8月31日は初音ミクの誕生日だ。初音ミクは平成19年(2007年)8月31日に発売され、今年で19年となる。

だが、8月31日はミクの他にも誕生日を迎える人物がいる。今回の記事で取り上げる歌い手、ななひらさんもその一人だ。

 

ななひらさんは古参の歌い手で、2008年にニコニコ動画でデビューしている。最大の武器であるロリ声を売りにし、現在では「歌ってみた」に留まらず電波ソングを中心としたオリジナル曲でも活躍している。また、ヴォーカルの音源を配布している方でもあり、UTAU用およびVOICEVOX(ボイスボックス。トークボイス専用)用のキャラクター「春歌ナナ」を公開している。

 

古参ではあるが、私がこの方を知ったのは2022年になってからであった。初めて聴いたカバーは「異常な音を出すガール」である。この曲は「初音ミクの消失」で知られるcosMo@暴走Pさんの作品だ。

 

 

cosMoさんの作品は人間が歌うことを全く考慮しない超高速歌唱がよく知られているが、この曲は高速ではなく近所迷惑になるほどの絶叫が特徴である。原曲は音街ウナという設定11歳のキャラクターによる歌唱であるため、ロリ声のヴォーカルとは相性が良い。

 

YouTubeではロリ声の歌い手がほぼブルーオーシャンであったみたいだが、ファンの層も限られるため、現状としてはニッチなタイプの歌い手である。

そして世界的に見ると、ななひらさんのようなタイプの歌い手は極端に少ない。ななひらさんは日本だからデビューできたキャラであると言えるのだ。これは日本と世界におけるロリ声の立ち位置が大きく関係する。ガラパゴス的な扱いであるロリ声のアーティストも、メインストリームから外れると世界中のニッチ層と繋がる強力な武器に変身するのだ。

 

 

中毒性の強いロリ声

デビューしたのは2008年10月、「ニコニコ動画流星娘」の「歌ってみた」を投稿してデビュー。この時から既にそのロリ声を武器にしていた。だが、最初に話題になった動画はお世辞でも健全とは言えないもので、しかも中毒性が強かったため、ロリっぽさが強調されたななひらさんの動画は「ななひらウィルス」とまで呼ばれる有様だった。

初期に話題になった動画は「歌ってみた」よりもネタ動画が中心。ニコ動で話題になった動画の一つが、2009年5月に投稿された「わらび餅の行商の売り声」のカバーであった。売り声のカバーは投稿されるや否や、素材としてMAD動画などのネタ動画に使われ、仕舞いにはわらび餅の行商が録音して売り声に使ったりもした。

 

YouTubeに参入したのは2015年で、最も古い動画は「リトライ☆ランデヴー」であった。

 

 

ロリ声というだけでなく早口でもある点も特徴的だ。ニコ動のみで活動していた初期は滑舌に少々難があった(わらび餅の行商の売り声などに見られる)が、電波ソングなどをカバーするようになった今日では早口の曲もカバーすることがある。

冒頭で取り上げた「異常な音を出すガール」と同じくcosMoさんの作品で「ダイジョブですか?」もその一つ。部分的に「消失」よりも早口になる箇所が存在する。

 

 

ニコニコ動画をはじめとしたコミュニティにはロリ声の歌い手が他にも存在するため、同じタイプの歌い手と共演もできてしまう。これが海外のコミュニティであったらほぼ不可能。先ずロリ声のミュージシャンがほぼいないからだ。そんな日本の二次創作文化における特権的なコラボであるロリ声同士の曲も、ななひらさんのチャンネルには沢山ある。近年ではVTuberのころねぽちさんとすずしろさんが多い。

ころねぽちさんとは近年最も多く共演しており、カバー曲では「メズマライザー」「クーネル・エンゲイザー」「ワールドイズマイン(CPK! Remix)」「君色マリンスノウ」などで共演。よく私は「クーネル・エンゲイザー」を聞いているが、両者の歌声は琴葉茜・葵が歌う原曲の世界観とマッチする。

 

 

オリジナル曲では「びっぐちーず!」「ぶっとばスーパーノヴァ」「LET’S TOAST!!」「ロールケーキくるっくる~り!」などで共演。「ロールケーキ...」の方は可愛さ全開といったところで、「ぶっとばスーパーノヴァ」はカオスなこと。ロリ声はカオスな曲でも埋もれないという強みがあるため、ななひらさんはしばしば暴走曲で人気になることもある。

 

 

 

