13.50MM

僕のオチャラケた一面を知る人にとってはつまんないかもしれない。

文字ギッシリだし。。でもこっちの僕が本当の僕だと知る人もいるはず。

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閉鎖

仕事を辞めて、ブログタイトルも考えてることも全部いったんリセットしようと思ったので、

ここらで独り言ブログはもういいだろうと自分の中で結論づきました。

というわけでここはもう閉じます。

また新たに開放的且つ有意義なブログを作ろうと思ってます。

ではー

我輩は不具である

時にいおうようない絶望ともどかしさに襲われる。

僕の表現力は何と拙く、無力であることか。

僕の心は常に現実をひょいと離れて、

おそらく非現実として表現すべき事柄に満ちている。

非現実を現実に誇示する為の力は表現力だ。

足りない、足りない、足りない。

こんなにも表現したい欲望は圧倒的なのに、

それを表現する僕の力ときたらお粗末にも程がある。

創造したい。音楽家が曲を創るように、

画家が絵を描き出すように、

そして、作家が物語を生み出すように。

悪魔に魂を売れば、悪魔の表現力が手に入るなら、

悪魔にこの僕の魂を描き出してもらおう。

音楽を創るには、絵を描くには、物語を書くには、

何が足りないのか僕にはきっちり見えている事が残酷なまでに

僕を絶望させる。

才能のない芸術家が、自分の才能のなさから目を逸らしながらも

いつかは理解されると信じ、ひたむきに活動する、

そんな盲目さが僕にあればいいのにな。と思う。

いっそ盲目になればいいのか?

いや、そうなるには僕には守るものがありすぎる。

釣り合わない、表現したい事柄とその深さに対する表現力が。

これを不具と呼ばずしてなんと呼ぼうか。

犬2

僕は今日、人生で5本の指に入るほどの

いわゆる「屈辱」を味わいました。

地面に這いつくばって、憎い人間の靴を舐めるような、

そんな屈辱。

人気のない所に逃げ込んで、

涙が零れるのを必死でこらえ、悔しさと情けなさで、

自分の拳を、血が流れそうな程握り締めました。

僕は今歯がボッコリ腫れています。

今日ほど全力で歯を食いしばれないことを悔やんだ日はありませんでした。

死んだ方がマシだと思うくらい。

でも意地を突き通せずに、屈服して負けた時、自分が奴隷みたいになった気がして、

悔しくて、悲しくて、辛くて、苦しくて、情けなくて、そののちどうでもよくなりました。


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その件とは関係なしに、

その二時間後くらいに、

僕は清水の舞台から飛び降りるかどうかの選択を強いられました。

自分が卑怯者になるのか、それとも決死の覚悟で、玉砕するのか。。

卑怯者であれば、無事でいられる、でも玉砕すれば只では済まない。

僕は卑怯者で在りたくないが故に、玉砕を選びました。

犬みたいに這いつくばって毎日を過ごしてる僕から、

誠実さを取り上げたら何が残るというのでしょう?

忠実でない犬に何の価値があるというのでしょう?

僕は犬。自分に忠実な犬だ。

僕の日常には、このような大いなる恐怖に立ち向かわなければならない瞬間がままあります。

その恐怖から、その玉砕から、逃げないことが僕の今の唯一残された自尊心だ。

自分を好きでいたい。

どんなに這いつくばって、自分が惨めで、そんな自分を嫌いになりそうでも、

譲らない誇りをもっていたい。

今の僕に残された只ひとつの光。魂。

売るものか。屈服しても、涙垂れ流しても、譲るものか。。

何かを恨むわけでない。憎むわけでない。

只苦境を乗り越える強靭な精神、欲するのは、、

それのみ。。



ちょっと遅いけど

山口の高専生殺害の事件あったよね。。

あれって何か色々想像しちゃったなあ。

素直な感想をいうと勿体無いなって思った。

何でって凄まじい愛がベクトルを間違えて暴走した感じじゃない?

