※この記事は2022年11月30日と2023年3月5日にJUGEMブログに投稿した記事を再構成したものです。

 

 

私は酒が大嫌いで、酒で盛り上がる所や酒の出される所には行きたくないし、酒を勧める人や押し付ける人とも関わりたくない。私が言いたいのはこの一言である。「相手が嫌だと思っていることに干渉するな」

しかし、酒に人生を委ねてしまっている人にとってはそうしたくないらしい。特に私の親は「酒を飲めるようにしておかないと人様から嫌われる」と言って酒を嫌う私を詰るのだった。それで傷ついた人が世の中にどれだけいることか。アルハラのニュースを見ても親は「酒を勧めるだけでハラスメントになるとか信じられない」と言い放つ有様で、ここまでに至ると人間として信用できなくなる。

 

飲酒を嫌ったり、そもそも飲酒ができなかったりする人に、酒を勧めてはいけない。できることは相手の意思、相手の立場を理解し、認めることだけである。それができない人は、人と関わる資格がない。

もっと言うと、他者を尊重しない人は酒を飲む資格がないとも考えている。誰かと一緒に飲むか飲まないかという話ではなく、他者を尊重しない人は他者の迷惑も考えないし、好き嫌いも意思も全く理解しない。自分の価値観を相手に押し付け、それに合せなければ人として認めない。このような人は飲酒以前に人として最低限のマナーすら守っていないため、人間の飲み物である酒を口にする資格がないのだ。アルコールは人格が優れている人だけが飲むことを許されるべき。

 

私がとりわけ無駄だと感じる飲み会は、会社などで行われる忘年会である。

半ば強制で、中には本当に強制している企業もある。自分のことに時間を使いたい人にとって、忘年会に参加させられることは迷惑以外の何物でもない。酒を飲んで騒ぐよりも、家族、パートナー、気の合う友人と過ごす時間を作ったり、趣味や自己研鑽に時間を使う方がずっと有意義である。忘年会に限らず大人数が一堂に会する場面を敬遠する人に対して、参加を求めてはいけない。

特に酒を飲まない人を悪く扱う忘年会に参加を強制されるとなると、もう最悪だ。実質的に酒が主役の忘年会に参加させられ、そこで酒を勧められて不快に思った人も多いはず。

 

日本の異常な酒文化は飲み会だけでなく路上飲酒も同様で、路上飲酒はそれ自体が不健全である。明らかに迷惑行為に発展するからだ。

悪い伝統は早々に断ち切ることが求められる。酒に支配されている人であれば悪い伝統などと思わないだろうけど、誰かの迷惑になっている状態は明らかに不健全なのだから、忘年会も路上飲酒も悪い伝統なのだ。

 

 

忘年会なんてオワコン

未だに忘年会をやっている会社があるようで、これが無駄な集まりであることは、実際に忘年会に出てみて思ったことである。

新型コロナウイルスの感染拡大以降、忘年会は軒並み中止になった。しかし、コロナ禍が過ぎたら忘年会を復活させたという会社まで存在するという。

 

ところで、忘年会を疎ましく思う人にとって、忘年会の存在意義は理解できないもの。あれって本当に何のためにやっているのだろう。

前例主義の人たちからすれば「一緒に飲むことでコミュニケーションが生まれて人間関係が深くなる」ことを理由に忘年会を正当化する。しかし、仕事上のコミュニケーションすら支障をきたす相手と一緒に酒を飲んだところで、仕事が円滑になるわけではない。日頃から陰で悪口を言う人であれば、忘年会で酒を飲んだら公然と暴言を吐くだろう。そして喧嘩に発展する。こんな状態で人間関係を深くできるわけがない。

 

そして忘年会が馬鹿げているのは、会社によって強制参加や参加要請、或いは強制でないと言いながら参加してもらうように圧をかける連中がいることだ。そもそも会社には、就業時間外の行動について労働者に指図する権利がない。会社主催の忘年会は、就業時間外の行動であるはずだから、強制は勿論、勧誘も厳に慎むべきだ。同調圧力がある会社だったらブラック企業確定だ。

不参加を理由に差別的に扱ったり、叱責したりすることは言語道断であり、断じて許されない。もし忘年会の不参加を悪く言うような会社だったら、忘年会以前に会社自体がオワコンである。

 

好きで忘年会に参加する人であれば別にとがめるつもりはない。

問題なのは、参加したくないのに参加を求められる場合である。強制参加や強引な勧誘をしている時点で惰性が露わになっている。参加を強制しないと付き合ってもらえない忘年会なんて、一体何のためにあるのか。そんなことをするくらいなら忘年会なんて止めるべきだ。

勿論「オンライン忘年会」なるものもNG。飲食店であれオンライン会合であれ、参加したくない人を巻き込むのは言語道断。

 

忘年会など飲み会への参加を強制する人たちは明らかに人格に問題を抱えている。強制している時点で他者を尊重する姿勢は皆無だからハラスメントになり得る。各種ハラスメントは自己愛性パーソナリティ障害(NPD)を疑われる問題行動であり、飲み会に参加しないことを非難する人に出くわして困っている場合は精神科医などの専門家に相談することを勧める。

実際には法律問題として労働基準監督署か弁護士に相談する方が手っ取り早いけど、ハラスメントをする人たちは基本的に遵法意識が希薄なので、指導に従わないケースも珍しくない。とは言え法律は強制力があるし、酒を断るべきではないというマナーより、飲酒を強要してはいけないという原則の方がずっと上だ。

 

 

低俗な飲み会に金をかけるべからず

しかも忘年会などの飲み会は何よりコンテンツの質が低い。質の低いコンテンツも然る事ながら、世代を超えて楽しめるレクリエーションがない。また、年配社員が主導権を握るため、特に若年層から敬遠される一因となった。

