渡守神社 | 鞆の浦二千年の歴史を紐解く“鞆の浦研究室”/Discovery! 鞆の浦

渡守神社

渡守社
渡守社 posted by (C)鳶眼

【渡守(わたす)神社】
沼名前神社境内に摂社として鎮座

近世には、沼名前神=渡守大明神は隠岐の知夫利大明神を勧請した猿田彦命、船玉命(船の神霊)と考えられていた。幕末に『福山史料』を著した菅茶山はこれを批判した。

「渡(わたす)明神」とは渡海安全を祈っての名であり、猿田彦命はあくまでも道路の神であって海の神ではない。他国に和多理(わたり)神社、度津(わたつ)神社あってみな海神を祀っており、渡明神もワタツミの神を祀ったものである」
とした。そして、その説が踏襲される。

その創祀伝承には諸説あるが、大筋では共通、現在は以下のように伝わっている。


<創祀伝承>
神功皇后が三韓征伐の時にこの地へ立ち寄られたとき、海中より方二尺余の霊石が浮かび上がった。
皇后は不思議なことだと石を船にお上げになり、この地の名を訊ねさせた。
問われた浦人たちは、
「ここは吉備国の南海辺と申します」と奏上した。
皇后はまた、この地に神はおわすかどうかを訊ねさせると、浦人は、
「神はおわしになりません」と奏上した。
そこで皇后は斎庭を設け、神籬を立ててその霊石をご神体としてお祭りし、自ら浦人に、
「今より後、神社を建ててこの神を斎(いつ)き奉れ」と詔され、霊石をお渡しになった。

他の伝承では、
このときに皇后が武具の鞆などを浦人に授けた、あるいは御船の艫を港に着けていた、そのことから皇后がこの地を「トモ」と名づけた、という地名起源伝承となっている。
また、
素戔嗚尊が南海に渡る時にここへ鞆を落としたから、ともいう。
地名については、古い地誌に「山の連なる地形と弓形の海岸線が射具の鞆を連想させることから名づけられた」としているものもある。

伝説では素戔嗚尊は戸手(素盞嗚神社)で一泊した後、ここでも一泊したとされ、その時に宿を貸したという「しふかき」という者の子孫という「渋柿屋(志ぶがき屋)」の者が、神官の一人として祇園祭において重要な役割を果たしていたことが江戸時代の地誌に見える。


◎過去ログ:「鞆」という地名について
http://ameblo.jp/tomonoura/entry-10765357524.html

___________


沼名前神社 渡守神社
沼名前神社 渡守神社 posted by (C)鳶眼


延喜式備後十七社の沼名前神社を當社に充つることは寛文十一(1671)年刊行の神社啓蒙等に始まり福山志科、特にこれを考定せり、大日本史神社志には沼隈郡三座、沼名前神社今在鞆、日渡守神、蓋祀和多須神、齲ら按神攻祈海路平安名日渡明神、即其為海神也審○とあり、當社もと渡札の辻といふ坂に鎮座せしを慶長四(1599)年八月二日の大火に類焼し後、福島正則之を後地麻谷に祇園社と並べて再興せり水野家時代となり承慶二(1653)年、水野勝俊夫人・静珠院願主となりて修造し、貞享二年(1685)水野勝貞(?)代、鞆奉行生原忠知闔郷の氏子と協力して草の谷(現在地)に遷し本殿拝殿新築せり 棟札に曰く、當社者古記曰、昔神功皇后三韓征伐之日、於此浦備舟・・・
◎沼隈郡誌(大正12年)

(?)→貞享二年(1685)の福山藩主は水野勝貞(三代藩主)ではなく四代藩主・水野勝種である。


神功皇后が三韓征討の折り鞆の浦に仮泊し和多須の地に舟玉神を祀り渡守大明神と号す、年を経て承応二年(1653)に水野家二代勝重夫人の祈願で社殿を修造する、それより後社殿が頽廃したので鞆奉行生原忠知をして再建させた、時に貞享二年(1685)であった
◎古西武彦著「福山の古建築(昭和43年)」

