今では「Made in Japan」の製品を国内で見かけることは少なくなった。生産拠点が海外に移された結果であり、今では外国製ばかりが目立つ。

「Made in China」が市場を席巻しているけど、コロナ禍などで露呈した中国依存のリスク、そして昨今の日中関係の悪化もあり、中国製の割合はいくらか下がりつつある。代わって「Vietnam」(ベトナム)、「Malaysia」(マレーシア)、「Indonesia」(インドネシア)、「Thailand」(タイランド(=タイ))の割合が大きくなった。最近では「Laos」(ラオス)の製品まで見かけるようになり、一昔前の中国製一辺倒の状況は影を潜めつつある。

 

日本から海外、特に新興国に生産拠点を移す流れは、人件費を抑えて生産し、価格を抑えることが理由である。手っ取り早く言うと、安くこき使って大量に売るということだ。家電とアパレルの企業の多くはこうして利益を増やしていった。

自動車の場合は事情が異なる。元々が貿易摩擦の対策で、現地生産を目的としていることが大きな理由だ。そのため、家電やアパレルと違って安い労働力で大量生産という体制ではない。日本の自動車メーカーの莫大な利益は現地生産によるところが大きい。

家電とアパレルに見られる、安い人件費で大量生産して莫大な利益を得るというビジネスモデルも、今では先行き不透明であろう。生産地である新興国の人件費が高騰し、安く抑えることがもはや難しくなった。そして近年の円安により海外生産の利点が薄れ、国内で生産してもコストで差を付けられなくなった。

 

トヨタに代表される日本の自動車メーカーと、ユニクロ(ファーストリテイリング)などのアパレルメーカー、パナソニックなどの家電メーカーでは、生産体制の長期戦略が大きく異なる。アパレルと家電では基本的な戦略が似ているため、今回はこの両業界を軸に日系企業の海外生産とそれによる長期的な影響を掘り下げる。トヨタの場合はむしろ日本にとってプラスに作用しているため、今回の記事では主軸ではない。

 

 

ブラック企業の発想

海外の安い人件費で大量生産するビジネスモデルは先述の通り、日本では家電とアパレル業界のほぼ一般的な形となった。この分野では日本製の商品を滅多に見ない。

景気の低迷した日本では国内生産の体制で作られたものが高価になり売れなくなった。この状況を打開しようと考えた道が海外生産であった。日本より遙かに物価も人件費も安く、しかも発展途上であった。関税の特例もあるため、これらの国々から輸入すれば関税を払う必要もなかった。特に中国は距離が非常に近く、コスト面では圧倒的に有利であったため、多くの家電メーカーとアパレルメーカーが中国に生産拠点を移転した。

現在では中国の物価と人件費が上昇し、関税の特例も段階的に撤廃されているため、コスト面での優位性は若干薄れた。そして政府による統制が厳しく経済活動に支障をきたすことから、今では東南アジア諸国を拠点とするようになった。

 

政治哲学者の内田樹さんによれば、この手の勢力が理想とする条件は以下の通りである。

人件費∶最も安いこと

生産コスト∶最も安いこと

公害規制∶最も緩いこと

法人税率∶最も低いこと

自民党政権が主張する「企業が活動しやすい国」も実はこれらの条件を踏襲しているため、アベノミクスでは以上の条件に近くなるように規制緩和を推し進めていた。現在の高市政権もこの流れを汲むが、近年の円安とそれに伴う物価上昇で国内消費に陰りが見えたことで慌てているのだ。

日系の家電とアパレルの両業界は冒頭で取り上げた国々で生産して日本国内に流通させている。ベトナム、マレーシア、インドネシア、タイ、ラオスなどの国々は人件費が低く、公害規制も日本ほど厳しくないから、薄利多売を良しとするならそこで生産した方が有利だと考える。 家電メーカーとアパレルメーカーの両者にとって東南アジア諸国は「企業が活動しやすい国」である。これらの国々は物価も低いため、必然的に生産コストも安く抑えられる。

法人税率の低いところで納税するという流れは「タックスヘイブン」として問題化された。タックスヘイブンは法人税がないか極端に低い地域のことで、企業にとって租税を回避できることから、グローバル企業が子会社を置いて資産を移転していたことで問題となった。子会社の中にはペーパーカンパニーまであった。

 

価格抑制のための海外生産は、実は根底にブラック企業の思考がある。ブラック企業と言えば長時間過密労働、各種ハラスメント、賃金未払い、そして安全が確保されていないなど働き手を蔑ろにする企業のことを指す。海外の拠点でそこまで露骨な搾取が行われているわけではないだろうけど、「安くこき使う」という発想は働き手を軽視する態度の一端である。

 

 

海外の生産拠点は海外のためでなければいけない

海外の生産拠点は何のためにあるか、この位置づけは日本の家電業界とアパレル業界、そして日本の自動車業界とでは全く異なり、日本の産業の発展させるか衰退させるかという影響も180度変わる。

 

自動車業界が海外に生産拠点を構えるのは貿易摩擦の対策が主な契機である。しかし、この流れを裏返せば、その国の市場で日本車とその技術が必要とされている証なのだ。生産拠点を新たに構えることで現地のニーズに素早く応えたりできるため、現地化が容易になるという利点がある。勿論、現地の生産拠点だけでは供給が追い付かないため、輸入も一定の割合で継続される。

このような戦略は時に現地の同業者を脅かすことになる。日系のブランドが生産拠点を展開するようになると旧来の業者は技術と性能で差を付けられるから、顧客だけでなく労働者が次々と流出する事態にもなる。しかも現地で生産しているから供給も素早く、輸入だけの場合に比べても短期間で日系ブランドに侵食されやすい。GMとクライスラーの経営破綻(再建済み)は、輸入車の脅威以上に日系企業の現地生産が大きく影響したのだ。