忘年会は大抵、上司のつまらない挨拶に品のないレクリエーションが付き物。

二次会ともなればより質が低い。既に酔っている状態で始まるから、参加者の品格は崩れている。単なる無礼講の方が遙かにマシな状態だ。二次会がカラオケの場合、選曲によって年配社員と若手社員の世代間ギャップが浮き彫りになり、お互いの選曲に馴染めないこともしばしば。

 

忘年会などの飲み会は進むにつれて、酔った人たちだけで盛り上がるようになる。酒を飲まない人は蚊帳の外だ。飲む人と飲まない人が乖離し、お互いに楽しむことはできない。

そして飲み会の悪しき名物は”愚痴”である。そもそも愚痴は飲み会に限らずアウト。様々な本やYouTuberが「関わってはいけない人の特徴」として紹介するほどの悪行である。

愚痴を言う人に共通することは、本人の落ち度を認めず他者からのあらゆる指摘を受け付けない他責思考に支配されていることだ。他責思考の人の会話は他人の悪口や噂話が多いことが特徴だ。いずれも他人を非難したり論ったりする「他人の話」だ。なぜ他人の話をするのかというと、他人を下げることで自分を相対的に良く見せるためだ。優秀な人であれば、他人を下げなくとも自分の実力を証明できる。しかし他責思考の人はそれができない。つまり他責思考の人は無能であって、そもそも他者から評価されていない人たちである。

愚痴が名物になっている忘年会って、言ってしまえば無能な社員が集って慰め合っているだけなのだ。そういう人が酒を飲んで酔っ払ったら、感情に任せて次々に愚痴を言う。

忘年会に無理矢理参加させられ、愚痴を言う人に囲まれたら、もはや最悪である。肯定すると相手の他責思考を助長させるし、一緒に愚痴を交わしてしまうと自分まで他責思考になってしまう。愚痴が飛び交う忘年会は百害あって一利なしだ。

 

忘年会で愚痴を言う無能社員であれば他者を尊重することはないため、酒を飲まずに輪から外れた人に対して「一緒に盛り上がりたいなら酒を飲め」などと飲酒を押し付けることも平気でする。アルコールハラスメント(アルハラ)も一種の愚痴だ。当の本人たちは自分が悪くないと思っているから、酒を飲まない人を非難することがハラスメントであることも、間違っているとも全く思っていない。

そもそも飲酒の有無に関わらず、相手を尊重しない人とは関わるだけ無意味であるから、愚痴の飛び交う飲み会は参加してはいけない。

 

愚痴の飛び交う忘年会は何と言ってもお金の無駄遣いである。無意味で低俗な忘年会にお金を費やすなら、優秀な社員の賞与に転化したり、会社の設備や備品に使うべきだ。忘年会をやる会社はお金を使う優先順位を誤っている会社であると言えよう。

参加費を徴収する忘年会だったらもっと酷い。自分の意思で参加するならまだしも、強制的に参加させられて参加費まで徴収されるなら明らかに搾取である。ちなみに、会社の飲み会が強制参加かつ参加費徴収である場合は違法であるため、心当たりのある会社員は労働基準監督署または弁護士に相談することを勧める。

 

 

路上飲酒は法律で全面禁止に

忘年会と共に日本の悪しき風習となれば路上飲酒であろう。路上飲酒は諸外国でも頻繁に見られることであるけど、諸外国でも昔から続く迷惑行為と言えば路上飲酒である。

コロナ禍では飛沫感染のリスクが高まるため当然ながら好ましくない行為であった。大人数がマスクを外して密集し、ウイルス飛沫は散り放題。嘔吐ともなれば最悪だ。吐瀉物から何らかのウイルスに感染するリスクもある。冬場に問題となるノロウイルスは吐瀉物から感染しやすいから、コロナでなくても問題だ。しかも吐いた本人は決まって片付けない。

 

しかしコロナ以前でも、酔った人々が騒いで様々なトラブルを起こすことから既に問題だった。大人数が一緒になって騒ぎ出すのでウイルス抜きでも迷惑。しかも人の数に比例してトラブルも大きくなる。

ポイ捨てや飲み捨ては路上飲酒の名物と言えよう。店飲みをする人はまずやらない行為だし、自宅の部屋で飲み散らかすならまだ許せる。彼らは明らかに公衆衛生に興味がない模様だ。

人は一度酔っ払うとコントロールが効かなくなる。理性が効かなくなるため自分の衝動を抑えられなくなるし、他者にも従わなくなる。他人に絡むとなったらもう最悪である。酔って他人に絡むことは忘年会の強制参加やアルハラと大差ない。絡んでいるその時点で不当な拘束や嫌がらせになっているからだ。

 

他人の迷惑にしかならない路上飲酒はこの際、法律によって全国で全面的かつ恒久的に禁止することを提案する。渋谷や池袋みたいな人の密集するエリアに限らず、地方都市、山間地域や離島も含む。全ての公道、全ての公園、無人駅を含めた駅構内、ほぼ全ての列車、そしてコンビニ敷地内で、飲酒を全面禁止にするべきではないか。

既に東京都渋谷区では条例によって夜間の路上飲酒が通年で禁止されているが、それ以外の地域では残念ながら緩いのが現状だ。また、夜間のみの禁止では効果が薄いと思う。

 

加えてアルコール飲料の路上販売も全面的に禁止するべきだろう。

祭りの屋台で販売されるアルコール飲料はほとんど路上飲みが前提だから、路上飲酒の禁止に相容れない屋台販売も併せて禁止する必要がある。

 

コロナ禍では飲食店の対策ばかりに意識が向かっていた。しかし、飲食店による対策は、心ない人たちの路上飲酒によって無意味化された。本来問題視されるべきは、寸分の節度も持たない人たちによる飲酒である。

「やりたいんだから口出しするな」と言って好き勝手なことをするのはクソガキである。そもそも酒は大人の飲み物であるから餓鬼は飲む資格がない。法令で罰則を定めて、路上で飲酒する者を取り締まることが必要だ。

 

 