渡明神といへり、初は西町にありしか、慶長4年火災の後、後地村麻谷巽へ移し、貞享二年、水野家にて再築の時、さらに草谷(現在地)に移し・・・
◎得能正通著「備後史談/備後国延喜式内社巡拝記(十七)沼名前神社」、「広島県史・社寺志(大正12年)」

何年何人勧請すると伝記なし。昔は関町之内にありけるを、慶長年中にこの地に移し奉るとそ・・・その後明暦中に前大守勝貞公再建し給うる。時の奉行は中村市右衛門なり・・・
◎あくた川のまき

往古はわたす札の辻に鎮座也、その後、福島正則の時当浦町割ありし麻谷へ遷座。また、貞享年中、今の宮所に鎮座也・・・明暦年中、水野勝貞再興なり
◎鞆浦志

水野勝貞公、明暦年中の奉行中村市右衛門に命して再興し給う
◎備陽六郡志


祭神/大綿津見神・素戔嗚尊
祭神/船玉大神:沼名前神社社務所発行「沼名前神社由来記(明治45年)」
※沼名前神社主祭神の大綿津見神は海の神で、海上交通など海の守護神。

本殿建立/貞享2年(1685)再建
縁起/
建築様式/
◎構造形式:三間社流造
◎屋根:銅板葺、三方に高欄付きの廻縁(まわりえん)、奥に脇障子(わきしょうじ)を備え、身舎(もや)正面三間は蔀(しとみ)を吊り、両側面と背面は横板羽目(よこいたはめ)
◎柱:円柱(まるばしら)で、頭貫(かしらぬき)の端は木鼻(きばな)を飾る。
◎組物(くみもの):平三斗(ひらみつど)で、妻面は古式に虹梁(こうりょう)上に豕扠首(いのこさす)を組む。
◎庇(ひさし):角柱二本を立て、柱間三間を持ち放して虹梁を渡し、中央に本蟇股(ほんかえるまた)を備え、その両脇には蓑束(みのづか)を置く。庇の両端には緩い曲線の海老虹梁(えびこうりょう)を渡して身舎と繋ぐ。庇は吹放ち(ふきはなち)の外陣(げじん)となっている。
貞享二年の棟札が残っており、小型の本殿であるが、各部の意匠が優美で、江戸時代初期の風格を備えている。

<棟札内容>
“承応二年 先君夫人静珠院”
“貞享二年載乙丑五月殻旦 奉行生原勘弥左衛門忠知”


奉行:生原勘弥左衛門忠知
神主:野島神太夫重長
大匠:中島孫左衛門吉次
同 :信田市右衛門正次
<沼隈郡誌(大正12年)>


渡守社
渡守社 posted by (C)鳶眼

渡守神社の赤い鳥居
渡守社 posted by (C)鳶眼
沼名前神社 渡守神社 参道 鳥居
沼名前神社 渡守神社 参道 鳥居 posted by (C)鳶眼
沼名前神社 渡守神社 参道
沼名前神社 渡守神社 参道 posted by (C)鳶眼

上/渡守神社の赤い鳥居
下/周旋人・田村吉兵衛

沼名前神社 渡守神社 参道 周旋人 田村吉兵衛 玉垣
沼名前神社 渡守神社 参道 周旋人 田村吉兵衛 玉垣 posted by (C)鳶眼
沼名前神社 渡守神社 参道 玉垣 祖先
沼名前神社 渡守神社 参道 玉垣 祖先 posted by (C)鳶眼

沼名前神社 渡守神社 参道 狛犬 阿
沼名前神社 渡守神社 参道 狛犬 阿 posted by (C)鳶眼沼名前神社 渡守神社 参道 狛犬 吽
沼名前神社 渡守神社 参道 狛犬 吽 posted by (C)鳶眼


<渡守神社の創建由緒諸説>

◎備陽六郡志(18世紀後半)
 神功皇后が三韓退治のとき、この浦に船を着けて浦の名をとうたところ、浦人が「知らず」と答えた。そこで、船の艫を着けた処だから“艫の社”と云え、と勅した。皇后が三韓を征して帰還のとき、この浦を再訪し、海中出現の霊石とともに船の木・碇の石を給して祀らせた。

