先日の大阪出張の際に散策した難波宮跡(なにわのみや あと)

 

 

 

 

今回はそれにフォーカスを当てた記事です。まあまあの力作です。日本古代史に興味がないとツラいです。ご興味のある方のみお読み下さいm(__)m

 

 

 

古代(飛鳥時代~平安時代)にわが国に設けられた都に何があるかと聞かれたら、多くの人は平城京とか平安京と答えることでしょう。歴史に造詣が深い方だと、藤原京とか長岡京というのをご存じかもしれません。ところが現在、分かっているだけで

 

 

 

 

 

ご覧のとおり10以上の都がありました。現在、大阪市のある摂津国難波の地には難波宮(なにわのみや)が設置され都として機能していた時代がありました。京都や奈良に都があることは想像できても大阪に古代の都があったなんて、あまり知られていないことだと思います。鋭い方は、同じ都でも「京」と表される場合と「宮」と表されるものがあることに気づかれるかもしれません。これは前者が一般の人が住んでいる地域を含めた都全体を指すのに対し後者である「宮」は大極殿やその周囲の役所を指す言葉で政庁のみ指しています。それでは難波宮の歴史を辿りましょう。

 

日本書紀には古墳時代、仁徳天皇が初めて難波に宮を設置したという伝承がありますが、ここでは史実として理解されている飛鳥時代のお話から触れます。

7世紀半ばの出来事といえば有名な大化の改新がありますが、まさにそれに絡んだお話です。当時の皇極天皇(繋ぎの女帝)は蘇我蝦夷に新たな宮殿を作るように命じ、その時に完成したのが飛鳥板葺宮(あすかいたぶきのみや、先の地図を参照)です。そしてその宮で645年に起こったことこそがクーデターたる乙巳の変(いっしのへん)でした。実力者の蘇我入鹿が殺され、皇極天皇より譲位されて即位したのが弟の孝徳天皇でした。皇太子には中大兄皇子が立てられ、内臣たる中臣鎌足らと共に新たな都、難波宮で行った政治改革が後に大化の改新と呼ばれるもの。あの有名な「大化の改新」は実は難波宮で行われたものだったのです。因みに遷都先としてこの地を選んだ理由は、孝徳天皇の父の地盤が難波の地であったためでないかという推察がありました。クーデターというヤバいことをやったので、自分の地元に都を遷したのだろうということは十分に理解できます。しかしながら654年に崩御されると翌655年には宮は飛鳥に戻ってしまいます。それでも建造物は維持されていたようで、683年の天武天皇時代、飛鳥と共に難波も都とする「複都制の詔」でサブの都として再度位置付けられました。しかしながら686年正月に火災があり全焼してしまいました。ここまでを「前期難波宮」と言います。当時、設けられていた八角殿の跡には

 

 

 
 

 

現在はこのような八角殿を彷彿とさせる建物が設置されています。嘗ては

 

 

 

こういうものがあったとのこと。

 

 

 

 

 

時代は半世紀ほど進みます。奈良時代の726年、聖武天皇が平城京の副都として難波京の造営を指示し744年に遷都の詔が発表されます。これが「後期難波宮」と言われるものです。ただ翌745年には難波宮から紫香楽宮へ遷都されています。上の年号を見て頂くと分かるように、聖武天皇は、平城京→恭仁宮→難波宮→紫香楽宮→平城京と目まぐるしい遷都をしています。ミスター遷都と言ってよいでしょう(笑) 天然痘の流行、火災、地震、藤原広嗣の乱(北部九州でのクーデター騒ぎ)など社会不安が多く、そのために都を変えたという説があります。784年に桓武天皇が長岡京に遷都する際に、難波宮の大極殿の建物が移築され、都(後期難波宮)としての機能は終了しました。因みに大極殿の跡は

 

 

 

土台が復元されています。更に上に登ると

 

 

 

柱の跡が模してありました。ここには

 

 

 

このように立派な大極殿があったと考えられています。

 

 

 

 