飲んべえを甘やかす社会を終わらせよ

多くの諸外国では路上飲酒が法律で厳しく禁じられているそうだ。何か迷惑行為を起こしたかどうかは関係なく、そもそも路上で飲酒する行為自体が犯罪とされる。

日本では東京・渋谷の路上飲酒は規制されるようになったけど、地方では全くといっても良いほど進んでいないのが現状。とりわけ祭りなどの路上イベントではビールなどのアルコール飲料が平然と売られている。これでは路上飲酒を推進しているではないか。

 

飲み会の参加強制、飲酒の強要は現在の法律に照らしても犯罪である。強要でなくても酒は他人に勧めること自体がアウトだ。しかし彼らほど罪の意識は希薄で、自分の行為が犯罪になると認めたがらない。

酒があって当たり前の飲み会に固執し、酒の付き合いで他人を評価するという間違った判断に固執し、好きな場所と好きな時間に飲んで何が悪いのだと言わんばかりに、飲んべえは自分勝手な行為を正当化してばかり。彼らの説く道徳や原則も間違ったものばかりだ。アルハラの加害者も、路上飲酒で他人に迷惑をかける人も、自己中心的な生き方をしている。

 

もっと言うと、アルハラ加害者には断酒させるべきであるとも思う。

この類の人たちにはアルコール依存症などの疾患が認められるケースがよくある。しかし、依存症でなくても自分の人生を酒に委ねている点で変わらないし、ハラスメントとなれば酒という条件を押し付けているからより悪質だ。

飲酒を強要する人が断酒を強制されたら、彼らはそれをハラスメントだと主張するだろう。しかしそれは特権意識の表れでしかない。飲酒する人が上であるという考えは自惚れであり、歪んだ自己愛である。彼らは他人に不快感を与えているという自覚がなく、他人に強制することも至って正当だと思うばかりか他人から強制されることは不当だと思っているからだ。

実際のところは、飲酒を強要する人に断酒を強制しても効果が薄いばかりか逆効果になる可能性もある。しかし、だからといって飲まない人に害が及ぶことがあってはならない。他者を尊重しない人は酒を飲む資格がない。たとえ満20歳を過ぎて成人しているとしてもだ。

 

飲酒は他者を尊重できる人だけが認められるべき。

路上飲酒は公衆という他者を尊重しない行為であるし、飲み会の参加強制は他者の意向を尊重しない行為であり、飲み会で愚痴を言う人に至っては日常的に他者を軽視している。彼らの飲酒は有害であり、関わるだけ不快感を募らせる。

酒を飲む資格がある人は相手を理解し尊重する人だ。先ず相手が酒を飲むか飲まないかを理解した上で受容するし、飲まない人に酒を勧めることは当然しない。飲む人には飲み方の提案はするけど、他者の飲み方に干渉することはない。大勢集まって飲みたいか、一人で宅飲みか、居酒屋やバーで会話しながら飲むか、そもそも飲むか飲まないかなどは好みや価値観の違いでしかないと考える。飲まない人と一緒に食事をしても空気が悪くなることはないし、人間関係も損なわない。アルハラの加害者とは全てが真逆である。

居酒屋やバーも、そして忘年会などの飲み会も、他者に飲酒を強要せず、マナーを守り、公衆の調和を乱さない人だけが入店や参加を許されるものであるべきだと思う。そうすれば飲まない人も、一人の時間を大切にする人も、気持ちよく輪に入れると思う。

リーダーに必要なものは何ですかと聞かれて「カリスマ性」と答える人が未だにいる。これにはうんざりするばかりだ。

カリスマ性のあるリーダーこそ必要だと仰る貴方には以前の記事を紹介するので、先ずはそちらを一読願う。

 

 

 

 

紹介した記事では、リーダーには5つの力が大切であると説いた。だが、その中にカリスマ性は含まれていない。

 

カリスマ性とは人々を自然と惹きつける能力である。あくまで表面的な特徴で惹きつけるため、真の実績や人生観があるとは限らない。

カリスマ性を身につけようとする人の場合、ルックスや表情、説得力のある言葉選びや話し口調など、表面的なテクニックを手にしようとする。他人をカリスマ性で判断しようとする人の場合、それらが魅力的であるが否かで他人を見る。

身だしなみに気を使うことは否定しないけど、ルックスや表情というものは他者を判断する上で役に立たない要素だ。説得力や話し口調も大した意味はない。人格を見極める上でこれらは妨げになるから、カリスマ性は無駄な要素なのだ。カリスマ性は身につけようと判断しようと、いずれも愚の骨頂である。

 

人々を惹きつける力はテクニックだけで発揮されるものではない。外見はテクニックですらないから、カリスマ性を追求することは人間の本質である心に無関心でいることに他ならない。

しかもテクニックは不純な目的で使われることがある。テクニックで人々を惹きつけることは即ちマインドコントロールであるから、支配や搾取を目的にカリスマ性を発揮することは欺瞞である。信頼関係が脆弱な間でテクニックを行使すれば相手は心を閉ざし、必ずや関係が悪化する。

カリスマ性は人格によって結果が極端に分かれる。他者と協調するためのカリスマ性はシナジーを生み出す一方、他者を利用するためのカリスマ性は人を破壊する凶器となる。

そしてカリスマ性で他人を判断することは依存でしかない。これが依存である理由は、主体的な繋がりではなく権威に追従しているからだ。

 

 

見た目にこだわる人

カリスマ性を求める人の共通点は見た目の印象だけで人や物事を判断することだ。見た目やイメージが良いというだけの理由で「この人は優秀」「この商品は買わないと損」というように飛びつく。

 

他人をカリスマ性で判断する人は、他者の外見や口説き方など、表面的な特徴を重んじる。カリスマ性を身につけたいと考える人は、外見や口説き方を鍛えようとする。いずれも表向きの好印象に傾倒していることが分かる。