日本の自動車メーカーは現地生産により規模を拡大し、圧倒的な成功を得た。自動車業界にとって海外の生産拠点は「現地の市場戦略の司令塔」である。現地のメーカーが応えなかった需要に日系企業が応えたのだから、トヨタが北米で成功したのは必然である。

 

一方、日系の家電メーカーとアパレルメーカーは薄利多売が目的だ。これらの業界が海外の生産拠点を作ったのは主にバブル崩壊後である。国内の景気が低迷する中、価格を安く抑えて売れる商品を作りたいと人件費の安い新興国に生産拠点を移していった。

家電メーカーとアパレルメーカーにとって海外の生産拠点は現地市場の戦略のためではない。「日本のために安く使えるツール」であって、決して現地のためではない。日系の家電ブランドは諸外国でも見ることこそあるけど、その多くは中国や東南アジア諸国で生産された製品だ。日本から輸出されたものではない。

そしてお金を落としていないことも問題だ。自国で生産していないから自国にお金が落ちない、物価と人件費の安い国で生産しているから、現地では大金かも知れないが通貨の価値で見た場合はお金が落ちていないことが分かる。現地がタックスヘイブンであれば税金としても落ちない。その一方で二酸化炭素や有害物質は放出しまくりだ。

 

前出の内田樹さんは、海外に事業の拠点を置きながらホームグラウンドに利益を落とさない企業を「無国籍企業」と呼んだ。生産拠点を海外に移し、日本国内では製造による利益がいくらも落ちない状態を作り出した家電メーカーとアパレルメーカーはまさにこの「無国籍企業」の典型である。内田さんの定義した無国籍企業はグローバル企業全般を指すが、日本で生産していないくせに「日本の企業」を名乗る勢力はもはやニセモノであるということなのだ。

内田さんは、無国籍企業のために国民に犠牲を強いることは筋違いであると説いた。そのことは昨今の円安を見れば痛いほどに分かるだろう。無国籍化した大企業が大きな利益を上げる一方、貿易赤字が膨れ、それが通貨安として私たち国民の生活に影を落としている。昨今の円安は生産拠点の国外移転による犠牲であり、これを招いた勢力こそ無国籍企業と化した家電メーカーとアパレルメーカーと言えよう。

 

 

円安の原因は海外生産にあり

自動車業界は日本経済を確かに下支えしているが、家電とアパレルの業界はもはや日本経済の足を引っ張る存在に成り下がった。

新興国に生産拠点を構えることにより安く生産され、しかも関税がかからないから、企業はぼろ儲け。しかし、国内の労働者にお金が落ちているわけではないため、結果として日本国内にお金が回らない。その結果、日本の景気は低迷を続け、何十年も失われることとなった。

海外の拠点にお金が落ちるため、いくらコストが安いといえども外国にお金を落とし続ければ日本の円を少しずつ売ることになり、結果として円安を生み出す。現在の円安は引き金こそ2022年の国際情勢の激変にあるけど、それだけなら現在の1ドル160円台まで円安にならずに済んだはずだ。日本での生産をせず、国外の安い労働力に依存し続けた結果が現在の1ドル160円台なのだ。しかもバブル期と違い貿易赤字であるから、現在の円安は何の利益にもならない。

生産拠点が海外に移転すれば生産力も海外に流出するため、日本は輸出で利益を上げることができなくなった。にも関わらず、輸出銘柄の株価だけで日経平均株価が吊り上がっていることだ。貿易赤字で輸出関連の業界の利益も吹き飛んでいる状態でこれはない。投資家は未だに日本が輸出大国であると本気で信じているのだろうか。吊り上がった株価とそれによる時価総額も、日本国内に落ちなく海外に流れてゆくだろう。

 

これまで人件費と物価が安いとされた国々も今では人件費と物価が上昇し、対する日本の物価は伸び悩んでいる。日本も上昇はしているけど、それは円安によるものであって、国の内部によって引き起こされた物価上昇ではない。新興国の場合は好景気による物価上昇であるため中身が伴っており、日本との物価や人件費の格差は縮まっている。

物価の格差がない状態であれば生産拠点を海外に構える利点は薄い。それならば日本で生産する方がコスト面で有利であるから、安い人件費に固執することが如何に長期的な利益を損ねるかを見せ付けられる。日本の薄利多売のためではなく、現地のニーズに応える拠点にできなければ、無国籍企業の未来はない。

ユニクロとパナソニックのように海外の労働者を安くこき使うか、或いはトヨタのように現地を攻略するか、この違いは本当の意味で世界から有り難く思われる日本企業か、或いは「日本企業」を名乗る無国籍企業かを分けるポイントとなるだろう。

「NHKの受信料を払うなんて馬鹿げている」

今やNHKの存在意義すら疑われる状況であるから、そんな所にお金を払う意味など見出す方が無理かも知れない。

では、日本赤十字社や赤い羽根共同募金への寄付は惜しみなくできるだろうか。勿論、NHKと寄付は本来比べるものではない。しかし、NHKの受信料納付を惜しむ人は日赤や赤い羽根の寄付も同様に惜しんでいるのではないだろうか。

NHKの腐敗に抗議して受信料を止めたいと思う人と、自分がNHKを見ないから受信料を止めたいと考える人では、思考が全く異なる。前者は責任を果たすべきことを訴えているわけだが、これは自身が責任を自覚してなければできない。後者は部分最適である。もっとも、NHKの体質がずっと変わらないなら後者に転じてしまうわけだが。