これは現地の案内図です。赤色が前期難波宮の遺跡で青色が後期難波宮の遺跡になります。八角殿が赤色で、大極殿が青色に区別されています。

 

 

そんな難波宮ですが、日本書紀に記載はあったもののその所在地はずっと不明の「幻の宮」でした。発見されたのは、太平洋戦争後の1953年のこと。以前より難波宮跡を調査していた考古学者の山根徳太郎氏が、戦後に陸軍用地から解放された大坂城外堀南で発掘調査を開始。しかし都心部での発掘は困難を極め、遺物を発見しても学会からは「山根の宮だ」と冷笑されていました。

ところが次第に遺構が発見されていきます。1957年に後期難波宮の回廊跡が、翌1958年には奈良時代より古い柱列跡が発見。焦土が伴っており、前期難波宮の焼失した歴史と一致。そして1961年にはついに、後期難波宮の大極殿跡を発見!

 

「われ、幻の大極殿を見たり」と言ったとか

 

他の誰よりも難波宮があったことを信じ見事に掘り当てた山根博士は、トロイの遺跡を発掘したシュリーマンになぞらえて、「日本のシュリーマン」と称えられています。

 

飛鳥時代から奈良時代のこの辺りの地図は

 

 

 
ご覧のように現在の地形とは大きく異なり、青丸印の難波宮周囲には湿地や砂州が見られ、その東には河内湖が確認できます。難波宮やその後に建造された大坂城は、半島状の上町台地先端に設けられていました。ちなみに台地北側の難波堀江(人工的に掘られた運河)の、現在は高麗橋がある辺りに古代の港、難波津があったと推定されています。
 

 

 

難波宮跡地場所ですが、航空写真では

 

 

 

大坂城外堀の南側に位置しています(赤矢印部)。この場所を江戸時代の古地図で見ると

 

 
 

「京橋口 御定番 与力」と記載されています。定番(じょうばん)というのは守衛担当者のこと。つまり江戸時代は江戸幕府が管理していた場所で、明治維新後は政府(陸軍)の管理の下におかれたわけで、ある意味遺跡のあるところは大規模な再開発を受けることがなく守られていたということになります。

 

さてこのように現在の大坂城の南に広大な宮殿跡があったということですが、実は摂津難波には更に興味深い遺構が発掘されています。この地のすぐ近く、大坂城から南西部にあたる

 

 

 

 

法円坂には大阪歴史博物館がありますが、その前が遺跡公園として整備されています。そこには

 

 

 

このような正倉院を思わせるような高床式建造物が再現されています。

 

 

 

かなり大きなもので法円坂遺跡の倉庫構造模型というものです。実は難波宮が設置される更に約200年も前、古墳時代の5世紀前半に16棟以上もの大型倉庫がここに建てられていたとのこと。古墳時代として最大の総床面積を持つ倉庫群です。近くには人工運河の開削(難波堀江)と港(難波津)の跡もあり、海外交易の玄関口として栄えていた往時が偲ばれます。

 

戦国時代の石山本願寺あたりから我が国歴史の表舞台に出てきたと思われていた大阪エリアは、実は古墳時代から国際的港湾都市として大規模な開発がなされ、更に飛鳥時代から奈良時代には2回も首都となって、日本国の歴史の中で大きな役割を果たしていたのです。

以上、大阪って昔からスゲ~じゃん♪と感銘を受けた難波宮跡のレポートでした。

 

 

 

 

それでは最後に〆の小麦の部屋に参りましょう(^^)

大阪で加えて港と聞くと、ついつい

「グダグダ言うてたら簀巻きにして大阪湾に沈めたるぞ」というフレーズが皆さんの頭に浮かぶと思います。(ボクだけ?)

そんなイメージというわけではありませんが

 

 

 

 

簀巻き姿の小麦ちゃんの写真が発掘されました! 

シャンプーとトリミングの直後の姿と推定されています(笑) 

ちゃんとブローすると

 

 

 

こんな感じでフワフワです(^^)

長い記事にお付き合い頂きありがとうございましたm(__)m