自分のカリスマ性を鍛えようとする人は、外見や口説き方で人を動かそうとする。しかし、中身が伴わなければ口だけであり、何処かで化けの皮が剥がれる。

そして他人をカリスマ性で判断する人は、総じて他者を理解しない。その人の能力、独自性、哲学、真の実績には無関心だ。仮にそれらを理解しても表面的な特徴を理由に難癖を付け、マウントを取る。「君の実力は素晴らしいし才能もあるけど、外見はちょっと残念だし、口下手なところも気に入らないね」なんて言う人がいたら、そんな人と関わろうと思わないはずだ。現実には印象で判断する人が世の中に蔓延っているから、世界は器の小さい人間だらけだ。

 

プレゼンテーションで聴衆は何を見ているだろうか。発表する内容だろうか。理解力の高い人は確かに内容を見るし、内容が秀逸であるなら発表者の伝えたいことも正確に伝わる。しかし人間はどうしても感情で動く。感情に左右される人はプレゼンの内容より発表者のルックス、非言語情報(口調、表情、身振り)、スライドショーの見映えなど、内容と全く無関係な要素を気にしてしまう。

内容を見る人もいるけど、自分の解釈に照らしたり、自分の求めている言葉が出てくるかどうかで判断したりする。これでは印象で判断する人と何も変わらない。悪い方に解釈すれば悪い印象を持つ、求めと違う言葉が出てくると批判するなど、カリスマ性で判断する人はとても自己中心的である。

 

カリスマ性を求める人、カリスマ性で他人を判断する人はルッキズムと同じ土壌である。ルッキズムは外見などの印象だけで人を評価する価値観であるため本来はカリスマ性と別物であるが、カリスマ性で他人を判断すること、カリスマ性を鍛えようとする人は総じて印象だけに傾倒するから、いつの間にかルッキズムに傾いてしまう。

本当に人々を惹きつける人は優れた人格が土台にある。しかし、印象だけを重んじる人は人格を疎かにするため、結果としてカリスマごっこになるのだ。

 

 

騙されやすい人でもある

しかもカリスマ性で他人を判断する人は、総じて自分から行動しない人でもある。

「もっと私を説得してください。それで私が納得したら貴方の言う通りにします」と言う人がいたら、貴方ならその人を厳しく戒めるか、愛想を尽かせるだろう。私もそんな発言は一切許さない。

彼らは自分の決断と行動に責任を負うことを避けたがるのだ。誰かが担保しないと行動しない。しかも身近の人が担保しても行動しないばかりか丸投げすることが殆ど。

では、誰が担保すれば動くのか。答えはただ一つ、カリスマ性があると認める人物である。

 

ところが、カリスマ性は時に悪質な目的で使われることがある。それは他人を騙すことだ。騙す目的で外見的な好印象や口説きを利用し、他人に近づき、そして自分の意のままに操る。裏表のある人は表面的な好印象で他人を騙すので、カリスマ性で他人を判断する人は簡単に騙される。

印象にとらわれると物事の本質や真相、結果、予測可能なリスクなど、大切な論点が疎かにされてしまう。勿論、相手の意図には関心も向かない。特に自己愛が歪んでいる人の場合は論点を突き止められる状況を避けようとする。

他人を欺く連中にとっては自分の言ったことさえ信じてくれれば良いと思っているため、口の巧さや外見的な美にばかり注力する。印象だけで判断する人はそれでまんまと騙される。見た目で判断する人は相手の真の実績や人間性に関心を向けないから、整った外見や立派な実績(実態は伴わない)を容易く信じてしまう。

カリスマ性で他人を判断するということは「私を騙して下さい」と言っているようなもの。つまり、印象だけで他人を判断している人は搾取される人でもあるのだ。

「口説き方を教えます」と言うことは「他人の騙し方を教えます」とイコールだ。嘘をつくことを推奨する人が果たして信頼に値するだろうか。

 

結果を重んじる人、哲学や確かな人生観がある人、他者に迎合しない人は、印象を重んじる人にとって極めて不都合。特に他者を欺くことや誤魔化すためにカリスマ性を発揮する人は、自分の印象が評価されないことにとても敏感だ。しかし、他者を言いくるめる行為により自分のカリスマ性を殺していることは明白だ。何より信頼を失うからだ。信頼を失ったら印象は最悪であり、信頼できない相手の口説きは信用できないし、見た目が良くても全く機能しない。

自分の印象さえ良ければそれで良いと考えている人の市場価値は底辺。相手の印象が良ければそれで良いと考えている人は他者を理解することもなければ事実も見ないので、彼らの市場価値もまた低いのだ。

 

 

カリスマ性より共感性を見よ

見た目は好印象だったけど、関わると他責思考丸出しで虚栄心も強かった。外見も良くて説得力がある話し方をするけど、相手の感情や関心には殆ど興味を示さないし、他者からの指摘には不寛容。そんな「見掛け倒し」の人間を、私たちはどれほど遭遇したことか。

カリスマ性はもはや人間を見極める上で邪魔にしかならない。見栄にこだわる人や、共感性の低い人は、彼らの疎かにする要素がカリスマ性よりずっと大切であることから目を背けているのだ。

 

カリスマ性を追求する人、そしてカリスマ性で他人を判断する人は、いずれも大切な力を疎かにしている。見た目にこだわり、人間性をまるで観ていない。外見や口説き方はいずれも外側の特徴。心という内側の要素から生まれる特徴ではない。

しかも口説きという行為は相手のための行為ではなく、自分に引き寄せるための行為である。他者に同情を示す場合もあるけど、自分の承認欲求が動機であるから、口説きは基本的に自己中心的な行為なのだ。

外見にこだわる人は明らかに他人から良く見られたいと思っている。白髪が見えると恥ずかしくなったり、見栄のためにハイブランドのアイテムを所持したり、SNSの画像を盛って実際とはかけ離れた映りにするなどは、カリスマ性偏重の思考の現れだ。それも歪んだカリスマ性と言うべき。