本当にNHKに対して抗議する人であれば、受信料以外の支出にはっきりと現れる。何らかの方法で、何らかの団体に寄付をしていたり、或いは他者をもてなすためにお金を使っている。こうした人は他者のためにお金を使うことを犠牲とは捉えない。

 

今回の記事では受信料の在り方は本題ではない。あくまで支払う立場である私たち国民の在り方が本題である。

お金を使うことに抵抗のない人もいれば、逆に他者のためにお金を使うことに抵抗する人も存在する。前者は何も浪費家とは限らない。そもそも無駄が一切ないところに豊かさはないと言っても良いだろう。無駄の切り捨てが極端になると、美術や映画の鑑賞も無駄、美味しい料理を楽しむことも無駄、酷くなれば休むことも無駄ということになってしまう。これが偏っていることなど言うまでもない。本人の基準であれば無駄ではないから、他人の趣味や価値観を無駄だと判断すること自体が究極の無駄である。

他者に何かを与えることに抵抗を示す人を一般に「ケチ」という。他者に何もおごらない一方、貰い物は抵抗なく受け取り、他者の価値観を自分の定規で判断する人こそ、ケチの行いなのだ。

 

ケチと似て非なる概念は「倹約」である。倹約は節制の一種で、リソースを適切に運用することを言う。そして倹約家は自分のリソースをコントロールできる人であるから、ここがケチとの決定的な相違点だ。倹約は自立していないとできないことである。

一方、ケチは自分のリソースを使うことを自己犠牲と捉える。ケチにとってお金を使うことは自分の利権を犠牲にすることである。お金に限らず、他者を理解し尊重することも自分の存在意義を犠牲にする行為と捉え、対話や議論も自分のポジションを犠牲にする行為と見做す。つまりケチは単にお金を使いたがらないことではなく、依存心と欠乏マインドに支配されて他者に与えることに抵抗がある状態を指す。お金を使いたがらない理由もお金を自分の特権と捉えているからだ。

とんでもなく心が狭い人間であるため、お金や時間に限らず他者の価値観をジャッジしたり、相手が求めていない助言をするなど、自分の都合にしか関心がない。自己都合に囚われている状態こそケチの根幹である。

 

そして問題なのは、こうした状態の人が日本中にあふれていることだ。日本全体がまさにケチに冒されていると言っても過言ではないだろう。

 

 

不祥事に便乗した者たち

NHKの信頼失墜の引き金になった出来事は2004年の不祥事であろう。この年、職員が番組制作費を着服する問題が発覚した。

ご存知の通り、NHKの番組制作費は国民が払っている受信料を財源としている。着服することは受信料を不正に使われていることと同じだ。受信料を徴収するNHKが問題を起こしたのだから、そんな団体に対してお金を一方的に払わされることは納得できないと、受信料の支払いを拒む国民が相次いだ。2004年度だけで受信料納付の保留および拒否の件数は75万件に上った。

 

ところが、支払いを拒否する人の中には自分の損得勘定だけで動く者も少なからず混ざっていた。彼らは抗議しているのではなく、自分の出費を嫌って拒むに過ぎない。彼らにとって不祥事は自分の貪慾を誤魔化す好機であり、不祥事への抗議は口実に過ぎない。

NHKが不祥事を起こしたタイミングでは、リテラシーの欠如したNHKに対する抗議と主張すれば支払いの拒否もまかり通る状態であった。テイカーにとって他者の不祥事や欠点ほど漬け込みやすく美味しいものはない。彼らにとってNHKの不祥事は自分の邪な心を誤魔化し正当化する好機だった。漬け込めば受信料の支払いから逃れることができると考え、便乗してNHKの批判に合流した。

もっとも、責任を逃れるための批判であるから、一度蜜を味わった者は依存するようになる。と言っても何か事ある毎に抗議して支払いを拒むやり方を繰り返すと怪しまれることなど想像に難くない。すると彼らは、受信料を払わなくともテレビを安心して見られる方法を一生懸命に模索するようになった。NHKを見ていないから受信料を払う義務が生じない、ワンセグ端末だから「設置」ではないと言って必死に支払いを逃れるようになった。ワンセグについては別の問題も絡むけど、これらは必ずしもNHKに対する批判ではなく無責任が動機であることが多いのだ。

 

確かにNHKは金の亡者になっているし、理屈を並べて受信料の支払い義務があることを国民にこじつけていることは明らかだ。ネットやアプリで展開するNHK ONEの利用率は20%未満だし、ワンセグ端末を対象にした受信料徴収が司法の判断で認められたら今やテレビ付きのスマホは消滅。社会全体がNHKに「オワコン」の烙印を押している。

受信料の徴収を強化しようとしたNHKもまたケチであった。受信料の在り方が変わってほしくないと思っていたのだろうし、自分たちに対する批判を無視しておきながら「自分たちにできること」を訴求していたため、もはや国民のための機関ではなくなっていた。国民がNHKを見捨てた結果、BSプレミアムとラジオ第2は廃止を余儀なくされ、4Kと8Kも既に存在意義が怪しい。ケチの成れの果てをNHKが証明しているようだ。

 

一方、抗議の目的ではなく、支払いを逃れるために不祥事に便乗して受信料の支払いを拒んだ人たちは後述するように、実は他者や社会のためにお金を使うことに抵抗を示す。しかも彼らはそれらを「偽善」と切り捨て、マウントを取るのだ。

 

 

税金をケチる人は無責任

寄付を申告して所得税の還付を受けるというものなら問題ではない。本当に社会のために寄付するという人なら還付すら必要に思わないだろう。

寄付をしている人は必ずしも経済的に余裕があるわけではない。それでも寄付ができるのは、心が豊かである証なのだ。無理に寄付をして首が回らなくなってしまったら相手にとっても困り事になってしまうから、バランスは勿論大切である。

