コードチェンジのために

コードチェンジのために

好かれたいけど媚びたくないまだ考えているノート

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ふと気付いたのだけど、拙者という一人称はそれなりに二重性を持っていてややこしい。

「拙」の字を用いる限り、自らをへりくだって表現する一人称であるというのは間違いないのだが、時代劇等でよく見るお侍さん等、「士農工商」の最上位「士」の階級で用いられるイメージがあるため、妙に尊大な印象もある。

 

こういうのはサラリーマン社会でも時々ある。

明らかにそれなりの職位に就いている管理職等が自らを称して「小職は…」と名乗ることがあるが、これも「拙者」,「拙僧」といった一人称に通底する表現だと思う。根本的にこうした謙譲的な一人称を用いるということは、へりくだることが有効な程度には上の地位であるという自覚と、へりくだる余地/余裕を持っているという自認の表れでもある、というのが少しやり切れない点である。

 

 

時々批判の的になる「お客様は神様だ」という言い回し、実はちょっと言えてる気もしてそれなりに好きなフレーズですらある。というのは、そりゃ神様にも色々いるよね、という見地に私が立っているからである。

 

例えば我々のような一般人であっても、自分が所属する小規模組織の貧乏神や疫病神と呼ばれる存在であれば、なろうと思えばそれなりになれてしまう。神様と言っても、そんなもんである、という理解も成り立ちうる。

 

また他方、各地に疱瘡神の歓待という習俗もあったりする。疫病神の類に対してウェルカムパーティーを催し、患者は軽症で済ませてもらって早めにお帰りいただこうという狙いで執り行われる儀式、といったものだったはず。こうした抗いがたい強力な存在に対して物腰柔らかに応対し、「なあなあ」なところにまで持っていく感じ、むしろ強かさすら覚えるテクニックである。こういうのは京都の祇園祭にもちょっと通底していると思う。

 

来訪者が「お客様は神様だ」と強気に主張してくる場合、その者は疫病神,貧乏神のような大小の災厄をもたらすタイプである神様である可能性もあるので、歓待というカードで応対するのクラシックな一手ではあるはずなのだ。

動物の皮,毛皮を用いた製品はそれなりに流通していると思うが、骨を用いた製品は今はそうそう見ることがない。博物館では見るが…あるいは私が気付いていないだけで、それなりに骨で構成された製品も流通しているのかもしれない。

 

他方、植物性の製品はかなり見る。綿や麻の衣服は珍しくもなんともないし、木工製品や木造建築も

存在する。これらの製品に触れるにあたって時々思うのだが、これらの品々も一応生物の死体を活用したものなのである。巨木を見ると畏怖の感情(のようなもの)を抱くことがあるが、この感じを手元に持ったまま歴史的な木造建築物の中に入ってみたりすると、「おいおいこれ周り全部が生き物の死体かよすげーな」という愚にもつかない感想に囚われる。

 

近代以降の鉄筋コンクリート製の建築物等に親しんできただけに、時々そうした木造建築に踏み入ったり木工製品に触れたりすると、思いもよらない眩暈のような、途方もない感じを味わう羽目になる。

 

何年か前に読んだこの本を思い出す。

木に学べ 法隆寺・薬師寺の美(小学館文庫) | 西岡 常一 |本 | 通販 | Amazon

私はまったくお酒を飲まないのだけど、時々アルコール依存症というものについて考える。いつからだったか?カート・ヴォネガット・ジュニア『スローターハウス5』を読んだ頃からかもしれない。作中に二ーバーの祈りが2回くらい出てくるのだけど、この祈りがアルコホーリクス・アノニマスで活用されている。

 

この手の祈りが活用されたり、この手の自助グループが必要になるほど、アルコール依存症は解決しがたい問題なのか?まったくお酒を飲まない私がふんわり考える限り、この病の厄介さは次の3点だと思う。

 

1.アルコールの入手が容易

国/地域によるが、少なくとも日本では数百円あればコンビニで簡単にアルコールを入手できる。価格的にも流通的にも非常に入手しやすい。これが他の依存性の高い薬品/ドラッグと大きく異なるところだと思う。アルコールは他の依存性のある物質と比べると、その入手の容易さにおいて明らかに突出しているのではないか…?