そして相手の関心や気持ちに応えないとなればもう最悪だ。

 

カリスマ性より共感性の高い人の方が市場価値は高い。

共感は自分の心から生まれる行いである。人間の行いは全て心が作り出すから、彼らの行為は全て心の在り方を物語るのだ。外見や口説きも心が作り出すし、共感や理解も心が作る行いだ。承認欲求なんて明らかに欲深い印象があるだろう。

カリスマ性を「話し方」とするなら共感性は「聞き方」である。他者はどんな相手を求めるかと言えば、自分の話を聞いてくれる人、即ち自分を理解してくれる人である。カリスマ性に傾倒する人はその人が話を聞いて欲しいと発しているため、相手を理解するより自分が理解されたいと言ってしまっているのだ。

 

しかし、共感するからと言って、リーダーが評価されたりカリスマとして称えられたりすることは危険である。共感はあくまで創造的な協力関係を作って結果を出すために必要なことだ。カリスマ性も本来はそのために発揮されなければいけない。

求める答えを示した人のカリスマ性が評価され、その後結果を出せなくなってカリスマ性を失うという事態も実際にある。それはカーボンニュートラルへの取り組みに関する自動車業界で起きた。

 

 

哲学と戦略のある人はカリスマ性を求めない

日本のリーダーを見ると、外見や口説き方で人々を魅力するリーダーはあまりいないように映る。内容こそが重要であるという考えが中心である。しかし、世界の人々はカリスマ性の有無で判断する傾向が強く、結果で裏打ちされることが多い。

例えばトヨタ自動車の豊田章男会長は、プロモーションやプレゼンの力は評価されているけど、カーボンニュートラルへの取り組みを発表するプレゼンは評価されてなかった。ハイブリッド車中心で内燃機関に依存し、温暖化問題に消極的だと批判されたのだ。しかし今では、EV普及が減速する中で強い存在を発揮し、長期的戦略と結果で成功している。トヨタを批判した勢力がひっくり返ったのだ。

ここで注目したい点は、何故トヨタを批判した勢力が失敗したかである。インフラ事情を鑑みてなかったことも一因にはあるけど、最大の問題は印象だけで判断したことにある。EVシフトが正義でそれ以外は邪道と考え込んでいたため、ハイブリッド車を中心に据えるトヨタの姿勢が腰抜けに見えたのだろう。彼らの求める答えを示した人にこそ追従するが、トヨタはそれを示さなかったため、カリスマ性を評価されることはなかった。しかし、EVの失速により彼らの求める答えが出せなくなったことで、彼らの認識するカリスマ性が一気に崩れてしまったのだ。

 

カリスマ性の落とし穴は、求める答えを示す人、求めに応える人が高く評価されがちであることだ。自分の求める答えを示してくれる人に惹かれてしまうため、未知の領域や、解決方法が確立していない課題の場合、求める答えが出せなくなるという形で破綻すると、カリスマ性で他人を判断する人は相手に失望する。騙される人もこのような流れを辿る。

トヨタは求める答えを示さなかったから失望された。しかし、トヨタ以外が結果を出せなくなると手のひらを返すように評価が変わってしまった。いくら人々を惹き付けても結果を出せなければ意味がないし、逆に人々を惹き付けなくても結果を出せば勝利である。結果はカリスマ性よりも強いし、結果を生み出す戦略と哲学も同じだ。

 

プロモーションやプレゼンという行為は所詮カリスマの行いだ。カリスマ性を求める人は必ずしも戦略に強いとは限らないし、酷くなると悪質な戦略を立てていたりする。戦略がない、戦略が悪質という状態は、哲学が無いことを意味する。何の戦略もないビジネス展開は哲学があったらできないし、人を騙したり陥れる戦略となれば倫理観もない。 

強かな戦略と哲学は時間が経ってから結果として現れるから、たとえプロモーションやプレゼンが評価されなくても結果が解決する。結果は行動によって作るものであるから、プレゼンにコミットしたところで意味がない。既に出てしまった結果は良し悪しに関わらず変えることができない。プロモーションやプレゼンでオーディエンスの求める答えを示すことが出来ても、実際の行動で同じ答えが出せなければ口だけだ。結果は事実であるから揺るがない。カリスマ性も事実の前では無力なのだ。

 

リーダーに必要な力は説明力、決断力、実行力、構想力、そして共感力である。これらは結果を出すために必要な力であり、戦略と哲学はこの中では構想力に相当する。プロモーションやプレゼンは一番下の説明力であり、他者を動かす力はない。カリスマ性を求める人はどの力も欠如しており、リーダーにカリスマ性が必要ないのはこのためだ。

信念の話をするとなると、多くの人は「好きな言葉」の話をしようとする。勿論、好きな言葉を持つこと自体は否定しない。そもそも言葉に限らず、嫌いなものより好きなものを増やした方がよい。

 

とはいえ、人はどうしても譲れない部分があるから、好きになれないものは出てきてしまうもの。

例えば「やれば出来る」という言葉をかけられても、言われた人がそれで不快になるケースはある。実際にやって結果が出ない、自分一人で乗り越えられる問題ではない、そもそも意欲どころか関心すらない、場合によってはうつ病など精神的な破綻が生じているなどの場合に「やれば出来る」という言葉をかけたら逆効果だ。言っている本人は「やれば出来る」という言葉が好きだし、実際にやって好ましい結果が出たから、良かれと思って相手に言っているのだろうけど、相手を理解しないまま使ったら共感の欠如に他ならない。共感のない言葉は相手の不信を招き、人間関係に影を落とす。相手に共感しない言葉は「嫌いな言葉」として認識されることが普通だ。

 

それに「好きな言葉」の話をしても、どうしても綺麗事のように聞こえてしまう。

「『One for all, all for one』(一人が皆のために、皆が一人のために)という言葉が大好きです」と言っている人がいるとしよう。しかしその人は、気遣いが欠けていたり、約束や締め切りを守らなかったりするため、日常的に会社に迷惑をかける。結果として組織のパフォーマンスが低下し、その人が所属する部署は社内の評判も下がってしまった。