◎備後国志抜書(刊行時期不明)
 神功皇后が朝鮮出兵の途中、この浦に着かれたとき、海中から尺余の霊石が出現した。皇后が浦人に「此処に神が坐すか」と問われたら、浦人は「神は坐さず」と答えた。そこで皇后は此の霊石を渡して、『渡しの神』として祀るように勅した。これが『渡守の明神』である。

◎福山志料(1809)
 神功皇后が、三韓退治の時、御船をこの裏に寄せられ、異国退治を祈って『渡守の明神』として祀られた。

◎広島県史(1984)
 神功皇后が三韓征伐に出陣の時、海中出現の霊石を祀って渡守神社を創建し、凱旋のとき鞆の港に停泊し、腕に巻いた鞆を奉納して報斎された。


 上記の創建由緒は、これらの伝承をうけたもので、当社の旧社地という御旅所(後述)に掲げる由来にも、ほぼ同様の伝承が記されている。しかし、これらの伝承は、当社の古社名を“渡守明神”ということからみて、神仏習合が進んだ平安時代以降の創作で、創建年代を古くみせるために、神功皇后の鞆の浦寄港という架空の事蹟をもってきたのかもしれない。

 ただ別伝として、備陽六郡志には、“隠岐国千波(チフリ)に祀られている船人の守護神・チフリ神(布那斗之神:フナトノカミ=塞の神・道祖神)を勧請して、渡守明神として祀った”との伝承も記すが、チフリとは地名であって神名ではないとの反論もある。


<祭神・大綿津見(オオワタツミ)>
“大”は美称、“綿津見”とは海を司る神で、イザナギ・イザナミ双神の神生みで生まれたとも、イザナギが黄泉国から帰って禊祓をしたとき表・中・底3柱のワタツミが生まれたともいう。“海神”・“少童”とも書き、いずれもワタツミと読む。

<祭神についての諸説>
◎福山志料には
 「関境の産土神にして祭神は豊玉彦命(トヨタマヒコ)、すなわち海神也。或は道祖神(ドウソシン)、また隠岐島知夫利神(チフリ)を勧請すと云」

◎広島県史には
 「沼隈郡後地村の渡守大明神の祭神は船玉命(フナタマ)」

 トヨタマヒコとはオオワタツミの御子で海神(ワタツミノカミ)だが、オオワタツミと異名同神ともいえる。フナタマとは“船霊”のことで、古くから漁民の間で船の守護神・漁撈の神として信仰された神で、これも海神の一柱。

 海を司るワタツミ神とは、航行安全・航路案内・漁撈など海洋に係わる全般を司るカミを意味し、あの意味では、陸上におけるドウソシンとほぼ同じ神格をもつ。
 隠岐島のチフリの神とは別名・フナト神ともされ、境界にあって邪霊・悪霊の侵入を阻止する塞の神という。福山志料・弁説ではドウソシン・チフリの神ともに当社祭神とするには似つかわしくないと否定しているが、両神とも、海陸の境界を守護する塞の神(境界にあって邪霊・悪神等の侵入を遮る神)と解すれば、おかしくはないかもしれない。

 上記創建由緒にいうように、当社祭神は神功皇后にからんだ霊石とされているが、それは後世の仮託であって、元々は、漁民や航海者を守る海や船の守護神であり、且つ外からの邪霊侵入を阻止する塞の神的神格を併せもつ海神というのが本来の“神”で、それらを総称しての『海神・オオワタツミ』ではなかろうか?


渡守神社御旅所
渡守神社御旅所 posted by (C)鳶眼

◎過去ログ/渡守神社 御旅所
http://ameblo.jp/rediscovery/entry-10762850397.html

◎関連ログ/鞆の浦の秋祭り/「ちょうさい」の起源
http://ameblo.jp/tomonoura/entry-10623719450.html


【渡守神社御旅所】
渡守神社御旅所
渡守神社御旅所 posted by (C)鳶眼