 

一方、心が狭く、欠乏感に支配される人は、他者に与えることを犠牲とか偽善であると思っている。

寄付を嫌がる人、或いは寄付を「偽善」と切り捨ててマウントを取る人は、そもそも税をケチる人が多い。彼らにとって納税額の多さは名誉などと思っていない。自分の財産を搾り取るシステムとしか捉えてなく、自分が稼いで社会に還元するという考えがそもそも欠落している。

「偽善」というのは自分が評価されることを期待して行う善である。善と悪の違いは紙一重であるけど、偽善は承認欲求に動機づけられている点で善と悪の両方とも決定的に異なる。他者の行う寄付を「偽善」と切り捨てるその行いこそ自分を相対的に良く見せる行いであるから承認欲求が動機である。しかも彼らは善の行いをしていないから、偽善者の足下にも及ばない。「偽善者」のレッテルを貼る行為はケチの悪足掻きでしかない。

 

ケチな人は自分の収入を自分の特権と認識していることが殆ど。税金も自分の特権を侵害するシステムとしか捉えていない。自分の稼いだお金だから自分の好きにさせろと言わんばかりで、社会のために稼いでいるとは考えないのだ。

収入を自分の特権と考えるケチな人たちは、哲学的に見れば愚の骨頂である。横取りが間違っていることは言うまでもない。彼らは自分が誰のために稼いでいるのか、自分の収入が誰のためにあるのか、根本的に履き違えているのだ。万物は自分の物とすることができなく、たまたま限られた分を与えられているに過ぎない。自分以外の人々にも利する使い方ができる人は、自分の財産が自分のためではなく人々を豊かにするために存在することを自覚しているからなのだ。

こんな話をすると共産主義国みたいだと思う人が必ずいる。しかし、収入を特権とする考えが蔓延る資本主義国は果たして豊かと言えるか。与えることに抵抗するテイカー社会は格差も露骨で、しかも略奪が後を絶たない。共産主義国は国家権力のトップダウンで共有を押し付けたから国民の欠乏感が変わらないままであり、豊かになっているとは言い難い状況だ。

 

税金をケチる行為の究極は脱税であるが、大抵の人は脱税をしているわけではない。所得控除は経済的な最低限の生活を営むためには必要でもあるから脱税と一緒にしてはいけない。しかし、税金を納めることを不快に思うことは「脱税が許されたら」と考えることと同義ではないか。

「税負担は損」ではなく「納税は名誉」と捉え直すこと。そうすると稼ぎを増やすことに幾分の意欲が芽生えるだろう。

 

 

「ふるさと納税」がケチを量産する

私はふるさと納税を利用したことはないし、しようとも思っていない。この話を聞いて「お前はケチだなぁ」と思ったなら、そんな貴方は寄付を「偽善」と切り捨ててマウントを取る奴らと寸分も変わらない。

マウントを取る人たちは、国境なき医師団やセーブ・ザ・チルドレンなどの団体に毎月一定額の寄付をしているだろうか。しかも、それを4団体か5団体に毎月寄付することはできるか。おそらく答えは「No」であるはずだ。彼らは他者に与えることを自分の取り分が持って行かれる気分で見ているからだ。

 

ふるさと納税を始める動機は地方を支援することにあると思われがちだ。勿論、支援のために寄付することは立派であるが、その場合でも国境なき医師団などの団体と同様に返礼の存在しない寄付でも良いはずだ。ふるさと納税を始める真の動機は地方支援ではなく返礼品にあるのではないだろうか。

私が思うに、ふるさと納税の返礼は本質的に「賄賂」と変わらない。そのため、ふるさと納税は納税でも寄付でもなく「贈収賄」であると捉えている。返礼を目的にお金を差し出す行為からは下心が見え透いているし、返礼品を送る生産者たちにも負担がのしかかっている。勿論、返礼品をきっかけに売り上げが伸びることもあるけど、それに依存している状態では商売としては末期ではないか。

そしてふるさと納税が国民に植え付けた意識は、見返りがなければ何も与えないというケチの思考である。そう、ふるさと納税は大量のケチを生み出すシステムと化してしまったのだ。

 

ケチな人たちを囲い込もうと地方自治体が躍起になった結果は何か、それは過剰な競争と地域間格差である。ふるさと納税で潤う地方がある一方、受け付けた寄付より住民による他地方の寄付が上回って赤字になる地方もあるという有様。そして地方の「ブランド力」、返礼品の魅力にも左右され、地方間で不毛な競争が起きてしまった。

ケチな人は自分で魅力を見出すことがない。ブランドの知名度、口コミやメディアなど外部の情報に頼るため、自分の知らないものに対しては無関心である。そのため、自分の知っている地方、イメージの良さそうな地方に飛びつき、そうでない地方は一切興味を持たない。

このタイプのケチは、着ている服、百貨店やイオンモールでの買い物を見ればだいたい分かる。誰もが知っている有名ブランドの服しか着なく、それでもダサく見える。店では決まった売場だけを見て、自分の見たい物以外はスルー。物産展でも広告の品以外は全く見向きもしない。その結果、視野が狭くなり、話題を広げることのできないつまらない人間になる。

知っているブランドや特産も、閉店や後継者不在などにより消滅することは珍しくない。視野の狭いケチは自分の知るブランドや特産が絶えると取り残されたり興味を失せたりする。新しい発見をせず、知らないものに対して拒絶的であるから、老害化しやすい。

