップが埋めきれない空洞が、ぽっかりと空いている。

ふと、思い出す。もうずっと昔、誰かと「来年はどこに行こうか」と、くだらないことばかりを話し合った年末。あるいは、子供がまだ小さく、クリスマスの飾り付けに夢中で、私のスケジュール帳をクレヨンでぐちゃぐちゃにしたっけ。あの頃の慌ただしさは、今のそれとは、全く違う種類のものだった。あれは、生命の熱気に満ちた、騒がしい「寂しさのなさ」だった。

今、手にするのは、クレヨンでも、誰かの手の温もりでもなく、スマートフォンに次々と表示される、祝賀会の招待状と、取締役会の議題案ばかりだ。

「寂しい」のではない。この感覚は、もっと静かで、透明だ。まるで、とても美しく飾られた、広い部屋の真ん中に、たった一人で立っているような。全てが整い、完璧で、だからこそ、そこに在るべき何か──例えば、飾り立てない笑い声とか、少し曲がったツリーの飾りとか──の「不在」が、ひときわくっきりと浮かび上がってくるような。

時間よ、もう少しだけ、ゆっくりと流れてくれ。
せめて、このコーヒーが冷めきってしまうまで。
せめて、私が、この一年にきちんと「さようなら」と言える、その作法を思い出すまで。
あなた(2025年)が去った後にも、この席に、同じ温もりが残っていると、信じられるようになるまで。

本当に願っているのは、時間がゆっくりになることだけじゃない。
この広い部屋の、この整いすぎた静けさの中に、もう一度、誰かの気配を感じられる日が、いつか来るだろうか、ということ。

外では、風が少し強くなったようだ。カップの底に、最後の一口が残る。

さあ、飲み干そう。
そして、立ち上がろう。
2026年が、もう、ドアの向こうで待っている。