さて、ななひらさんがいつもロリ声を武器にしているかというと、そうとも言いづらいだろう。最初期にカバーしていた「恐怖ガーデン」ではロリっぽさを抑えた「可愛い声」で歌った結果、ホラー感が増強されてしまった。ただし、ななひらさんがダークな音楽を歌うことは稀で、全体としては電波ソングや明るい曲が中心である。

電波ソングやアニソン(およびアニソン風)でない曲ではロリ声でないこともよくある。たとえば2026年6月にKirara Magicさんが発表した「Herb Tea」(ハーブティー)では、ななひらさんの歌声はロリというより純粋に綺麗な印象さえある。

 

 

nayutaさんと共演する「88☆彡」(まらしぃ。曲名は数字の読み通り)でもロリ声は抑え気味である。ただし、共演者であるnayutaさんはロリ声を売りにしていないため、ななひらさんがキャラを抑えても声の幼さが際立ってしまう。

 

 

アニメーションや一枚絵との相性が良いため、ななひらさんの声はDTMの世界で輝けると言えよう。

 

 

かめりあ × ななひら

ななひらさんのロリ声を生かしたオリジナル曲を数多く書き下ろした人物はボカロPのかめりあさんである。かめりあさんは「システマティック・ラヴ」などで有名なボカロPである。

先述の通り、ロリ声はカオスな音の中でも埋もれない強みがあるため、ななひらさんは電波ソングのヴォーカルに最適である。かめりあさんの書き下ろした電波ソングにななひらさんがよく起用されるのはそのためだ。

最初のコラボ曲は「早速ですがSHAKING PINKはインベーダーだったようです」(2012年11月)。YouTubeで最多の再生回数を誇る曲「ベースラインやってる?笑」もかめりあさんの提供であった。

 

 

「レンジで好吃☆電子調理器使用中華料理四千年歴史瞬間調理完了武闘的料理長☆」という長いタイトルもある。名前の通り中華料理をテーマにした曲であるが、八大中華料理も電子レンジがあればあっと言う間に完成という内容である。電波ソングともあれば中国料理の世界もカオスに映るだろう。

 

 

勿論、純粋に可愛い作品も送り出している。「わたしトリエチルシトレートレート」(2025年12月)は電波ソングのようなカオスな作品ではないため、可愛さだけを求めるリスナーにはお勧めだ。

 

 

 

Aiobahnの強力なコラボ相手

ななひらさんは2022年1月にAiobahnさんの「INTERNET OVERDOSE」をカバー、2023年3月に「INTERNET YAMERO」をカバーし、これらが作者の目に留まった。再生回数は100万回台で際立って多いわけではないが、ななひらさんのロリ声と電波ソングの相性が良いため、秀逸なカバーとして見出された。

 

 

ななひらさんは古参の歌い手であるものの、実はYouTubeのチャンネルには1000万再生を達成したコンテンツが一つもない。最も多く再生されている「ベースラインやってる?笑」でも395万回に留まる。しかし、Aiobahnさんとコラボした作品はそれを遥かに上回る再生回数を記録した。その作品は「天天天国地獄国」(P丸様。との共演)で、今日までに2650万回再生されている。「天天天国地獄国」は「INTERNET YAMERO」と同様にカバーの多い作品となった。

ちなみに「天天天国地獄国」はAiobahnさんが名義に+81を付加した際に公開した作品で、これ以降は日本のネット文化に結びつく作品で+81を付けるようになった。

 

 

 

なぜ日本ではロリ声の歌い手が人気になれるのか

ところで、従来より女性歌手の歌声は「大人らしさ」が重視されてきた。音楽作品も「大人の女性としての魅力」を引き出すことが良しとされたため、昭和時代の阿久悠さんや松本隆さんの作品もその前提で書かれている。

海外(特にアメリカ)ではその流れが昭和時代の日本以上に顕著。阿久悠さんや松本隆さんは古い男女観との対峙が駆動力であった一方、欧米では日本ほど男女観が分断していない。それでも女性の自由は意識として未熟なため、アリアナ・グランデさんのように「力強く自由な女性」を表現する歌手が支持される。

昭和時代の日本にしても、欧米のメインストリームにしても、ロリっぽい歌声は抵抗を示される。古い歌謡曲のは明らかに大人らしい声で、昭和のアニメもロリキャラこそ存在してもロリっぽいアニソンは殆どない。欧米では児童性愛を助長することを嫌忌し、メインストリームではロリっぽい歌声が昔から今に至るまで敬遠されている。

