今年のロードバイク趣味の主題を「原点回帰」と申し上げています。山口の歴史に所縁のある場所へ自転車で出かけて取材するということです。

その第1弾は、宇部市小野地区に埋葬されている豊後岡城元城主のクリスチャン武士、志賀親次の話でした。

今回の第2弾は、大内輝弘(てるひろ)公を取り上げます。





これは山口県防府市富海(とのみ)近く茶臼山にある、大内輝弘の祠。豊後からやってきた彼はここで亡くなっています。何があってはるばる海を渡ってやってきてここで命を落とすことになったのか……
今回の記事はかなり長くなっちゃいました。スミマセンm(__)m
山口の歴史に興味ない方、大内氏って別に知りたくないよという方、読むとシンドイので「いいね」だけ下さい(笑)


このブログ記事でしばしば取り上げます大内氏というのは中世の山口県、長門周防の防長二州と北部九州を治めていた大大名です。その最後は大内義隆というガチホモの……、もとい美少年好きの殿さまが愛人陶晴賢(すえはるかた)に謀反を起こされ自刃し大内氏は終焉したことになっています。
日本史的には、それで正しいのですが、その陶氏を破った毛利氏に対し、2度ほど大内氏再興を掲げて「大内」を名乗るものが争乱を起こしています。

一つ目は、陶晴賢が担ぎ上げた大内義長こと、大友晴英。母親は確かに大内義興の娘ですが名前で分かるように豊後の大友氏の血統をひく人物です。彼は大内義隆の養子に一時的になりましたが、その後、義隆に実子が誕生したため養子は解消し豊後に帰国。
大内氏を滅ぼした陶氏が「大内」ブランドが欲しいため傀儡として招聘しただけであり、血統的には大内色がうす~いのです。
1555年、厳島の戦いで陶晴賢が毛利氏に追い込まれ自刃した後、求心力を失い、1557年に長門で自刃します。

二つ目の主役が今回のお話の主人公たる、大内輝弘公になります。ただこの方にも大友氏が絡んでいます。大内氏末期頃は山口県と大分県の戦国大名には深い関係があるのです。



大内輝弘は、大内氏最後の殿様、大内義隆の父義興の異母兄弟たる高弘の子供。ややこしい?
端的に言うとラストエンペラーたる大内義隆の従兄弟に当たります。大内当主の血を引く正真正銘の「血統書付き」大内氏なのです(^0^)
この点が、大友氏直系なのに大内を名乗った大内義長との違い。

ここ、試験に出ますよ(笑)


輝弘の父、高弘は大内直系の血を引く身でしたが、大内義興への謀反を見破られ謀反を主導していた豊後の大友氏に身を寄せます。その後に豊後で生まれたのが、嫡男の輝弘。
大友氏の影響なのか、輝弘はキリシタンだったと言われています。


防長二州を掌握した毛利元就は1569年、北部九州に入り豊前と筑前を押さえるべく大友氏と立花山城で戦になります。ここで毛利勢が優勢となったため大友宗麟の軍師、吉岡長増は策を講じます。

「も~り後方 かく乱作戦~♪」

庇護していた大内氏直系、プリンス大内輝弘を長州に送り込み毛利の九州攻めの手を緩めさせるプランです。輝弘も利用されていることは分かってはいたと思いますが、大友氏の一家臣から防長のキングになれるかもしれないというドリームに賭けたのでしょう。

1569年10月、九州攻めで手薄になった周防に大友水軍とともに豊後の兵千数百を引き連れ大内輝弘軍は向かいます。秋穂の浦と白松の海岸に上陸。



この矢印が上陸地点。

秋穂の浦は現在の秋穂湾、白松の海岸は阿知須から佐山辺りです。上陸した地域の寺院を焼き払い北上します。キリシタンだったため寺院を焼き討ちすることに抵抗がなかったのではと言われています。
侵攻した山口の町では、大内氏所縁の築山館を本陣として毛利家臣が立てこもる高嶺城を攻め立てます。あと一歩で陥落というところまで行きながら落とせず、結局九州攻めを諦め戻ってきた吉川元春や小早川隆景という毛利氏最高軍に恐れをなして、上陸した秋穂に戻ります。

ところが秋穂に係留していた船は毛利勢に全て焼き払われており豊後に戻れません(T T)






そのためこの地図の矢印の如く海岸線を辿り、現在ある高川学園にほど近い柴山峠で待っていた毛利軍に襲撃されます。で、先日自転車で訪れた旦や岡条あたり(丸印)が激戦地となりました。





岡条にはご覧のように供養のため念仏石が設けられています。





現地の説明板というか標識です。ここ二百人塚と別に六百人塚もあるそうですが見つけられませんでした……。

輝弘公はここから





ごらんのように東走というか逃走します。恐らくメインストリートの街道たる山陽道伝いに逃げたと想像されます。





これは防府市富海近くの茶臼山にある旧街道山陽道の説明地図です。橘坂側からこの地図中央にある大内輝弘の碑に向かいました。輝弘公も一旦は富海の海岸に出てから引き戻ったらしいのでまさに彼の逃走経路を辿るわけです♪





ここが茶臼山古戦場跡
大内輝弘はここで自刃し果てました。





現地の説明板です。結構細やかに記載されており参考になります。
で、この上の岡にあるのが始めにお見せした祠なのです。


また敗残兵の一部は秋穂湾の半島、岩屋まで逃げられるあてもなく歩き、一人また一人と兜を脱ぎ亡くなっていったとの伝承から、ここの山を兜山といいます。以前の記事をご参照ください。
http://ameblo.jp/redcrossbike/entry-11713217490.html



毛利軍は、豊後からやってきた土地勘のないはずの輝弘軍が上陸して順調に山口の町まで侵攻できたのは、手引きした者がいると判断。

阿知須の僧侶と村人5人が関わったと同定し





この池で処刑しました。ここの地名はその名も「首谷ヶ浴(くびたにがえき)」……
分かり易すぎる怖さですね(^ ^;)





現地の説明板です。
無理やり連れて行かれただけなのに処刑とは、やはり戦国時代は残酷時代です。



以上、大友氏に寄寓していた大内氏直系のためプリンス大内とも言えるキリシタン輝弘公は、大友氏に利用される形で周防に上陸、防長の王となる夢を叶えることなく山陽道沿いで亡くなったというなが~いお話でした。最後までお付き合いいただきありがとうございますm(__)m