私たちの望むものは
「自分はいわゆる右寄りの人間だが、とにかく素晴らしい社会を作りたいと考えている。目指すところはあなたと同じなんだよ」・・・飲み屋のカウンターでの会話だ。たしかに、どんな考えを持っていようと、「素晴らしい社会」というゴールを否定する人はいない。でも、どこか違和感がある。話をしていても、色んな部分でぶつかる感じが拭えない。
なんでだろうと考え、はたと思い当たる。「国民は、すべて個人として尊重される」― 憲法13条前段だ。「個人」は「社会」に優先する。
小学生の時に出会い、人生に多大の影響を受けたフォークの神様・岡林信康の「私たちの望むものは」という曲に、こんな一説がある。
私たちの望むものは 社会のための私ではなく
私たちの望むものは 私たちのための社会なのだ
「素晴らしい社会」が先にあると、人はそのために貢献する存在であることを求められる。逆にいえば、足を引っ張る人は排除される恐れさえ生じる。そうではなく、ひとり一人がより幸せに生きる社会、それが結果的に「素晴らしい社会」へと近づいていく。そこには、一見「足を引っ張る」ように見える人もいるだろうが、その人たちだって、大貢献する人と同じように尊重されなければならない。それが憲法の考え方であり、わたしがロックを感じるところだ。
自民党の憲法改正草案では、この「個人」が「人」に変えられ、「すべて国民は、人として尊重される」となっている。この一文に何か意味があるんだろうか。
語られることのないグランドデザイン
物価や経済対策を求める国民の声は切実なものであり、選挙では毎回、これらが最大の争点になることもやむを得ない。しかし、同時に20年後、30年後の社会の姿、グランドデザインを議論することも同じく重要だ。そこから逆算して、今のあるべき政策を検討する。例えば、気候変動について考えることは、まさにこのような思考と軌を一にする。そこにはイデオロギーや一部のグループが独占する権益が入り込む余地はない。日本の社会にふさわしいシステム、国土のあり方、国際社会での立ち位置・・・そういったことすべてが関わってくるのだ。
しかし、国民がこのような課題に関心を示さない限り、候補者はそこに言及する必要はない。票になることだけを言えばいいのであって、余計なことに触れて票を減らすリスクを冒す必要はない。とにかく、目先の生活に関わることだけを、耳障りよく訴え、当選すればそんなことはあっさり忘れてしまえばいい。そんな繰り返しが数十年も続いているように思われる。
抗う時間は短い
今回の選挙を仕掛けた高市早苗首相は、「私が総理でいいかを問う」といいつつ、一時は否定していた消費税減税等を掲げる。しかし、一方で国論を二分するような、国の根幹にかかわる重大政策の転換に批判を恐れることなく果敢に挑戦していくために行う選挙ということも語っている。その政策は明言しないが、これまでの言動から防衛力の抜本的強化、憲法改正、武器輸出についての制約の撤廃、スパイ防止法の制定といったものであることは確実だ。日本が80年間かけて築き上げてきた平和主義や個人の尊重といった憲法の理念をそのままバッサリと捨て去ろうとしているのである。まさに、日本という国の在り方そのものが隠れた争点になっているのだ。国民は、このことをどのぐらい理解しているだろうか。
この選挙で、国民が高市総理でOKといったとみなされるような結果になれば、白紙委任を受けたと宣言して、暴走することは間違いない。しかも、これまでブレーキ役だった公明党が去り、アクセル役を自認する維新の会がパートナーになったことで、ますます突っ走るだろう。
残された短い時間のなか、どこまで抗うことができるか。それが今回の選挙だ。






