日本には「心中」という行為があるよね。これは日本独自の死生観だそうです。

「生きる」事を放棄してまでも、というか愛の成就を生の中で見ることができないが故に、

死という統一の中に男女が融合すること。

「心中」は合意の下でなければ「心中」ではないのか?

そうです。合意の下に行われない心中は「無理心中」ですね。

「無理心中」は「相対死」と呼ばれる「心中」とは大きく異なる。

「心中」は愛し方を知り、愛し難きのなかで取る冷静な情熱による結論。

「無理心中」は愛し方を知らず、愛され方も知らないなかで取る夢想に捉われた行動。

多分山口の場合は後者だよね。。

相手を殺すのは莫大なエネルギーと勇気がいるよ?

追い詰められてか罪悪感か悟りの果てかは分からんが自殺するのも同じくらい同じ物が必要だね。

もし。

もし!

彼の情熱の向かうベクトルが正しければ!!

どれだけ素晴らしい愛情を彼女に捧げられたろうね。

夫婦にしても恋人にしても、日本人には何だかよくわからん何で寄り添ってんのかもわからんような

ツガイがたくさんいるけれど、そんなツマンナイ愛情なんか遥かに凌ぐ素晴らしい一つの愛になれたかも知らんのにね。

勿体無いよ。

勿体無い。

ココロフルエタ

ここんとこ忙しくて全然書いてなかったなー独り言。

でも今日ちょっと思う事があったから。


仕事の終礼の時にみんなの前でちょっと話をしたんだ。

その日の反省なんかをコメントする場なんだけど、

ちょっと本音がポロッと出ちゃってさ、

その日でかいミスをやらかした後輩がいたんだけど、

隠してたんだね、そいつはそれをさ。 で、

普通なら「このような事が二度と起こらないよう、、、」

ってなるんだけど、思わず

「誰がやったかなんかどうでも良いんです。

素直に自分のミスを認める事が出来れば、人間としての成長があるから。

みんなは(そいつは)仕事がすっごい出来るようになるのと、

人間としてすっごい成長できるのどっちがいい?

必ずしも比例するわけじゃないと私は思いますよ。」

なーんて言ったもんだから「何をえらそうにテめーは」って怒られちゃった。


でもね、帰り際にその後輩がさ、(厳密にいうと同期なんだけど)

「あのさ」っていうわけ。

「何?」っていったら

「なんでもないわ」って。

「何よ気持ち悪いから言えよ」っていうと、

「終礼で言ってた言葉胸に響いた。頑張るわ」っていうのさ。


胸に響いたのは俺も同じだよって言いたかった。

誰かが真剣な眼差しで自分の発した言葉に共鳴してくれる瞬間が人生でどれだけあると思う?

そういう瞬間をもっともっと経験したいのさい。言うだけじゃなく言われたいしね。

自分の精神性を誰かに伝えようと思っても、言葉は他人の心のフィルターを

簡単には抜けてくれない。

だから言いたい事を、言いたい時に、言いたいだけ言うんだ。

偉そうにしてるんじゃないや。皆に仕事よりもっと大切な事を仕事を通して

伝えたいから言うんじゃないか。

何のための仕事って、豊かに生きるためじゃないの?って思うよ。

忙しさとか、ストレスとか、そういうものは人の暖かい心を少しずつ殺していくよ。

だから皆には見失わないで欲しいんだ。仕事より大切な事を仕事の中で見つけて欲しい。





昇進した

とうとう昇進した。

人を自由に使える立場。

時間帯によっては最高責任者になることもある。

正直面白い。

サッカーを最近見ていたせいもあるけど。

自分の采配が良い結果をもたらし、

スムーズに仕事が進んだ時の快感は得もいわれない。

その逆もまた然りで、采配次第で、取り返しのつかない事になる危険性も一杯。

でも仕事ってスリルがあるから楽しいんだよね。

自分の腕一本にかかってるという誇りと上からの評価があるからこそ、

人は向上心を持ち続けられるんだなあ、と実感した数日でした。

麻痺していく やがて

強くなるということはどんなことだろうと、

ずっと考えながら生きてきた。

どんな苦痛にも耐えられる強靭な精神の事?