 

メインストリームでは表に出にくいロリ声のアーティストは平成以降に多く登場した。平成以降はロリまたはそれに近いキャラクターを主人公としたアニメ作品が増えたことから、ロリ声に対するハードルが徐々に下がっていった。

そして決定的な転機は2006年に登場したニコニコ動画である。ニコ動の歌い手としてデビューするアーティストはメインストリームの型にはまらないタイプの歌声や歌唱法を前面に出して人気を獲得する。ロリ声もメインストリームでは敬遠されやすい型であったが、ニコ動はアングラ(「アンダーグラウンド」の略)のコミュニティであったため癖の強い声質や歌唱法が人気を獲得しやすく、ロリ声の歌い手も人気になりやすい。ななひらさんはそうしたコミュニティから見出された。

英語圏では同じ文化からアニメ声の歌い手が見出された。「JubyPhonic」の名義で知られる声優のジュリエット・シモンズさんである。アニメと相性の良い声質は、日本ではななひらさんのような第一人者となる一方、英語圏では極希少なタイプとして唯一無二の存在になれるのだ。

勿論、日本でもメインストリームではなく絶対的な支持が高いわけではないため、ニッチな需要でも活動として成立するインターネットが中心となる。テレビなどのマスメディアでは視聴率などを意識するためニッチな情報を扱いにくく、コア層が中心となるロリ声の歌い手は取り合ってもらえないことが殆ど。日本のマスメディアではロリ声をタブー視しているわけではないが、需要の小ささが災いし、癖の強い歌い手が表舞台に上がる機会がほぼないのだ。

 

テレビが著しく斜陽化している令和時代、マスメディアがYOASOBIの出演を勝ち取ることに躍起になっているうちにネットでは多様性を開花し、癖の強い、尖った歌い手が圧倒的な人気を勝ち取っている。フォロワーが数十万でも世界中から集まっているため、同じ数のテレビが稼働していることとは意味が異なる。ニッチ層からカルト的な人気を集めて出来上がった数字なのだ。

日本のアニメが世界中で視聴されており、日本語のまま観ている人も少なくない。オープニングとエンディングの主題歌に至っては日本語のままであり、欧米のあらゆる主題歌に比べても声の幼さが際立つ歌声は諸外国にもそのまま届いている。特にアメリカは近年「声の多様性」が急速に失われていることから「誰の歌声を聞いても同じに聞こえる」という状態に陥り、ロリ声が構造的に極めて目立ちやすくなってしまった。

ネット時代にロリ声の歌い手がここまで活躍している裏では、テレビが斜陽化して王道を生み出せなくなり、声が画一になってしまったことで飢餓感が蔓延するという、メインストリームの逆回転が起きている。これこそロリ声が頭角を現わす土壌となっているのだ。

従来の音楽の常識とは全く異なるタイプの歌声ではあるが、日本で守られている「声の多様性」はななひらさんのようなロリ声のアーティストによって支えられてもいる。むしろ昭和歌謡の方が画一的なくらいだ。令和の今では「誰が歌っても同じ」ではなく「この人の歌声でなければ」というステータスがなければ成功しない。ななひらさんにはそれがある。

 

親から授かった声に「児童性愛の温床」のレッテルを貼られて排除されてきたロリ声の歌い手を、ボカロのコミュニティは受け入れた。彼らには「無駄な判断」がない。差別は無駄な判断が作り出すから、従来の常識は村社会の秩序と大差ない。

ボカロと歌い手のコミュニティが多様性溢れるのはジャンルや常識などの境界線が取り払われたからであり、そうした社会こそが真の「共同体」と言えるのだ。

高校に入学したばかりの頃、出会ったばかりの同級生から中学の部活動の話を聞いて驚愕してしまった。同級生の出身校では部活動の加入は強制だったというのだ。

 

「部活動の強制なんて、そんなばかげた話があるのかよ。」

そんなことを思っていたら、ラジオやネットのニュースで部活動の強制加入に異議を唱える学生がとても多く、学生から選択の自由を奪われていることが問題として取り上げられていた。加入を強制するという学校は同級生の出身校に限った話ではなく、日本全国に存在することだった。

放課後は本来、自由にできるはずである。帰宅してゴロゴロしていても本来は問題ないのだ(健全な過ごし方とは言いにくいけど)。

部活動の強制は、本来なら自由であるはずの放課後に学生を拘束することになる。「積極的に参加することが大事」と言いながら参加を強制するのは明らかに矛盾している。まるで会社の忘年会みたいだ。こんな無法がまかり通っているから忘年会などの飲み会を通じたアルハラが無くならないのだ。