 

2.摂取自体が完全に合法

これも国/地域にもよるが、多くのエリアでアルコールの摂取自体は合法だろう。たとえアルコール依存症の患者だとしても、アルコールの摂取自体を市井の人が抑止できるわけではない。「お酒を飲む」という行為自体を、そうそう他人は止められないのである。

 

3.「否認の病」

何かで読んだだけなのだが、アルコール依存症は「否認の病」とも呼ばれているようで、本人がアルコール依存症であることを認めたがらないという。本人が認めたがらない以上、治療は遅れやすいはずだし、禁酒等に向けた自制心も働きにくいだろう。

 

 

「画餅」は伝わらないが、「絵に描いた餅」と言えば伝わることがある。「枚挙」は伝わらないが、「羅列」と言えば伝わることがある(羅列のがムズくないか…?)。「反故」は伝わらないが、「なかったことにする」くらいに言えば伝わることがある。「抜本的に」は伝わらないが、「丸ごとゴッソリ」と言ったら伝わったことがある。

 

まだ入って間もないコミュニティでは、どの語彙が通じるのか、どの語彙が一般的なのかが判別できない。取り急ぎは手当たり次第に思い付いた語彙を使って、手応えの悪かったものを削っていく。同時に、そのコミュニティで共通言語化している語彙を使いこなせるよう修得していく。

こういうチューニングには多少の時間がかかるということはもちろんなのだけど、リモートワーク/在宅勤務の場合、こういうチューニングがなかなか進まないと思う。

 

仕事中に事務のお姉さんがダル絡みしてきた話。

 

お姉さん「もっと変わった採用試験しましょうよ~例えばこのティッシュ箱の中身を一番早く全部出せた人が合格!とか~」

私「あ~箱ぶっ壊してまとめて出したら合格って感じですね?」PCカタカタ

お姉さん「ハイ君は不合格」

 

そういう話ではなかったらしい。ティッシュを一枚ずつ取り出す動作を素早く正確に何回も繰り返すことができる能力を測定しようという主旨の試験だったのかもしれない。

 

 

 

 

そこそこぶっとんでる最高な将棋漫画『ハチワンダイバー』に、二こ神さんというキャラクターがいる。

二こ神さんは、ホームレスのおじいちゃんで、将棋がめっぽう強く、真剣師である主人公の師匠になる。そんな二こ神さんの得意戦法が雁木である。描写されている二こ神さんの対局は、確か全て雁木だったと思う。ニこ神さんと対局相手との間で、次のような会話が交わされるシーンがある(うろ覚えだが)。

 

対局相手「今どき雁木www ジジイ、こりゃ何年前の将棋だ?www」

二こ神さん「400年前だ」ギロリまんがmmあ実際、雁木という戦法は江戸時代前期から棋譜が残っているので非常に歴史が長い。よってこのシーンは、そんな古臭い戦法で強敵をねじ伏せようとするニこ神さんカッコいい!という読み方になる。

確かに本作連載当時、雁木はプロの棋戦でもなかなか登場しない結構なマイナー戦法だったので、雁木を目にした対局相手のリアクションも妥当と言えば妥当である。しかし実はこの後、2010年代の後半になってバランスを重視する現代将棋の観点から雁木という戦法はその有効性をかなり見直されており、今やプロの棋戦で雁木を目にすることもそんなに珍しくなくなった。

もちろん雁木の組み方は現代的な形に研究されているので、二こ神さんの雁木とは似て非なるものにはなるかもしれないが、上記の劇中会話のように、雁木自体に対する侮り/軽視のリアクションは現代ではまったく発生しえない。

むしろ、今なら次のような会話にせざるをえないのではないか?