この話を聞いた貴方は、この人を信用したいと思うだろうか。恐らく思わないだろう。言葉と本人の人格が一致していないからだ。個人と集団の相互依存を表わす言葉を好むと言っていながら、実際の行いはそれに反するため、嘘をついていることと変わらない。

「好きな言葉」はこのように見栄を張るための文言になることがあるため、必ずしも言っている本人の人格を表わしているとは限らないのだ。実際の人格は言葉ではなく、行動の結果で証明される。

 

一方、「嫌いな言葉」の話をする人は少ないようにも映る。なぜ「嫌いな言葉」の話をしたがらないのか。その理由は、その言葉を自分の気づかぬうちに発しているからである。

人は誰しも矛盾を抱えている。「嫌いな言葉」との矛盾、つまりその人が嫌っている言葉と同じ事をやってしまっていること、これこそ私たちは誰もが抱えているのだ。だからこそ「嫌いな言葉」を語ることはとても意味があると思っている。

 

 

「嫌いな言葉」は人を遠ざける

「あの人嫌いだ」という話ばかりする人は、貴方の周りにいないだろうか。貴方がそんな状態なら今すぐ考えを改めることを勧めるけど、身近にいる他人が「あの人は嫌い」と言って不満を並べる人だったら、貴方はその人を信頼できるだろうか。

勿論、その相手が名指しする対象者があまりに理不尽な行いをするなら嫌いになるのは至って当然。しかし、同じような不満をずっと言い続けるなら、関わりたく思わないだろう。名指しする対象が多い場合も同様で、誰かと関われば必ず気に入らない点を探し出すから自然と人が離れる。

人を嫌うことは意識的にせよ無意識にせよ、人を引き離すことである。「あの人が嫌い」「あの人のこういう所が気に食わない」と繰り返すことで、いつか自分にも矛先を向けられるだろうと身構え、次第に心を開かなくなる。

 

「嫌いな言葉」も「あの人嫌いだ」という不満と同様に人を遠ざける効果がある。「こんな発言をする人は嫌いだ」と言ったら、もしその人の嫌いな文言を言って関係が悪くなったらどうしようと身構えるはずだ。特に自信のない人であれば緊張するに違いない。

しかし嫌いな言葉も、その文言が持つ主体性によって自分の周りが変わってくるものだ。主体的な言葉を嫌うか、反応的な言葉を嫌うか、この違いで自分の周りも、そして自分自身の在り方も違ってくる。

 

成長する人が嫌う言葉は反応的な言葉である。「『自分は悪くない』と言っている人は嫌いだ」と公言する人に出会ったら、主体的な人はその人を信頼するし、その言葉で目覚める人もいるはずだ。主体的な人は「暴力を振るう人は嫌いだ」という言葉に間違いなく賛同するし、実際に暴力を嫌う。何しろ暴力は反応的な生き方の究極だからだ。

一方で成長しない人、つまり反応的な人が嫌う言葉は主体的な言葉である。行動を促す言葉(例:「私と一緒に学びましょう」)、気付きを与える言葉(例:「今やっている課題の目的は何ですか?」)、他者からの指摘(建設的な指摘に限る)、主体的な人が発する意見やメッセージを大変に嫌う。

過去に付き合っていた友人は、私との会話の中で「他の人から『君は頑固だ』と言われるのが嫌で、以前そのように言われて怒った」と話した。その時に私は「それが『頑固だ』と言われる原因だ」と指摘し、相手は愕然としたのだ。当時の友人は私にアドバイスをしたがる一方で、私からのアドバイスは拒むという、自己陶酔に近い状態の人だった。私に限らず他者からの助言や指摘には拒絶的で、約束を破っても相手を不快にしてもヘラヘラしてばかりで悪びれる様子もなかった。結局それが縁を切る理由になった。

反応的な人はこの友人のように、他者からの助言や指摘を否定の言葉として受け止め、自尊心を自ら傷つける。「頑固だ」と言われて怒る人は頑固であるばかりか、悪い意味の頑固とも言うべきだろう。
 

勿論、当の本人がその嫌いな言葉を無意識に発していることも決して珍しくない。

出来れば自分の嫌いな言葉を他者と共有するべきである。他者と共有することで自分の言動を点検することが可能になるからだ。

最悪なのは、嫌いな言葉を他人から発せられることは嫌うくせに自分は平気で他人に浴びせるというもの。「暴力を振るう人は嫌い」と言っておきながら平気で他人に暴力を振るうようなもの。これは特権意識によるもので、一貫性のない人格を示す。

 

 

こんな言葉を嫌うべし

言われて嫌な言葉は私も言われて不快だし、当ブログをお読みになって下さる皆様も耳にしたくないだろう。

ところが、口癖のように言ってしまっている人は悪びれることなく繰り返す。そして当人たちは成長が止まっている。

嫌いな言葉、忌み嫌うべき言葉は具体的に列挙していると枚挙に暇がない。具体的な文言ではなく、目的や態度によって分類し、抽象化すると理解しやすい。他者を不快にする言葉は抽象的に分類すると発言の動機を理解できるからだ。

 

私たちが忌み嫌うべき「他者を不快にする言葉」は3種類に大別できる。一つ目は自分の思考を放棄し他者の思考を強制的に止めてしまう「思考停止ワード」、二つ目は自分の行動と状況を他人や物や環境のせいにする「他責思考ワード」、三つ目は相手の存在そのものを否定する「人格否定ワード」である。

この3種類の言葉を発する人は総じて反応的な生き方をしている。

 

 

思考停止ワード

先ず取り上げたいのは思考停止ワードである。「しょうがない」「忙しいから」「前例がない」「頑張ります」など考えることを放棄する際に用いられる言葉、「やれば出来る」「頑張れ」「止めた方が良い」「要は○○」など共感を欠いた言葉がこれに当たる。

