自民党が歴史的大勝を果たした今回の衆院選。
高市氏については、選挙直前から選挙期間中に至るまで、裏金、統一教会、過去の発言との矛盾、党首討論のドタキャン、経済政策に対するみずほ銀行などによる懸念表明等、失点要素が山のようにあったにもかかわらず、このような結果となったことを振り返って、個人的には色んなことを学んだように思う。
急進的なタカ派であり、とても思慮深いとはいえない高市氏への強い警戒心から、多くの人たちがSNS等を通じて、強烈な高市批判を展開した。野党関係者や市民活動家にとどまらず、学者、ミュージシャン、文筆家など、かつてない広範な人々によるものであり、ぼく自身もかなりの焦燥感をもってそれに加わった。しかし、そのような地道な活動も、数億円ともいわれる自民党のSNS対策費の前には、なんら影響力も持ちえなかった。いや、むしろリベラルと言われる側からのそのような投稿は、一般の人々から見れば高市氏に対する汚い誹謗中傷としか感じられず、逆効果だったようにも思える。
その一つが、「高市や自民党は戦争をしたがっている」という類の言説だ。第二次安倍政権以降、集団的自衛権行使の容認、安保法制から始まり、防衛費の急激な増額、敵基地攻撃能力、非核三原則見直しの示唆、武器輸出規制の緩和、核兵器保持の可能性、そしてスパイ防止法、憲法9条の改正や緊急事態条項の創設、さらには南西諸島の軍事基地化といった話題を次々に見せつけられてきて、まさに戦争への準備が着々と進められているというように感じることはごく自然なことだろう。
しかし、それでも、だ。リベラルは平和を求め、保守は戦争をしたがっているというような論点の設定は間違っていたと感じる。
あくまでも、平和な国でいたいということは共通の願いであり、そのためにどういう政策を選択するのかという問題設定でなければ議論にならなし、実際にそれが正しい命題の立て方だろう。
つまり、保守は、無法国家が跋扈する国際情勢の中で、日米同盟強化、軍事力増強、国家への忠誠心確保、場合によっては核兵器の保持までを実現し、いざとなれば血を流す覚悟を持つことで抑止力を持つことができ、戦争を回避できると考える。これに対して、リベラルは、先の大戦への反省と唯一の戦争被爆国というアイデンティティーを重視し、これまで通り平和国家の旗を掲げ続けることこそが国民を守ると考える。
さあ、平和な国であり続けるための政策として、どちらを選択しますか?ということでなければならないはずだ。
もちろん、そんなにシンプルな話ではないだろうが、少なくともこういった議論のアプローチを模索していくことが、かつてなく右傾化した日本社会において、リベラルが生き残るためにも、そして、真に有意義な議論をするために不可欠なんじゃないだろうか。
ちょっとボロ負けしすぎて弱気になってるところもあるかもしれないけど、これを機に、こんなスタイルで思考を深めていきたいと考えるこの頃。











