仕事が大切じゃなくなると、仕事が遊びになって、かえってパフォーマンス上がるとか? | コードチェンジのために

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好かれたいけど媚びたくないまだ考えているノート

ソクラテスが死刑判決をくらった理由を考えていたら、色々あって何となく仕事と遊びの違いというテーマに行き着いた。

 

ソクラテスの死刑の理由、その一つをめちゃくちゃざっくり言えば、次のような価値観/言説に社会が危機感を抱いたからだと思っている。たぶん。あんま自信ないけど。

「本当に大切なのは真善美の追及(哲学)じゃん?ここをないがしろにして社会的な営為にばっか専心するとか、おかしくね?」

こういう価値観に社会の構成員(特に若者)が染まっていってしまうと、哲学に対して社会的な営為(例えば防衛)というものが二の次という位置付けになってしまい、結果として社会自体の機能不全や自壊を招きかねない。つまりソクラテスは、社会を蝕む危険思想のカリスマ的病根とみなされて死刑判決を受けた、という面もあると思う。

 

なんかかってえ書き出しになったけど、本当に大切なものがあって、そうじゃない方は二の次、という価値観の転換というこの構図を無理やり抜き取って考えてみたい。

私たちが仕事と遊びの違いについて考えるとき、おそらく最も素朴なアイデアが、金銭を切り口にするものだと思う。つまり、「仕事は金銭を獲得する活動。遊びは違う」という考えだ。例えば仕事をして金銭を獲得し、その金銭を散財して趣味を楽しむというとき、この考えがぴったり適用される。

しかしここに先ほどの価値観転換の構図を力づくで持ち込んでみたい。仕事は仕事でこなしつつ、遊び/趣味に生きている人を想定してみると、この人にとっても本当に大切なのは遊び/趣味の方ということになりかねない。そうなると、価値観において、遊びこそが本業なのではないか。本業である遊びに比べれば、この人にとって仕事は実は二の次であって、本当に大切なものでは全然ない。

 

このとき、妙な転換が生じていないだろうか?

遊びが一番大切で、仕事は実は二の次、という価値観。しかし普通、社会的な営為活動である仕事の方が大切で、個人的な遊びなどは二の次であると考えられる。遊びは大切じゃなくて、仕事が大切なのだ。いや、むしろこう言った方が良い気がする。大切なことが仕事で、そうじゃない方が遊びなのだ。

遊びが一番大切で、仕事は実は二の次と考えるとき、遊びと仕事が決定的に逆転しているような気がする。つまり、遊びが仕事になって、仕事は遊びなのだ。遊びで相応の成果を出せないと満足できないが、仕事でべつに成果が出なくても平気なのだ。私は何を言っているのかよく分からなくなってきたぞ。

 

もう少しがんばってみよう。

仕事は、遊びなのだ。仕事を大切とも思わない人にとって、仕事を二の次と考えて軽視する人にとって、仕事は遊びになるのだ。いくら上司や親方から「遊びじゃねえんだぞ!」と叱り飛ばされても、やっぱり仕事は大切じゃあない。本当に大切なことは別にある。こう思うとき、決定的に仕事は遊びになってしまっているのだ。

 

ちょっとくらいは具体的なエピソードも入れてみよう。私がかつて仕事の研修を受けに行った時の話である。

その研修では、数人でグループワークを実施した。私はこの研修を頭からすっかり軽視し、ナメくさって完全に遊びのつもりで参加していた。ところが、そんな遊び感覚で参加したにも関わらず、研修が進むと他のメンバーと比べて私が最も主体的で活動的な人間になってしまっていたのだ。私だけが遊び感覚で、グループのメンバーは微妙な仕事感覚だったのかもしれない。私は気軽に遊び感覚で参加していたのに、やがて消極的な一部のメンバーに対して次第にイライラしてきた。ついには「こっちは遊びで来てんのに、コイツのやる気のなさ何なの!?」というムカつきに苛まれ、「仕事じゃねえんだぞ!」と叱り飛ばしてやりたいような気持ちになった。

 

ちょっと逆説的な話になるけど、上記のように仕事が大切に思えなくなって遊び化すると、かえって「おもしろくしてやろう」という欲や主体性が発揮される気がする。「まあちょっと失敗してもいいや」と、やや楽観的でチャレンジングな姿勢になる。結果として、遊び感覚で働いていた方がモチベーションやパフォーマンスが向上してしまうということがありはしないだろうか。つまり下記のような推移がありえるのではないだろうか。

 

■仕事が大切に思えない → 遊び化 → 「なんかおもろくしたろ」(遊び感覚) → 主体性の発揮/楽観的なチャレンジ → 働きぶり向上

 

こうして働いていて本当に仕事がおもしろくなってしまうと、仕事が趣味みたいになってきて、仕事が大切になり、再び仕事が仕事化してしまうのかもしれない。仕事が遊びになったり、遊びが仕事になったり、また元に戻ったり、仕事と遊びは感覚的には流動的に転換していくもののような気もする。

 

だいぶ序盤でソクラテス関係なくなっちゃった。

でもひょっとしたらさ、哲学が大切で、社会的営為がそれほど大切でもないとしたら、哲学が仕事化、社会的営為が遊び化して、かえってポリス社会がよりよくなるって展開もあったんじゃない?でもやっぱ防衛系のタスクとかになると遊び感覚じゃまかりならんのかな。わからんわ。