「関ケ原の合戦」ですが、

 

現在の垂井町での攻防が東軍との西軍の命運が別れたのか?

 

「関ケ原の合戦と垂井町での攻防」

 

【関ケ原の合戦 主な武将の陣】

 

背後の敵を封殺して、徳川本隊は前線に進軍。

 

松尾山に布陣している小早川秀秋を威嚇射撃して、

 

寝返りを促し、麓に小川・朽木・赤座・脇坂も呼応。

 

大谷吉継・平塚為広・戸田勝成軍に南から襲い掛かる。

 

正面から藤堂高虎・京極高知軍、

 

援軍に駆け付けた山内一豊・有馬豊氏軍、

 

結局大善戦したが、三方向から攻め立てられ全滅。

 

宇喜多秀家軍・小西行長軍も動揺して撤退。

 

その後石田三成軍に総攻撃開始、

 

重臣島左近らの反撃で一時は押し返すも多勢に無勢にて討ち死。

 

黒田・竹中軍や細川軍ら多方面からの攻撃でついに本陣陥落。

 

島津義弘の敵中突破で幕を閉じる…。

 

(総括)

1 : 垂井側の毛利本隊を足止めさせたこと

2 : 松尾山の小早川秀秋を寝返らせたこと

3 : 情報戦にて東軍方が相当優位に立っていたこと

4 ; 大坂城より秀頼が参陣しなかったこと

5 : 毛利輝元が大坂城に留まっていたこと

 

こんなことろでしょうか?

 

(続く…)