嫌いな奴が不当に虐げられてたら、見過ごす? | コードチェンジのために

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好かれたいけど媚びたくないまだ考えているノート

好ましいと思っていた人が不当に虐げられていたら、例えば不当な誹謗中傷にさらされていたとしたら、助けてやりたくのが人情ってもんだろう。特に好きでも嫌いでもない人(例えばたまたまその場で見かけただけの人)が不当に虐げられていた場合も、じだと思う。たぶんこの辺は大した問題にならない。

 

では、嫌いな奴が不当に虐げられていたら?

「いい気味だぜ」だとか、「当然の報いだな」みたいな感じで看過するか?

あるいは好きな奴と同様に、助けてやろうとするか?そういう人が多勢になるのか?

 

人はけっこう好き嫌いで動く気がしている。動くどころが、動く手前の認識が、この好き嫌いの影響をすごく受けているような気がしている。例えば、嫌いな奴が不当に虐げられているのを見たとき、きっと私たちにはそもそもその「不当さ」が認識されにくいのではないか。嫌いな奴が被害者の場合、その不当さは簡単に隠されてしまうのではないか。

 

でも時々、自分の好き嫌いと事の良し悪しは切り分けて考えなければならないと思う。これは、数多くの嫌いな人/モノ/コトを抱えて生きてきた(と思う)私の、かねてからの問題意識であり、サバイバル戦略でもある。「自分の好き嫌いは物事の良し悪しとは一致していない」という強烈な自覚とさみしさってのは、あるいは不幸なことなのかもしれない。でも、というか、だからこそ、気に喰わない/嫌いな奴には、骨の髄までこのことを自覚して欲しいと思うし、私もたまに自分にそう言い聞かせている。

 

もしも好き嫌いと事の良し悪しが完全に一致する人がいたら?たぶんそれはフィクショナルな想定だと思うし、聖人君子とかそういうのだと思う。