このようなケチがふるさと納税を利用し、もし自分の知る気に入った特産が消滅してしまったら何をするか。「何の魅力もない地域」と考えて寄付をしなくなる。ケチな人は自分の得にならないと思った途端、相手を魅力のない存在と切り捨てるのだ。彼らにとって他者の魅力は自分の利得になるかどうかである。

 

ケチな人の親切は条件付き。見返りという条件がなければケチは他者に親切を一切しない。彼らこそ偽善者であり、ふるさと納税のシステムは大量の偽善者を生み出してしまったのだ。

返礼品という名の見返りにケチがわらわらと集り、汚れた金が地方に集まった結果、返礼品を巡って地方が疲弊する。ふるさと納税がもたらした混乱は全てケチな人間が汚した金の災いと言えよう。

 

 

ケチは政治と金の問題にも無関心

度重なる裏金問題に対して今の高市政権は完全に無頓着である。高市政権に限らず自民党のタカ派は意見の異なる人たち(野党など)と話し合うことを避けようとする。異なる立場を尊重しない人こそケチの真骨頂。

ケチというのは何もお金や財産を独り占めしようとする卑しい心の持ち主という意味ではない。自分たちの利権にしがみつき、他者を尊重せず、我が物顔で振る舞う人たちは全てケチである。数の暴力で国会を支配することもケチの行いだ。比例の定数削減で野党を蚊帳の外に追い払う目論見もまたケチの行いである。自民党と維新の会の連立政権が行っている党利党略は、端から見ればケチな人間の醜態でしかない。

裏金を作る政治家は税金をケチるため、基本的に無責任である。裏金を隠し通すための弁明も当然ながらケチの行い。贈収賄もケチで、見返りが当たり前の企業献金もケチの象徴であり、これらは返礼品目当てのふるさと納税と本質的に変わらない。ケチな人間が関与する金は基本的に汚れている。

 

「政治と金の問題なんて議論している場合じゃないでしょ」と言っている有権者やコメンテーターがよく見られるけど、彼らもまたケチである。問題を見て見ぬふりをする彼らの行いは話し合いを避けようとする権力者と何一つ変わらない。対話をしようとしない人、問題を見て見ぬふりをする人たちの心は総じて狭い。心の狭い人は基本的にケチ。見返りがあって当たり前、見返りを求めて何が悪いと、返礼を欲しがったり裏金問題から目を背けたりする人は全て同根なのだ。

見返り目当ての寄付が汚職であるという倫理からなぜ人々は目を逸らすのか、答えは単純で、自分たちの道徳を否定されているからだ。お返しがあって当たり前とか、何らかの得を目論んで他者に金品を与えたりしてきた人たちである。そんな自分と重なることが納得できないから「政治と金の問題はどうでもいい」などと一蹴して問題を矮小化する。汚職を「どうでもいい問題」と片付けようとするのは自分たちのケチな行いを正当化する慢心があるからだ。

 

裏金問題に無関心なケチはバラマキにも無頓着だ。金がもらえればそれで良いと、政府が上辺だけの景気のためにばら撒く給付金にも貪るように飛びつく。ケチな人間たちは自分の懐を肥やすことしか考えていないけど、お金を増やす力が伴っていないため、誰かから恵んでもらうことでしか自分の欲を満たすことができない。政府の景気対策はケチの怠慢を助長させるだけであり、結局は長期的な問題解決に繋がらない。

受け取ることに何の抵抗もない連中であるから、バラマキが税金の適切な使い方かどうかなど興味を持たない。むしろ自分が払っているから自分のために使われるべきだと思っているかも知れない。巡り巡って自分に返って来ることだけは確かだとしても、自分の懐が肥えるかだけが判断基準であり、返礼目当てのふるさと納税や、税金をケチる行為や、不祥事に便乗してNHKの受信料を踏み倒す連中と中身は一緒である。タダ乗りと見返りを当然視している人たちから見れば、税金のバラマキは絶好のチャンスくらいにしか見えないのだ。

 

ちなみに、私が支持している日本共産党は企業の献金を一切受け取っていない。見返りを求めない個人からの寄付だけを受け付けるため、ケチな人間は集まらない。

おそらく共産党の支持者にもケチな人間は殆どいないのではないだろうか。共産党を支持する私にマウントを取る人たちもケチばかりだったので、共産党に対してアレルギーみたいなものを持っている人たちは心が狭く市場価値の低い連中ばかりなのだろうとも思えてくる。

日本に於いて2010年から2016年頃の音楽は本当に悲惨なものだった。マスメディアに於いてはアイドルグループばかりが名を連ね、「本物の音楽」を求めるリスナーが一斉に流出した。この時代を「J-Pop暗黒時代」と言ったりする。

私は当時、日本の音楽にうんざりしていた。聴いていた音楽の9割は洋楽であり、この頃にアリアナ・グランデさんなど現代のアメリカ音楽を牽引するアーティストを聴いていた。遅くともコロナ禍までは洋楽中心だった。「夜に駆ける」(YOASOBI)を聴いてJ-Popに回帰したわけだが、それまでの日本の音楽は本当に目も当てられない有様だ。ONE OK ROCKや米津玄師さんなどの活躍があったことが日本の音楽の救いである。

 

AKB48や坂道シリーズなどの巨大アイドルグループに侵食されていた状態。それと同じ事が現在お隣の韓国でも起きており、その反動が生じている。

K-Popグループの独擅場と化した韓国の音楽市場は、日本のアイドルグループと違って世界中で売れ行きを伸ばしてきた。しかし今、その反動が起きている。売り上げがそうだったから、アイドル一辺倒に対する反動も日本のアイドルより大きい。韓国では自国のリスナーが流出し、そして世界各国でも同時多発的にリスナーが離れてしまっているのだ。

