先日、ロードバイクで訪れた、山口県宇部市小野地区上宇内にある史蹟






志賀親次(しが ちかよし、もしくは ちかつぐ)の墓です。豊後(大分県)の武士であり元々は長州と縁などないお方。


彼の名は、大分県民でなければ、歴史オタクとくにキリシタン大名好きとかでないと、まず知られていない名前じゃないかと思います。かくいう自分も今回調べるまで存知あげませんでした。


今回の記事は久々に力を入れた、歴史ミステリー(ただの推察?)です。日本史に興味のない方、写真も余りありませんし多分つまらないのでお読みにならなくて結構でございますm(__)m






ごらんの矢印の場所が今回訪れた親次の墓のあるところ。なぜ縁も所縁もないここに埋葬されることになったのでしょうか?


志賀親次埋葬の謎、キーワードは 「キリスト教と小野地区」


志賀親次は、ファミリー・ツリー的には、あの有名なキリシタン大名、豊後の大友宗麟の孫にあたります。彼は、豊後竹田にある岡城の城主でした。岡城は、滝廉太郎の「荒城の月」のモデル(の一つ)と言われています。
※実は荒城の候補は5か所あり、その一つが廉太郎が過ごしたことのある竹田市の岡城なんですが、作詞した土井晩翠は、昭和21年に福島県の鶴ヶ城がモデルと告白しているそうなのでそこが正しいようです。

親次は何が有名かというと、薩摩の島津氏と交戦し撃退したこと。自分の父親が島津に付くという厳しい戦況を見事に収めたのです。その見事な戦いっぷりから、敵将島津義弘から「天正の楠木」と評され、また豊臣秀吉の厚い信頼を勝ち取りました。

そしてもう一つ彼のプロフィールとして重要なのは、クリスチャンであること。
その名も

ドン・パウロ

むっちゃ強そうな洗礼名(笑) 大友宗麟の影響であることは間違いないでしょう。宗麟亡き後、豊後での事実上のキリシタン保護者となっていて、かのルイス・フロイスも彼を好意的に描いているようです。

さて、そんな志賀親次ですが、秀吉の朝鮮攻め「文禄の役」の際の不手際で、大友氏の改易と共に岡城を出て行く羽目になります。
ここからが、波乱万丈の人生。福島正則(後に改易)→小早川秀秋(関ヶ原の裏切り、若くして没)→細川忠興に仕えたらしいというところで、多くの文献上、消息不明となっていました。


ところが、宇部市小野の歴史を研究されている平山智明氏が文献を検証し、実は毛利輝元が保護して最後は長州の山中、現在の宇部市宇内に埋葬されていることを突き止められました。

ここで疑問が生まれます。毛利輝元といえば、関ヶ原の戦いで減封後の1602年、長州で宣教師追放やかなりのキリスト教信者弾圧をおこなった方。その人が、がちがちのクリスチャンである志賀氏を手下にしたこと。

なぜか? 

実は、親次は大坂夏の陣に豊臣方として参戦しているという驚きの事実を平山氏が報告してます。

時は1615年のこと。夏の陣での輝元の立ち位置は、じつはかなりズルいのです。豊臣側をサポートするため自分の重臣を偽名を使っておくり込み軍資金を提供する一方で、家康からの出陣命令を待つという2枚舌外交をやってました。

これは自分の推測ですが、輝元は天正の楠木とまで謳われた志賀親次の腕を見込み、この先豊臣徳川のどちらに転んでもいい状況を想定し豊臣サイドに送り込んだ腹心の一人だったのではと考えています。志賀氏はほぼ浪人ですから、徳川側にあまりマークされていなかったのではないでしょうか。

それにしても主君大友氏を改易し岡城を出て行けと命じた憎き豊臣側に親次がついたというのは、それが拒めないよほどの状況にあったからでしょう……
それは、輝元公からキリスト教を棄教しなくてもよいと言われていたとしたらあり得る選択です。

実は、キリスト教弾圧を行っている毛利輝元公ですが、親戚筋に棄教をさせていないケースがあるのです。

毛利輝元にとって、血縁関係上は叔父になる、しかし13歳年下の大名に、毛利秀包(もうり ひでかね)がいます。彼は秀吉に寵愛され九州攻めの後、筑後(福岡県の南部)に久留米城を築き居城としました。妻はクリスチャンである大友宗麟の娘桂姫をめとったため、秀包自身も洗礼を受け、シマオ・フィンデナオという洗礼名を得ています。

で、秀包亡き後、長州にいる桂姫いや、毛利マセンシアに対し輝元は棄教を命じましたが、彼女は頑として応じず、結局黙認しているのです。


この地図を見てください。





この矢印は、以前報告したことのある毛利輝元の2号…、もとい側室二の丸様が初代藩主毛利秀就公を1595年に密かに出産したと言われている場所。下記参照。
http://ameblo.jp/redcrossbike/entry-11711852163.html


地図で見ますと、志賀氏の墓と目と鼻の先です。つまりこの長門国厚東郡の小野村、現在の宇部市小野地区は、毛利輝元の秘密を隠匿する「隠し部屋」的な場所であったのではないかということです。

側室の子供を藩主にするため密かに出産させ、そして浪人でありキリシタンであることがばれて欲しくない腕のたつ武士を埋葬することができる、秘密が守られる里ということ……


※平山氏の冊子をまだ渉猟していませんので、今回の展開が彼の調査と全く違うものとなっているのか、この自分の推察が近いのかはわかりませんので、そこはご了承ください。






墓石のようなこの巨大な石碑は、裏側左に刻まれているように大正15年に設置されたようです。果たして、本来の墓にクリスチャンとしての十字架等の痕跡があったのかどうか……
今回訪れた際は気付きませんでした。こんな展開になると思ってませんでしたからその目で探してません(^_^;)





ここからのこの景色は、彼が生きていた時代とそれほどは変わっていない、そんなのどかな田園風景に感じます。


以上、豊後の武勇秀でたクリスチャン武士が、毛利輝元の傘下で密かに働きそして秘密を守る長州の山村に埋葬されている、そんなお話でしたm(__)m