思考停止ワードを発する動機は、考えることや相手を理解することから逃げることだ。

 

特に私は「しょうがない」という言葉を耳にしたくないため、口癖になっている人とはなるべく関わらないようにしている。「しょうがない」が口癖になることの問題点は以前の記事でも述べているので、一読願いたい。

 

 

 

 

思考を放棄する言葉が口癖になっている人の最大の問題点は、何と言っても成長しないことである。

共感を欠いた言葉を連発する人は相手の自信を奪ったり、理解を放棄していることが問題となる。やっても出来ず悩む人に「やれば出来る」「頑張れ」と声をかけたり、目標達成に向けて努力する人に「止めた方がいいよ」と声をかけることが、どれだけ相手の自信を傷つけていることか、当人たちは全く理解していない。

「要は○○」という要約の言葉が共感の欠如だと信じがたい人もいるかも知れない。相手が話を詰まらせた場合、要約によってコミュニケーションが再開する場合も実際にはあるからだ。しかし、要約という行為には重大な落とし穴がある。相手の言葉を自分の解釈に当てはめてしまうため、相手の意と自分の解釈が一致しないと会話のズレが生じてしまうのだ。特に相手の話をすぐに遮って「要は○○でしょ?」と言ってしまう人ほど会話のズレが生じやすい。相手の話を最後まで聞かないことは共感の欠如と同義であり、思考停止の状態なのだ。

 

ただし、思考停止ワードとされる言葉の中でも「無理」に関しては注意が必要だ。言っている本人のメンタルが壊れていたり、一方的または大きな要求を押し付けられたりした際の防御反応である場合があるからだ。その場合に「やれば出来る」とか「頑張れ」といった思考停止ワードをかけたら、相手を精神的に追い詰めてしまう。「無理」という言葉は言っている本人のSOSである場合があるため、否定することは禁物だ。この言葉を発している人に対しては共感することが不可欠。無理を克服できる方法を一緒に考えること、一方的な要求を止めることが必要になる。「無理」という言葉は他者との信頼関係の中で消えてゆくものだ。

思考停止はメンタルの不調によって起きている場合もあるため、「忙しい」という意味で「無理」と言っている場合はメンタルの問題を疑った方が良い。自分自身だけで解決できない原因(例えば、勤めている会社が法令や人権を無視しているなど)も含まれている場合があるため、専門の機関や信頼できる他者と一緒に行動することを勧める。

忌み嫌うべき「無理」とは自己陶酔によるものである。自己陶酔による無理とは面倒臭さ、完璧な(というより尊大な)自己像の否定を回避することが目的であるため、成長しないどころか終わっていると言えよう。

 

 

他責思考ワード

次は思考停止ワード以上に厄介な言葉で、言っている本人の値打ちだけでなく信頼関係も壊すほどの威力を発揮する。それは他責思考ワードである。言わずもがな、この言葉の動機は責任転嫁にある。

 

他責思考ワードとしてだいたいの人が浮かべる文言は「自分は悪くない」「悪いのは○○だ」といった類いである。露骨な形で責任を転嫁しているからだ。

タチの悪い文言としては「ごめん、許して」「悪気はなかった」「冗談だってば」などの言葉である。「悪気はなかった」「冗談だってば」といった言葉は自分の行為を正当化する発言である。これらを言い換えれば「自分に悪意はありません」「冗談が通じない貴方に問題があります」となるため、結局は責任転嫁となる。「ごめん、許して」という言葉は一見すると謝っているように聞こえるけど、「許して」と言っている時点で「私が貴方を不快にしたことは気にしないで下さい」と言っていることと一緒。ここには反省の心など微塵もない。とりあえず口先だけで謝っておけばいいという、相手を見下す心の表れであり、言っている人は終わっていると見て間違いない。

「(人)が○○って言っていた」という言葉もタチが悪い。この言葉が問題になるのは「私はその人が言ったことを伝えているだけだから、自分に責任はない」という態度が含まれているからだ。自分の発言と同じことを「言った」とされる人に責任を転嫁しているのだ。第三者の担保を当てにしているため、相手の助言に対して「自分にも出来ますか?」と言っている人と中身は一緒だ。「自分にも出来ますか?」という文言も他責思考ワードである。自分の言動に責任を負わないという点は両者とも変わらない。

そして「(人)が○○って言っていた」という言葉は嘘つきの常套句であることを強調しておく。この類いの嘘はマニピュレーター(※)の手法であり、支配欲という目的を達成するために第三者を利用することはマニピュレーターの常套手段である。「(人)が言っていた」と吹聴することにより不和の種をまき、他人の人間関係を操作し、他者を自分の思い通りに支配することが狙いなのだ。

「貴方のために言っている」という文言もマニピュレーターの常套句で、この言葉は他責思考ワードの中で最も悪質な部類に入る。この言葉は相手の良心に漬け込んで反論できなくし、一方的に操作するための文言である。「私の言うことに逆らう貴方が悪い」という意味を含むため責任転嫁であるし、反論できない形で相手を心理的に追い詰める行為であるから、極まりなく卑劣だ。「貴方のため」という言葉は真っ赤な嘘であり、相手のためであることを証明しようとするほど嘘を重ねるから、マニピュレーターは嘘の塊であると言っても過言ではない。

 

 

(※)他者を操作し支配する人を指す概念。相手の良心や道徳観を狂わせるため、ターゲットとされた人に情緒的な問題が生じる。

 

人格否定ワード

この言葉は相手の存在意義を奪い、自分の価値を相対的に高めるために発せられる。人格否定ワードを発することは明確なハラスメントである。

人格否定ワードは露骨で分かりやすいため例も挙げないけど、相手を傷つける目的で発する言葉は全て人格否定と考えて差し障りない。

人格否定ワードを発することはいじめである。職場であればパワハラ、子どもに対して言えば児童虐待である。関係にかかわらず公然と他人に言えば侮辱罪(刑法第231条)または名誉毀損罪(刑法第230条)に問われる。つまり発言すること自体が犯罪なのだ。