先日もBTSの大規模な公演が行われ、超満員の観客が集まっていたようだが、そのBTSも世界ではリスナーが大量に流出している。世界中からファンが押し寄せているためあれだけの超満員になっているわけだが、世界市場を見渡せばかつての勢いはない。

 

K-Popからリスナーが流出するようになった背景には、ファンに経済的な無理を強いる集金システムやビジネスモデルがあった。AKB48の時と同様に「バルク買い」と呼ばれるCDやトレカなどの大量購入を押し付けていたため、後にCDやトレカの大量廃棄が社会問題になった。アプリを通じた疑似恋愛でマネタイズ(収益化)していたため、こちらもファンが経済的な無理を強いられるという問題が生じていた。自己破産したファンがいる可能性も疑われる。

日本のアイドルグループの例も異常であったが、K-Popの場合は日本のAKB48とそのフランチャイズ以上にマネタイズに対する執着が際立っていた。そもそも音楽は2010年代の時点で「金儲けのためだけの音楽」という印象であったし、実際の戦略もマネタイズ一辺倒。

以前、NiziUのデビュー曲「Make You Happy」を聴いていたことがあったけど、歌詞を読むと「人間味がなく大した意味を持たない歌」だと感じた。その後に「夜に駆ける」に出会ったことで「Make You Happy」が一気に陳腐に思えてくるようになった。NiziUは日本のグループであるがK-Popの戦略のまま展開するため、K-Popの強さも共通すれば弊害も共通する。

日本のビルボードチャートを見ると一目瞭然で、K-Popはヒットが長続きしない。続いてもBTSの「バター」(チャート1位通算4週)だけである。このデータが示すことは、K-Popはノリやすいが飽きられやすいことだ。そしてこの点こそ、現在のK-Pop業界に深刻な影を落とす。

 

 

「コライト制」の不自由さ

K-Popの問題点を論うことより、先ずはK-Popの強さに注目したい。

この業界の最大の強みはテクノロジーの運用である。とりわけ「売れる音楽」の設計にはテクノロジーを必要としていたし、制作にも当然ながらテクノロジーを総動員している。そのため、クリエイターはテクノロジーに強い人が選ばれるのだ。

異なるジャンルの融合を特徴とするのは「売れる音楽」を設計していることが主な要因だ。予想外の展開が生まれるため、リスナーに驚きを与えることができる。どのジャンルを融合すれば人々がノリやすい音楽になるのか、これをテクノロジーを用いて設計する。世界中を席巻したK-Popはテクノロジーが出した最適解が見事に的中した結果である。

 

異なるジャンルを融合した音楽を作るには、それぞれのジャンルを得意とするクリエイターをそれぞれ必要とする。これが制作現場で「コライト(co-writht)」と呼ばれる分業制を徹底する理由である。同じ曲でもパート毎に作業が割り振られるシステムで、複数のクリエイターが作ったパートを繋ぎ合わせて一つの曲が完成する。洋楽の制作チームともシステムは異なるし、作詞と作曲が分かれるだけのことが多い日本の音楽とは明らかに異質である。

制作チームに入っているクリエイターはというと、各ジャンルのスペシャリストと言うべき人物がとても多い。日本のDECO*27さんのように一人であらゆるジャンルの音楽を書き上げるクリエイターはK-Popにはほぼいない。幅広いジャンルを融合する作品で、それも「完璧な作品」に仕上げるためには、幅広いジャンルのスペシャリストが一堂に会するチームでなければいけない。これがK-Popの制作体制だ。

 

ところが、このコライトというシステムはクリエイターのモチベーションにネガティブな影響をもたらす。クリエイターが作る音楽は曲のパーツでしかなく、1曲丸ごと制作しているわけではない。そのため、1クリエイターの創造性を曲に100%反映させることは不可能である。

一方、インディーの世界ではクリエイターが思いのまま音楽を書くことができる。K-Popの世界では創る音楽を企業から指示され、締め切りに追われるという状態であるが、インディーではそれがないため、K-Popのクリエイターがオアシスとして入り込むのだ。

TAK(タク)さんもその一人で、この方はK-Popのプロデューサーを務める方だが、2024年8月にボカロ曲「mochimochi」を発表してボカロデビューを果たした。「mochimochi」ではK-Popの業界で表現しきれない創造性を100%形にしていた。K-Popの業界ではTAKさんのように、自分の作りたい表現をほぼ100%形にできるという理由でクリエイターが飛び出してボカロに入り込む。すると、コライトでは他のクリエイターと同化して埋もれていた才能が開花し、クリエイターとしての自我を発揮するようになる。

 

面白いことに、日本国外のクリエイターがリリースするボカロ曲は総じてJ-Pop色が強くなっている。これはボカロがJ-Pop由来であることも一因にあるけど、洋楽やK-Popがビート(拍数)を重んじ、少ない音数と同じコードのループが主流になっているため、クリエイターはそれに飽き足らなくなって複雑な構造と目まぐるしい展開を取り入れてJ-Pop化するのだ。

 

 

テクノロジーの運用には強いが

洋楽業界(主にアメリカ)は最新のテクノロジーに対して拒絶的であるため、これまでの歴史では新しいテクノロジーを敵視した巨匠が、そのテクノロジーを使い倒した「持たざる者」によって淘汰されるという変化を繰り返してきた。