 

対局相手「ジジイ、その歳で雁木を指しこなすとは、やけに現代的じゃねえかwww」

二こ神さん「時代がおれに追いついた」ギロリ

 

 

 

かつて少年ジャンプで連載していた『シャーマンキング』で、特に印象に残っているセリフがある。第一に「お前らは正しい、だが気に喰わん」、第二に「やったらやり返される」である(印象的とか言いつつどこでどう使われたセリフなのかは正確に覚えてないが…)。第一のものの方がインパクトは大きかったのだけど、ちょっと面倒な話になるので、今回はとりあえず第二の方だけメモしておく。

 

だいぶ前にテレビドラマの半沢直樹が流行り、私も友達に勧められて原作小説『オレたちバブル入行組』だけ読んだ。確か当時、「やられたらやり返す…倍返しだ!」的なセリフが流行語にもなった記憶があるが、ちょっとだけ上記のシャーマンキングのセリフ、「やったらやり返される」と似ていると思ったのを覚えている。

 

ただ両者を少し整理してみると、違いも何となく見えてくる。

シャーマンキングの「やったらやり返される」が自分を含めた加害者たりえる者全体に対して一律に適用される戒めや法則を示しているのに対し、半沢直樹の「やられたらやり返す」は被害者の立場から今後の個人的な行動方針を表明する意味合いになっている。

 

「やられたらやり返す」、流行した当時、散々聴いたセリフだが、この後に続いてどもう私の中では、「でもやったらやり返される」というセリフが続く。「やられたらやり返す。でもやったらやり返される」、この認識は一対でなければならないと思う。やった側の者がやり返されても、そんなに驚くに値しない。相手にやり返した場合にも、その相手からさらなるやり返しがきたところで、そんなに驚くに値しない。

それはまあ、やったらやり返されるのだから。

 

迫り来るBee Gees!という印象のMV。

 

 

このMVをイメージしながらしゃなりしゃなりと歩き、「Stayin' Alive」の部分を「しょうもない」に言い換えて歌ってみるとあら不思議、原曲と違って大変くさくさした歌になる。身も心も挙動もくさくさしたい時に最適な替え歌である。

 

ああ ああ ああ ああ しょうもない しょうもない

ああ ああ ああ ああ しょうもなーい 

 

 

一昨日のメモで「こうすれば勝てるのでは?」という方法を敢えて採用しないのは「舐めプ」っぽくなるのではないかという話を書いたのだけど、もう少し続きを書いておく。

 

「こうすれば勝てるのでは?」という有力な方法をまっすぐに採用することが、ベストを尽くすことだと私は思う。他方、例えば何らかのポイント/得点で優位に立っている選手やチームが、試合終了まで逃げや防御に徹することを潔しとしない価値観もある。これは私の何となくのイメージだが、高校生くらいまでの学生スポーツでは、試合終了まで逃げ/防御に徹することを良しとしない価値観が支配的ではないだろうか?

実を言うと私が学生自体に携わっていた競技も、こういう価値観があった。苦労の末にポイント/得点で優位に立ち、試合時間は残り1~2分という場面で、試合終了まで逃げや防御に徹するということが良しとされず、最後までリスクを冒して攻め続けることが推奨されていた。(そして私はそーゆーので負けたりしている)

 

あるいは結果的に攻めの姿勢を崩さない方が勝率が高いということもあるのかもしれないが、逆に逃げ/防御に徹してポイントアウトした方が勝率が高いということもあるだろう。後者の方法が採用されにくい価値観というのは、文化的なものなのかもしれないし、教育的観点から敢えてそういう価値観の設定にしているのかもしれない。

 

教育的観点から言えば(という設定もよく分からないが)、最後まで攻め続ける姿勢というのも大事なのかもしれない。そういう戦い方を貫くことで、たとえその戦い方のせいでその試合には負けたとしても、その後の人格形成やら何やらに好影響を及ぼす、というような理屈で。ただ、場面に応じた戦い方を切り替えるということ(時に逃げや防御に徹すること)、すなわちその場その場でベストを尽くすということも、それなりに教育的な価値がある気もする。何も攻め続けるばかりが大事というわけではない。

 

もしかしたら、その試合におけるベストを考える価値観と、その試合も含めた競技生活全体がその人の人格形成に与える影響(的なもの)におけるベストを考える価値観とで、話が食い違っているのかもしれない。