時代が変われば使うツールも変わる。ロードバイクの世界で言えば90年代初頭まで主流だったクロモリフレームからカーボンフレームへの移行があった。形状も自由になりよりエアロ形状が強く出せるカーボンは軽く荷重方向には強く選手の走り方そのものも変えた。


クロモリ時代はシートチューブは73度台が主流だったがどんどん立ち75-76度まで行った。選手のポジションも変わりより自転車の前に乗るようになった。前に乗れば当然ステムは長くなり低い前傾姿勢を取るために低くなる。それはプロの話。


実はポジションの出し方には2つの方法があると感じる。ギターチューニングで言えばオクターブ下で一度合うような場所があるのと同じだ。


一つは本当のエリートアマのポジション。サドルを高くしてやや前乗り、ハンドルは低いが距離はそれほど遠くない。これで背中は地面とほぼ平行付近。よほどの練習をしないとこの乗り方は厳しい。キングオブホビーレーサーと呼ばれる高岡亮廣さんなどがこの乗り方と思う。ちょっと普通の人には無理。


もう一つのポジションはサドルはシートポストセンターより後ろ気味のセットでハンドルの高低差をつけず遠くにセットする。いわゆるヤマメ乗りに近いものだがこれでもポジションは出る。私は身長177-8cmで570mmのクロモリフレームにステムは135mmを付けている。このポジションを発見したのは全くの偶然だった。


570mmは少し大きいと感じた時がありオーダーで550mmのフレームに乗ったことがあった。その時にハンドルバーが近すぎてステムを長くした。しかしフレーム自体の特性が合わずすぐに570mmに戻したのだ。その際にドリルで穴を開けて加工したハンドルバーを買い換えるのが面倒で長いステムのまま装着した。すると何故かとても乗りやすくなり以来そのポジションに固定している。それを最近知ったヤマメ乗りに当てはめるとピッタリ来る。


高くて遠いポジションか低くて近いポジションかは体型や柔軟性にもよるので自分にあった方にすれば良い。根気を持って何度かポジションを変えて数十キロ程度は実走して決めた方がベター。両方肯定も否定もしない。合う合わないは個々人で違うのだから。「これで間違いない!」と言うのは稚拙な考え。


tom's cyclingさんの動画で高岡さんがフォッティングする動画があるので見てみると良いです。ビフォーアフターで比べると近くて低いから遠くて高いに変更していた。


そして最後にサドル位置。足を伸び切ったときにかかとを付けてペダルを最下点に置くと言うやつ。ある程度距離の乗れる中級者以上の人はかかとがつくのは低すぎる。今年始まった新しいプロリーグJCLでボジションの話が解説者から出ていた。MC「ペダルの最下点でかかとが付くのが良いポジションと言われていますが」解説者「それは低すぎますね。今そのポジションで走っている選手はいないと思いますよ。」というコメントがあった。ちなみに個人的に言えば私自身も踵はぎりぎり付くくらいのセッティングをしている。


もう一つは前後位置。ペダルが3時の位置で膝の先から糸を垂らしてペダルのシャフト軸中心に来る位置。私も実際そんなものだと思っていた。ところが先日自分のロードバイクにまたがって糸を垂らしたら重大な過ちに気付いた。

糸の先に付けた5円玉はシャフトどころかペダルの先に垂れた。つまり私の大腿骨は自分が思うより長かったのだ。気付かず35年も乗ってきた。ちなみにカンチェラーラの画像を見てほしいが膝は明らかにペダル軸より前に出ているように見える。サガンの絶頂期もビデオで確認したが高速巡航している時は膝がかなり前に出ている。【終わり】そのうちYou Tubeのビデオでも作ります。






 この10日程はロードバイクに乗っていないものの8月の日曜午後にトラウマになっていたヒルクライムに挑戦。といっても峠道手前の山麓道路を走っだけ。平地ではある程度の速度を出せるものの、勾配に入ると極端なペダルの重さになり全く登れずにいた。


 これはロードバイクの重心に乗れていない証拠だと思うので練習のために山麓道路を走った。山麓道路もかなりの上り勾配である。7-8%ほどの勾配がダラダラ続く。私のバイクは30年前のギヤ比でいまどき聞かない男気仕様。それでも漕ぐしかない。慣れるしかないのでインナーに落としてゆっくり進んだ。なんだ、登れるじゃないかと驚きつつ漕いでゆくとやはり昔のようにはグイグイ行けるわけもなくすぐに呼吸が苦しくなる。心肺機能の低下は著しい。何しろ歩くことすらままならないのだ。