その歴史は古く、トーマス・エジソンの時代まで遡る。蓄音機に代表される録音技術が誕生すると、レコードを敵視して劇場に籠もった音楽家は影を潜めた。シンセサイザーを敵視した欧米のロックの巨匠も電子音楽に主役を奪われ、今ではロックが20年近く低迷するに至る。音楽以外でも、ネット動画(YouTubeなど)を軽蔑したテレビ業界と映画業界、日本車を敵視したアメリカの自動車業界など、テクノロジーを敵視して斜陽化した勢力は枚挙に暇がない。

 

K-Popの業界は最新のテクノロジーを取り入れて駆使するため、洋楽の業界に比べてもテクノロジーによる崩壊には強いとされる。AIも積極的に導入するため、AIの台頭に怯える洋楽業界とはほぼ真逆だ。

AIが得意とする音楽は主に洋楽で、K-Popは普通くらい。これは洋楽のデータが圧倒的に多いことに由来する。洋楽は量産しやすいため、機械的に生成された作品が大量に出回ると洋楽業界が傾く。一方、K-Popは歴史が浅いためデータが少ない。K-Popの場合は異なるジャンルの融合に長けているため、むしろAIを使い倒すことができる。実際、K-Popは欧米のジャンルをミックスして作られるため、AIが学習している洋楽データはK-Popを作るための素材として機能する。

ちなみに、AIはJ-Pop(特にボカロの特徴を有するもの)を極めて苦手とする。J-Popはデータこそ豊富だが、構造の複雑さ、目まぐるしい展開、詰め込み型の歌詞、「詫び寂び」に代表される微妙なニュアンスを理解しづらい。このため、AIでJ-Popを生成しようとすると処理が追いつかずデータが破綻するそうだ。

 

K-Popの強さを作り出す可能性を秘めるAIだが、実はAIによる音楽制作には重大なリスクが存在する。それはクリエイターの創造力を停滞または退化させるリスクである。AIなどのテクノロジーの運用に強いK-Popも、クリエイターの創造力が低下した場合に業界の斜陽化が一気に表面化する。

創造力の低下を招くリスクは洋楽とK-Popに強く見られ、J-Popではそのようなリスクが低い模様だ。これは先述したAIでの難易度が大きく関係し、生成しやすく再現度も高いジャンルほどAIの副作用が増大する。生成しやすい反動によりクリエイター自身の思考で音楽を作ることがなくなってしまい、システムを操作するだけの作業員と化してしまう。するとAIが出した最適解だけを受け売りするため、音楽が一気に凡庸化してしまう。

K-Pop業界はテクノロジーの運用には強いが、テクノロジーに依存してクリエイターの創造性が低下した場合、制作に携わる人々はAIが生成したデータを受け売りするだけになってしまう。すると実験的な音楽の消滅、更にはクリエイターの感性の退化など、音楽としては死んだも同然の状況が生まれるのだ。

洋楽業界はそもそもAIを敵視し、運用することさえ拒むため、AIの台頭を前に為す術がない。これでは創造性以前の問題である。

 

どんなにテクノロジーの運用に強くとも、その強さを引き出すのは人間の能力である。適切にコントロールしない勢力にテクノロジーが渡れば凶器になってしまうことも同根だ。

AIの音楽はあくまで人間の創造性を土台に据えて作られるものである。AIはデータの抽出、要約、平均化を得意としているのであって、言ってしまえば「誰かが出した答えをなぞっている」に過ぎない。そこに依存してしまうと自分の頭で考える習慣がなくなってしまうため、思考停止人間の量産、そして創造性の低下に繋がる。

 

 

「日本を超えろ」という闘志の代償

つい最近まで日本に対抗するように成長を遂げたK-Pop。日本に対する敵対心は実際に駆動力として働いていた。

韓国で日本の音楽が聴けるようになったのはここ四半世紀のことである。1998年以前は日本の音楽が禁止されていたため、当時の殆どの国民はリアルタイムで日本の音楽を聴いていない。解禁後もマスメディアには日本の音楽に対する拒絶反応があり、令和初頭までそれが残った。

K-Popはその間に急成長を遂げたジャンルである。日本の音楽に侵食されることを恐れ、そして日本を包囲して世界を圧倒することを目指していたため、最初から欧米基準に合わせて制作していた。その結果、欧米を中心に世界の音楽市場で日本の音楽を蚊帳の外に追い出すほどの勢いでヒットした。

 

ところが、その勢いは2020年代に急速に落ち込んだ。K-Popの作品が凡庸化したことでリスナーが流出したためだ。しかもK-Popだけではなく、手本としていた欧米の音楽でも凡庸化が起きてしまったため、世界の音楽市場で同時多発的に狂いが生じたのだ。

この頃に起きた音楽市場の異常さは、日本の「J-Pop暗黒時代」の例よりも酷い。CDの大量購入を押し付ける戦略、YouTubeやSpotifyの24時間ループ再生(ミュートしながら)などにより音楽のチャートが狂い出した。日本の「暗黒時代」と違って音楽の凡庸化が加わるため、音楽ジャンルの陳腐化も起きてしまったのだ。

リスナーが流出する事態も起き始めた。どの曲も同じような仕上がりで、国内のメディアもアイドルグループばかりであるため、インディーズやR&B、そして日本のボカロにリスナーが移動し始め、韓国国内の音楽市場の空洞化が起きた。それはかつて日本の音楽市場が経験した「J-Pop暗黒時代」と全く同じ構造である。

日本を超えろと世界市場だけを意識した戦略が、皮肉にも日本で起きた「暗黒時代」と同じメカニズムで逆回転を起こしてしまったのだ。表面的な影響力で差を付ける戦術が裏目に出て、日本を超えるはずが同じ道を辿るという屈辱を味わうことになった。