しかも、本来なら部活動の加入自体が任意であり、学校は加入を強制する権限がないはず。部活動の加入を強制することは完全に越権行為であり、生徒の意思に反する加入であるなら学校に対する信頼を壊すことになる。

 

試しに部活動に参加し、気に入ったので加入したという人もいるけど、それはやりたいことが見つかったという意味あるからで問題ない。

しかし、学校の部活動には必ず選択肢が存在し、その中に自分のやりたいことがない場合だってある。本当にやりたいことが選択肢の中にないなら参加するだけで時間の無駄。部活動に参加したくないのは、その選択肢の中に自分の活路がないだけの話。

やりたいことは学校外でも可能なはず。校外で開かれる文化活動(書道や楽器演奏など)の教室、学校の部活動にはない種目の教室、ネット上での創作活動、学校ではできないようなディスカッションなど、校外での活動にも十分な活路が存在する。部活動の強制はそうした機会を奪う。

教育の一環である以上、部活動も本来なら生徒たちの主体性を育むために存在するはずだ。強制した瞬間、教育の最大の目標である主体性を破壊するため、部活動が毒になってしまう。

 

大人たちは目的があって部活動に加入させたがる。一体どんな目的があるのだろう。探っていくと、教育者として最も在ってはならない餓鬼の姿が浮かび上がる。

 

 

子どもの目標より大人の都合

中学校の部活動を見ると気づくことがあるかも知れない。生徒数の少ない地方の学校で部が少ないことは言うまでもないが、数少ない部の全てが運動部であるという学校ばかりであることに気づく。スポーツよりも、クリエイティブな活動に興味があるという学生も間違いなくいるわけだが、地方では文化部が全くない学校が珍しくない。

本来なら文化活動を希望する生徒の意思も尊重されるべきだが、学校の部活を見ると文化活動は殆ど切り捨てられている。部活動の中に文化活動がなく、スポーツにもさほど関心がない人にとって、文化部が存在しないことは校内での選択肢が奪われていることを意味する。やりたいことが選択肢の中にないなら何も選択せず「帰宅部」に属し、校外でやりたいことを実現することも可能である。勿論、何の活動にも興味を持てないという人もいるけど、その場合は精神的な問題が潜む場合もあるため無視してはいけない。

 

問題となるのは、学校内で自分のやりたいことが選択肢として用意されず、それでも部活動の加入を強制される場合である。こんなシチュエーションが存在したら、部活動の加入を強制することが如何に愚かであるかを理解できるはずだ。

 

ある生徒はスポーツではなく音楽をやりたく、琴、尺八、篠笛、三味線などの和楽器の演奏を学んで研鑽したいと考えた。しかし、その生徒が通う学校には音楽どころか文化部が一切なく、運動部しかない。しかもその学校では部活動の加入が強制だった。話を聞くと、学校にある運動部の殆どは土日祝日も基本的に練習で、余暇と呼べる時間も殆どない。本気で取り組みたいことが全くできないし、何より運動部の加入が意思に反していた。教員に相談しても困った顔をするだけで「加入は絶対だからとりあえず何か選んで」と返される始末。選べずに悩んでいる間はずっと圧力がかかり、仕方なくテニス部に加入した。しかし、加入後はテニスの腕前が上がらず、顧問や先輩に怒鳴られ続け、遂に精神的に破綻して不登校になってしまった。何をする気力も失い、元々目指していた和楽器の演奏にさえ意欲が湧かなくなり、後にその生徒はうつ病と診断された。

 

このシチュエーションを頭の中で思い描いたら、その生徒のことを不憫に思う筈だ。もし選択肢の中に音楽部などがあったら、もし部活が強制ではなかったら、この生徒は和楽器の奏者として腕を磨いて一流になれたかも知れない、そう感じただろう。

文化部があったらという話ではない。本人の意思に反して部活動を強制することが問題なのだ。相談を受けた教員の反応を見ると分かるけど、本人の意思よりも大人側の都合が優先されている。部活動の強制が問題になるのは、大人の都合で子どもの意思や目標が切り捨てられていることにある。

運動部しかない状態はそれだけでも生徒にとって選択肢が少ない状態であるし、何よりスポーツ以外の文化的な活動を目指している生徒にとっては居場所が奪われているに等しい状態。しかも、そんな状態で部活動の加入を強制されることは、目標を書き換えろと言われているような状態なのだ。子どもの目標を一顧だにしない大人の姿はもはや教育者ではなく、自治会に加入しない若者に不満を持つ村社会の長老と大差ない。