北海道神宮にて

頂上付近のバス停で
目的地のカフェ駐車場にて。

私の地元は横浜の西部地区で県の運転試験場のある街。横浜の中では高台で急坂や激坂の多い土地。そこを6歳くらいからミニサイクルで登って力をつけた。私のロードバイクはチームミヤタという1980年代にかなり流行った宮田のロードバイクだがリヤスプロケットは12-21Tの7段でとても今どき激坂を登れるギヤ比ではない。


近所には20%を超えるような激坂があったがこのギヤ比で全て登れていた。不思議だ。それが当たり前と思っていたからだが身体障害者となった今では考えられない。しかしいまオーバーホールしていて先日は2kmほど連続する坂を登った。まぁ、昔に戻るにはまだまだかかるがパラリンピックを見て勇気をもらっている。突然事故で片腕をなくした選手や骨肉腫を患い片足になってしまった選手などがロードバイクに乗っていたりするのは本当に頭が下がる。


私は昔瞬発力には自信があったが持久系のスポーツは全くだめだった。しかしアルバイトの引っ越しをしたときに私が軽々持つ荷物を持てない学生や社員を見た時に「ああ、全力を出す必要はないんだ。力をセーブしよう』と全力を出さなくなり耐久力がついた。それを自転車に活かしたのが最初の一歩だった。


横浜から川崎の高津区溝の口までロードバイクで通勤した。神奈川県民ならわかるが横浜川崎間はかなり丘が多くアップダウンがきつい。この25km余りを約50分で走った。車で通っても渋滞があるとはいえ一時間以上かかる道のり。途中の10%以上ある坂道をグイグイ登っての時間だったので自身をつけた。この50分はとても速くて週に3回ほど走り続けてもタイムは縮まらなかった。


そのうちロードバイクに乗る方が原付スクーターに乗るより楽になった。スクーターは椅子のようにどっかり座るがロードバイクは前傾を取るのでハンドル、サドル、ペダルに体重が分散されるので楽だと気づいた。ツール・ド・フランスの選手など楽に乗れなければ4000kmも走れない。更に選手はなぜそんなにパワーが出せるのか徐々に研究し始めていた。


 まず体重をペダルに乗せる走り方。今も半身麻痺の私は普通にペダルを漕げる力はない。しかし体重を乗せるペダリングとほんの少しのタイミングでアウター52Tのリヤ15Tを高速回転させて平地を55kmで走ることができた。


体重を乗せるとは色々なYouTuberや選手などが語っているが本当のことは誰も言っていない。これは彼らの商売の、所謂、企業秘密になるので仕方ない。ゴルフのスイングも歌の声の出し方も本当のノウハウは皆、ぼかして話している。ただ体重を乗せるというのは簡単そうで誰もできない。


どの選手を見ても体重を乗せるよりも前傾姿勢をとってペダルを力いっぱい回しているように見える。では体重を乗せるとはどうすべきなのか?そこには前述したタイミングとコツが必要である。それを発見し体得したものだけが驚くような高速走行ができるようになる。


 先週私は障害者になって初めて山道を走った。それは非常に辛くUberイーツの配達員に抜かれるほどだった。仕方ないところはあるUberの配達員は軽量アルミフレームの今時の軽いギヤ比で私は30年前の激重ギヤ比なのでもうさいしょからはんでがある。しかしそれで諦めることは負けなので効率の良いペダリングを探究するためにも力の出せない体でなおかつ、重量級の身体で上りに強くなってやると思う。


 本日は単なる宣言である。また乗ったら少しづつ記事にするのでどうぞよろしく。最後に私のロードバイクを紹介する。


世界の舞台で初めて走った日本のロードバイク、カプリゾーネコガミヤタにフレームを提供した今や伝説のバイクチームミヤタの輸出モデルである。高校生当時憧れて2年半バイトして買いました。当時は35万くらいでしたが大学生になりバイトの金額も上がり高級パーツを少しづつ交換し合計で50万位はかかっている。その分35年乗って元は取れている。