あろう事か、K-Popが手本とし、マーケットでも重視していた欧米でも同時進行で音楽の凡庸化が起きていた。特にアメリカではK-Popに見られる少ない音数とコード進行の単純化だけでなく、音色の多様性が急速に失われているという現象も起きている。特に女性アーティストの声の均一化が極めて顕著だ。この傾向が加速し、現在ではアメリカのリスナーが最新のポップスを聴かなくなり、同じ傾向を有するK-Popには流れず、古い音楽、カントリーミュージック、ラテン音楽、そして一部は日本のボカロへとリスナーが流出した。

 

決定打となった出来事は2023年に「アイドル」(YOASOBI)が世界的なバイラルになったことであった。それまでK-Popが反面教師としていたJ-Popがグローバルチャートを席巻し、自国のアイドルまで巻き込むミームに発展し、二次創作の宣伝部隊化も相まって巨大なバイラルとなった。ボカロに準じた戦略が世界の奥まで音楽を届けたのだ。

パターン化の進んだK-Popに飽きたリスナーが「アイドル」に飛びついたのは、曲が圧倒的に複雑な構造でダイナミックだったからである。そして圧倒的なエネルギーを誇っており、ノリの良さだけを追求したK-Popとはアプローチも全く異なっていた。これらの要素はK-Popだけでなく洋楽でも衰微していたため、ダイナミックな音楽に飢えていたリスナーが一気に駆け込んできた。こうして世界中でバイラルとなったのだ。

米韓音楽の凡庸化によるリスナーの流出と「アイドル」のバイラルをきっかけに、それまで日本を「宿敵」に位置づけていたK-Pop業界は方針を転換。日本の音楽事情を積極的に学び入れないと地盤沈下を起こしてしまう状態になっていると気づき、敵対から融合へと舵を切った。

かつて自国を統治支配していた国を超えて見返してやろうと、韓国はこれまで量の追求を続けていた。量で日本を凌駕すれば優位になれると信じていた。しかし、日本が質の追求にシフトしていたことには気付けず、結果として空回りを起こしたのだ。

 

 

韓国が「ボカロ文化」を必要としている理由

VOCALOIDが世界規模で拡散した要因は、クリエイターと二次創作者のWin-Winが成立しているからである。これはUTAU、CeVIO、Synthesizer V(SV)、NEUTRINOでも変わらない。著作権(および著作隣接権)でガチガチに固めず、二次創作を歓迎することでクリエイターに還元されるシステムが作られた。これが日本のボカロと二次創作文化の成長に繋がった。

逸材もこうしたコミュニティから発掘されてきた。プロがオーディションを実施する必要なんてなく、ネット上で勝手に行われているから、そこから見つければ良い。現在活躍する日本のアーティストはこうして発掘されたのだ。

 

日本の某テレビ番組でボカロを「オタクの熱狂的なお祭り騒ぎ」と一蹴していたとされるが、かつての韓国も同じ状況であった。近年になってようやくK-Popの業界もボカロの音楽性や「創作の連鎖」に着目するようになった。日本に遅れること16年。「アイドル」のヒットはボカロに対する認識、そしてK-Popの戦略を見直すきっかけとなった。現在では「世界で勝つための最先端のアイコンであり、ヒットの鉱山」として認識している。

それまで戦略の手本としていたのはアメリカのメジャーレーベルであった。そのアメリカが韓国と同じ状況に陥っていることから、アメリカ流の戦略がもはや通用しなくなっていることを突きつけられているのだ。パフォーマーを多国籍にして多様性をアピールしていたが、音色が多様でなければ多国籍でも埋没し、どれを聞いても違いがわからない凡庸な世界となってしまう。音楽の凡庸化とそれに伴うリスナーの流出はボカロ文化を評価し直す最大の契機である。ボカロのコミュニティでは凡庸化が起きてなく、商業作品にも劣らない拡散力が魅力であったし、何よりそのシステムを20年近く前から作り上げている。先を行き過ぎていると思えるほど先進的であったことは韓国でも衝撃であった。

 

ようやくボカロ文化というシステムに気づいたとはいえ、20年近く遅れているため、業界も手探りの状態だ。ボカロ文化の構造を完全には理解し切れていないのが現状である。業界が作り上げたプロの作品を拡散するという前提があるため、その前提がないボカロと二次創作の文化を自分たちの慣習に照らして認識しようとすると矛盾が生じる。

最近では二次創作を意識して「不完全さ」の要素を取り入れているが、「共創」というパラダイムであることと、アーティストのエゴを消すことで自由な創造を実現することは議論の俎上(そじょう)にもない状態だ。「なぜ創作の連鎖で成長したのか」という疑問には辿り着いていないのだ。この状態でボカロのシステムを体現しようとすれば「ボカロは二次創作とシナジーを起こしているのに、自分たちのポップスは二次創作の題目にも選ばれていない」という状態に及びかねない。日本では創作の連鎖が既に解明されているものの、韓国では研究途上なのだ。

 

韓国は日本より20年遅れて流行が訪れる。日本で流行ったものが時間差で韓国の流行になって世界中に拡散することが最近の傾向。流行はたまたま日本の方が早かっただけであったが、ボカロ文化は20年かけて進行していたため、一過性の流行ではなかった。一過性かつ時間差の流行であれば格差は存在しないが、進行する変革であったため、20年の分はそのまま格差となってしまったのだ。一朝一夕に変われるレベルではない。

そして既に定着してしまっているアメリカ流の戦略を短期間で転換することはやはり無理がある。20年分の遅れを1年以内で解決しようとすれば、市場自体が不安定になることは想像に難くない。韓国の音楽はパラダイムシフトを始めたばかりであるが、当分はボトムアップとトップダウンの摩擦という試練に見舞われるだろう。