 

 

運動好きばかりが評価される歪み

生徒数の少ない学校ほど運動部しかなく、しかも種目まで少なく、それでも加入を強制するという狂気は何から来るのか。それは社会の歪んだ評価基準にあると言えよう。

 

文武両道で成績も優秀、そしてコミュ力もスキルも抜群、こんなタイプの学生を目の当たりにすると貴方も思わず賞賛してしまうだろう。運動能力も学力も高い人は多くの人が羨望するスペックを備えた完璧な人材として映るはずだ。

しかし、学力の高さやコミュ力がその人の内面ではないことと同様、運動能力が優れていることもまたその人の内面と結びついてはいない。部活動の場合は本来なら教育の一環であるため内面の育成も行われるはずだが、現実には人格の育成が疎かになっている部も珍しくない。実際、運動能力は高いけど他人をいじめたり平気で搾取する運動部員は後を絶たないし、顧問による体罰も依然として無くならない。

運動が好きで能力も高いという人は健康だという印象も持たれやすく、運動好きばかりが持て囃される風潮まで出来上がっている。だからこそ運動を好きになってもらいたいと生徒に部活動(運動部)に加入させたいと多くの大人は思っているのだが、実際に運動を好むか嫌うかは生徒次第である。強制的に参加させたら、喜びを感じるために不可欠な主体性を殺すことになり、運動を好むどころか、運動とそれを強制した大人たちに対して強い恨みを残すことになる。

 

半ば洗脳に近い方法で運動好きを増やそうとする大人たちも問題であるが、それだけではない。もう一つの問題は、そうした運動能力の高い文武両道の人材を「誰が」欲しがっているかである。教員たちが欲しがっているならそれは怠慢以外の何物でもない。

運動好きな文武両道の人は高校、大学、一般企業など、社会の広範な団体や組織が喉から手が出るほど欲しい人材なのだ。文武両道の人は忍耐力が強いため、一般企業では長期勤務や実績という形で貢献できることが期待されやすく、高校と大学ではそうした学生の活躍で自校の宣伝に繋がることを期待しているのだ。しかし、これらは教育目標や人材育成が疎かになっていることの裏返しでもあったりする。できる人を優先して採用したい(入学させたい)という考えは即戦力が必要な短期間労働者に限って有効であり、年単位での育成が必要な学校教育や正規雇用で用いるべきではないのだ。

では、即戦力のような形で文武両道の人材を欲しがるのはどこか。実はその殆どがブラック企業であると言われる。ブラック企業はどういうわけか部活動に加入していた人を採用したがる。何か好成績を残したかどうかは関係ないらしい。部活動に加入し、卒業まで継続できたかどうかが焦点である。採用したがる最たる理由は、忍耐力があると信じているから。自主的か強制的かに関わらず、部活動を継続できた人は耐え忍ぶことができ、途中で投げ出さないから、自分の会社でも離職せずに長期勤務が期待できると考えているのだ。

 

スポーツ精神が社会人になって役立つことは確かだが、実際にスポーツ精神が定着するかは教育次第。参加を強制され、且つその部活でいじめが放置されたり怒号が飛び交っているようであれば、ブラック企業と何も変わらない。 いじめや怒号がまかり通る部で頑張っても消耗するだけで力がつかない。

社会で活きるスポーツ精神は相手を尊重することであり、それは顧問と部員同士の尊敬によって養われる。同じことを継続して耐え忍ぶことも、いじめや怒号がまかり通る環境では必ず破綻を迎えるし、主体性が育たない関係でスポーツ精神が養われるわけがない。

 

 

部活動の問題はハラスメントと地続き

部活動を強制する高校も、実は企業に忖度しているのだ。中学の場合と同様、どの大学、どの企業でも通用すると信じているから。極端なことを言えばブラック企業でも通用する人材を育成するようなものだ。

この発想は「酒が飲めるようになれば上司に気に入られる」的であり、上の存在に媚びへつらう人の思考だ。実際、部活動の加入強制は「残業は当たり前」「タダ働きは美徳」などと恒常的な残業やサービス残業を正当化するブラック企業とよく似ている。

 