 

人格否定ワードが口癖になっている人の最も厄介なところは、その周りにいる人たちに伝染してしまうことだ。人格を否定された人に怒りが伝染し、その相手が人格否定で仕返しをする。或いは誰かの人格が否定されている状況を見て周りの人が不快感を示し、人格攻撃を仕掛ける人に人格否定ワードを浴びせる。そのため誰かの人格を否定する人は近くにいるだけで有害である。その人が存在するだけで人格否定の応酬に発展し、雰囲気が殺伐とする。

 

日常的に人格否定ワードを発する人はゲミュートローゼであることが多く、その場合は良心の呵責がないため、当人に諭しても、嫌であることを伝えても平気で無視することが殆ど。そのため一人の力で解決することは望めない。人格障害(パーソナリティ障害)の可能性もあるため、もし人格否定ワードで困っている場合は精神科医などの専門家に相談することを強く勧める。マニピュレーターの場合も同様だ。

良心の呵責の欠如を特徴とするゲミュートローゼ、そして支配欲を特徴とするマニピュレーターはいずれも共感性に欠けているため、他者が嫌がることも自分の得になると思えば平気でする。他者の嫌いな言葉も平気で発するし、自分の口癖を嫌う他者に対して異を唱えることも平気で、相手の好きな言葉も躊躇いなく切り捨てる。「『悪気はない』と言っている人は嫌いだ」と言っても自分は当てはまらないか例外で在ると考えているため、平気で「悪気はなかった」と口にし、或いは「相手は悪気がないんだから受け入れろよ」と言って詰る。他者の好き嫌いを自分の都合通りにコントロールしようとしていることは明らかだ。

他者を尊重しないことと人格否定は同義であるから、そんなことをする人はゲミュートローゼかマニピュレーターのどちらかであると見て間違いない。だから他者を尊重しない人とは縁を切るべきである。

 

 

「好きな言葉」より「嫌いな言葉」が大切な理由

好きな言葉を語っても美辞麗句を並べるだけになったりする。「『自利利他』という言葉が好きです」と言っている人がいたら、その時は言っている本人の印象が良く見えるだろう。しかし、「自利利他」が好きと言っておきながら尊大かつ傲慢で、他者を操作して支配しようとするようであれば、その人が本当に「自利利他」という概念に感銘を受けているか信じられるわけがない。

口だけの人間は「好きな言葉」と当人の言動が矛盾することが殆どで、大抵の場合は嫌いだという言葉も構わず発している。特に「好きな言葉」との不一致は顕著。自分を良く見せるためだけに「好きな言葉」などと言って尤もらしい文言を挙げるから、行動を伴っていないことがほとんどなのだ。

「好きな言葉は○○です」と口にする人に対して「では、貴方の嫌いな言葉は何ですか?」と問うてみよう。口の上手い人はその「好きな言葉」の対義語的な語句を述べるけど、これは口だけの人がよくやる手法だ。物事を二元論で考える人と同じで「善か悪か」「白か黒か」という考えに陥っている。好きな言葉が「勤勉」なら嫌いな言葉が「怠惰」という喩えなら、口だけの人の思考を理解しやすいだろう。

 

一方、誠実な人は好きな言葉と嫌いな言葉が対義語の関係になっていないことが普通なのだ。

好きな言葉が「反骨精神」で嫌いな言葉が「誇大」と「尊大」であるなら、対義語的な関係ではない。ちなみに今挙げたものは私のことである。反骨の対にある「追従」や「迎合」も嫌いではあるけど、誇大と尊大はそれらと違って心の醜さが顕著で、他者への悪影響も無視できないから追従や迎合よりも忌み嫌うべきものであると考えているからだ。

 

嫌いな言葉が大切である最たる理由は、何と言っても意思の強さである。しかも、ネガティヴな言葉を嫌うかポジティヴな言葉を嫌うかで、その人の真価まで露呈する。ポジティヴな言葉を嫌うようであれば邪念が強い。

「好きな言葉」とは言ってみれば「自分の理想」を端的に表現する一言である。「嫌いな言葉」はその逆と言って良く、「自分がこうであってはいけない」という意思表示でもあるのだ。

勿論、嫌いな言葉と同じことを自分もやってしまっている場合だってある。迎合が嫌いと言っていながら、他者に逆らうことが怖くて迎合・追従している自分に葛藤する人もいる。彼らにとって嫌いな言葉とは「自分が置かれている最低の状態」なのだ。しかし、嫌いな言葉は自分の現状を打破するためには必要でもある。むしろ嫌いな言葉と矛盾する自分との葛藤こそ、人を成長へと導く原動力になる。他者に迎合してばかりの自分を克服したいという意気込みにもなる。

嫌いな言葉の本当の意味は、自分の人生において譲れない道徳観と決意である。関わる他人を決めるために必要であることは勿論のこと、自分の在り方にも働きかける標にもなる。目標達成のために自己研鑽に励む、目標を理解し支えてくれる他者を大切にするためには、自分の「嫌いな言葉」を明確にすることが大切なのだ。

 

好きな言葉を持つことも否定はしない。本来であれば好きな言葉も嫌いな言葉も大切であるが、美辞麗句を好んでも意味はない。ポジティヴな言葉を嫌えば心が狭くなることなど言うまでもない。

口だけの人となれば、表向きでは良さそうな言葉を挙げて自分を演出する。しかし行動を伴わないため、当然ながら言葉に見合った結果も出ない。「勤勉」という言葉が好きと言いながら非常に怠惰で、嫌いな言葉と矛盾しても葛藤がない人は自己陶酔の状態にあるから、そのような人は成長もしないし、他者の成長を止めるどころか破壊するため、終わっている人間なのだ。