高校までは割と短距離だけの速いデブでしかなかった私であるが引っ越しのバイトをしたときにあることに気付く。私にとって大して重くもない荷物をヒーコラ言いながら持ち上げる他のメンバーを見た時に(嗚呼、別に思い切り力を出す必要はないんだ。必要最低限で持てば問題ない)と思いあらゆることを省エネでこなすことを思い付いた。すると今まで疲れ果てていた作業も軽々こなせるようになった。


高校時代はナンチャッテロードマンのクラウンロード(CR)というロードマンの半額のスポーツ車に乗り駅までバスで15分の距離を8-9分で走っていた。最もそれはバスの乗降客数が多く、信号も多かったからだがその近辺に住む地元民からは馬鹿っ速いチャリンコ野郎でした。


ある時地元の駅近くで後ろから来たピックアップトラックにはねられて10mほど飛んだことがあった。今考えれば完全に車側の前方不注意だがその時は体に異常がなかったので逃げられた。あの頃は車の車種すら分からなかったがあれは紺色のトヨタハイラックストラックである。パーマかけた態度のデカい見るからに暴走族上がりっぽい兄ちゃんだった。あれが高校2年の冬の初め。残念ながら愛車CRは廃車となった。乗る自転車がなくなってしまったので自室にいることが多くなった私に隣に住むMさんのおばさんが声をかけてきた。


「物置の整理してたら息子の古い自転車とか出てきたんだけどあんた自転車壊れちゃったんだって?良かったら乗るかい?」


はい!と言ったが何やら得体のしれないゴミをもらっても仕方ない。一応見てみることにしたらなんと!



当時高校生や大学生に流行したスポルティーフ、ミヤタの【ル・マンオダックス】がそこにあった。写真は拾い物だが私がもらったのはまさにこの色このサイズ、540mmのタイヤは28Cだったと思う。この頃同級生のチームミヤタに憧れていたから願ってもない話だった。貰ったあとに古くて使えないタイヤやバーテープ、そしてサドルを交換した。その店は今は沿線唯一の専門店として偉そうにロードバイクを販売しているがその頃はノーブランドの安物か、ママチャリだけ売っている田舎の自転車屋でしか無かった。
そして写真と同じく前後の泥除けとライトホルダーがあったが全て取り払い、気分だけはロードレーサーとして乗り始めたのであった。当然メーターなどもないので感覚をもとに走るだけだったが同級生のSのロードバイクと一緒に走ってもCRの頃のようには遅れを取らなくなった。それはそれで満足だった。

このバイクで東京は板橋区の祖母の家に行ったり埼玉の叔父の家に行ったりしてなんとなく少しはロングライドもこなせるようになった。江の島などは日常茶飯事となる。

ギヤ比はどのくらいだったのか定かでないが一般のロードよりは軽いギアを搭載していたように思う。当時の価格はたしか69800円。、裕福な隣家の兄さんが自慢気に乗ってるところを見たことがあった。タイヤが細いのだけが記憶にあるがいざ自分が乗るときには太く見えていた。

自宅のベッドルームに佇む私のロードバイク。ここにおいてあるのは意味がある。私は部屋の中で時間を見つけてはこのバイクに跨がりバランスを取る練習をしている。左半身の麻痺なので左によろけた時に倒れても大丈夫なようにベッドを配している。

だんだんバランスのとり方や跨がる時の力加減も思い出してきた。これならばと思い午前四時起きで早朝の街を走る計画を立てた。結果、乗れた!コケずにスイスイと走り北海道神宮まで往復した。距離にして1500mの大冒険。乗る中で昔と違う点、右手を離して変速できない。左手で自転車を抑えられない。これはショック。だが慣れれば問題ないだろう。私は補助輪を外した5歳の時のワクワクをもう一度味わっているのだ。

あとは坂がキツイ。登れない。これも慣れだろう。退院して車に乗ったときに左手一本でハンドルが支えられず車が小さく蛇行することがあったが今は普通に乗れる。これと同じだ。

目標はロードレースに出ること。さて年代別の入賞くらいできるようになるだろうか?まずは有酸素運動を増やして痩せること。ジャージにスポンサーのマークを貼ってYou Tubeもするのでスポンサー募集中。障害者の頂点を目指す。しかしパラリンピックの選手を見たら片足のない選手が片脚だけでトラック競技に出ていて驚いた。上には上がいる。私もそう思わせないと行けないなと思う7年目の夏。