どんな悲しみも乗り越えていける分別の事?

誰にも負けない強い拳の事?

色々あるんだろう。

僕は最近とても強くなった。

でもそれは僕が理想とするものとはちょっと違っていた。

横で誰かが酷い目にあっていても、それが当たり前だと、

何も思わなくなってしまった。

麻痺する事。

強くなるということに絶対必要な条件。

僕は麻痺してしまっている。

僕の感性は少なくとも、柔肌では無くなってきている。

遠い記憶

今日映画の「電車男」を初めて見た。

面白かったな。

恋をするという当たり前の事が人によっては人生そのものを変えたり、

人間そのものを再構築したりすることは実際にもたくさんあるのだろう。

そもそも恋をするということは極めて主観的かつ受動的な行為だ。

インターネットそのものが人間の持つ通信性能の低さのメタファーとなっているが、

それを超えて干渉することができるのは一歩踏み出した勇気を持てたものだけ、というところか。。

それにしても感想がひとつ、

恋の感覚って、どんなんだっけ?

家庭をもつとそういう類の感情は真っ先に切り捨てられていくね。

昔恋をした女性たちは、今どこで、何をしているのかなあ?

僕の中に彼女たちが刻まれているように、

彼女たちの中にも僕という存在が、広い石畳の中の一枚の汚れた石板のように、

ひっそりと、しかし確かに在り続けてくれればなあ、と思う今日この頃でした。



創る

引越しやらなんやらで、

かれこれ一ヶ月近くも更新していなかったので、久々に書きます。


結婚した。もちろん僕の話である。

まだずーっと先の話だと自分では(過去の自分は)思っていた。

法的、社会的な書類に記される「世帯主」という文字は、

僕に責任感と幸福感を与えてくれた。

単刀直入に言って、幸せだ。

ずっとこの幸せが続くなら、僕は人生において他に何を望むだろう。

前世も、来世も共に生き、生きるであろう運命共同体と、

これからは生きていくのだ。

月夜の晩ばかりではないだろうと思う。

ただ忘れないでいたいことは、

苦しみはその時にこそ最も辛く感じるだけで、

時が経てば形を変えて人を強くしてくれるだろう、ということ。

これからは、創る。

生き方を、幸せを、想いを、願いや夢さえも。

僕の手で、そして妻の手で、創るんだ。

そしていつの日か、その結晶を小さな手に渡してあげられるように。。


手紙

僕には姉がいる。

その姉から今日、とても悲しい手紙を渡された。

すごく、すごく短い手紙だった。

その内容はごく簡単に要約すると、

「今まであなたを愛せなくてごめんなさい。そしてこれからも。」。

僕は、ショックというよりかは、やるせなさを感じた。

今まで25年間という年月があったにも関わらず、

僕らはお互いにどれだけの事を分かり合えたのだろう?

お互いの何を差し出しあえたのだろう?

何もない。

何も知らない。

何も。

愛せなくて当然だろう?

何も触れず、何も傷つけず、何も共有出来なかった。

僕らは半分しか血を分け合っていない。

だけど。

だけど!

半分も血を分けているんだ。

25年の歳月は、半分血を分け合った者同士が強い絆を育むには

十分過ぎる時間だったはずなんだ。

そう考えたら、、、、、

たまらなく悲しくなった。。

僕にはもう世界がある。

愛すべき友がいて、

働くべき会社があり、

自分よりも愛する女性がいる。

だから深い傷をこれ以上増やすことはない。

だけどもし、

もし手紙の結びが「ごめんなさい」ではなくて、

「失われた時間を取り戻したい」とあったなら、

もっと。

もっと違う未来が僕と彼女に待っていたのかもしれないな。


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