私たちは選択することができる。
付き合う人を選んだり、やりたくないことを拒否したり、議論の場で自己主張をする権利を有している。
しかし、その行使は日常の中においては最も難しいことのひとつだ。
取引先の相手は選びようがなく、やりたくもない仕事に頭を抱え、上司や同僚の意見に従わざるを得ない毎日。
他人の顔色ばかり伺って、「自分」を押し殺す毎日。
相手に合わせ、状況に合わせ、多少の理不尽は笑顔で飲み込む日常。
いつしか私たちが本来持つ「選ぶ権利」は、まるで「机上の空論」だと言わんばかりに心の奥へ引っ込める。
「怒る時に怒らなければ人間の甲斐がない」と書いたのは太宰治だが、
あまりにも怒りや憤りの感情を押さえつけていると、いざ理不尽や不愉快に直面したときに上手く怒りを表明できないものだ。
「怒り」を分からせようと醜く振舞うのではなく、「怒り」を表明し改善を要求する。
本来私たちは「どこであろうと」「誰に対しても」「どのような状況であっても」不満を表明し怒りを表してもよいはずだ。
あなたは「誰かが」突然怒り出さないかビクビクしているのに、あなたは「今、ここで怒ってしまったらすべてを失うのではないか」とビクビクしている。
私たちは選択することができる。
自分の意思を、感情を主張することは禁止されたことではない。
何をしてもいいし、何もしなくてもいい。
自らの責任において、私たちは自由であり、選ぶ権利を保有している。
自らの責任において、私たちは人を嫌い、物事に失敗し、後悔する権利を持っている。
あなたはあなたの主人であり、その心は誰かの奴隷であってはならないのだ。