部活動の強制はブラック企業の問題に限らず、若者や移住者の間でトラブルを頻発させる自治会、そして子どもを搾取し続ける毒親などの問題とも地続きである。これらは全て、自由を奪い、人権を軽視しているという点で一致している。主体性を殺しているばかりか、上の人間に従うことが主体性を養うとまで豪語するような傲慢な振る舞いが目立ち、部活動の強制はそうした閉鎖的な共同体で起きる腐敗の一形態なのだ。

ブラック企業の問題は主に労働現場の腐敗。特に使用者のモラルや倫理意識の欠如に起因し、長時間過密労働やサービス残業、各種ハラスメント、賃金不払いや不当解雇などの形で表面化する。

自治会の問題は村社会の腐敗。住民の不当な束縛は主に長老の支配によって引き起こされる。加入を強制し、ルールに従わなかったり集会に出席しなかったりすればゴミ出しを禁止したりデマを流布するなどの村八分や因襲は完全に人権や法律を無視した反社会的な行為である。住民の監視やハラスメントや不法行為に及ぶ捕食型の自治会はもはや暴力団などの反社会的勢力と同等だ。

児童虐待など子どもの人格を徹底的に搾取する毒親問題は家族の腐敗。毒親は子どもの権利より親自身の保身にしか興味がない。

そして部活動の強制は教育現場の腐敗の一形態である。加入を拒んだり躊躇したりすると圧力をかけるというのは村社会の因襲と全く同じ構造だ。人格や人権という正しい原則を教えることを使命とする教育者が生徒の権利を蹂躙することは、教育者としての責任を放棄しているに等しい蛮行だ。

 

学問の自由は憲法によって無条件で保証されている権利である。交換条件的に与えられる自由ではない。部活動の強制加入は「部活動と引き換えに学問の自由を与えます」と言っているようなもの。無条件の保証を明記する憲法と相容れない。

高校の求める生徒の条件に「部活動に参加すること」を明記する学校も数多くあった。学びたいことがあるなら部活動の加入は条件であると言っているようなもの。「高校は義務教育ではない」「嫌なら他の学校を選べばよい」という話は極めて無責任であり、学問の自由を保障すべき教育者の態度ではない。

中学校で部活動を強制するのは、交換条件的に学問の自由を与える高校への忖度ではないだろうか。部活動を必須項目と認識させておけば、どの高校、どの大学でも通用するから有利になる。まさに目先の進路だけを優先した近視眼的な状態であり、正しい原則を教える立場としての体をなしていないと言えよう。

交換条件的な概念として権利を捉えている人たちの思考は基本的に村社会と毒親である。村の習わしに従えば住人として受け入れる、親に従えば家族として認めるという姿勢は、部活動の加入を求める高校や大学がそれを条件に学問を提供するという構造と全く同じ。これらはハラスメントに通ずる危険思想であり、基本的人権に対する冒涜である。

 

 

破綻したシステムに依存するという愚かさ

そして部活動の問題は、強制的に加入させてまで部活動の存続を図るという側面が存在する。

ところで、学校に部活があるのはなぜだろうか。仮にその理由が分かるとしても、学校の監督下に置く必要性を説明できるだろうか。チームは必ず学校内で作らなければいけないのだろうか。よくよく考えると、学校の監督下にこだわる理由は特にないことがわかる。学校内ではなく地域ごとのチームで十分だとも考える。同じことができるなら校内であれ校外であれ変わらない。

しかも一つの学校でチームが作れないなら、広域の同志で集まる方がチームを作りやすい。にも関わらず、学校の監督下でチームを作ることにこだわる。

 

この状態が学校単位のチームを維持することも困難な、少子高齢化が進む過疎地であれば、冗談抜きで共食いになる。

卒業後であったが、私の出身中学校ではサッカー部の廃部を巡って紛糾した。母校では男子の部活動が野球部、ソフトテニス部、そしてサッカー部だけで、しかもサッカー部は生徒数の減少から必要人数を確保できなくなっていた。地元には少年サッカーチームがあり、そこでスキルを磨いていた生徒も多いことから、サッカー部の廃部は彼らの経験を活かす場を失うことを意味していた。そのためサッカーをしていた生徒とそうでない生徒が衝突する事態となった。

生徒会の話し合いによりサッカー部は廃部が決まった。すると、男子の部活動は野球部とテニス部だけになる。母校では幸い部活動の加入は強制ではないため不本意な加入は避けられたが、サッカーをしていた生徒は行き場を失ったことから、他の種目(野球とテニスしかないが)に移るか、帰宅部か、あるいは校内で奉仕活動をするかを迫られた。その結果、元サッカー部員も含めて奉仕活動をする生徒が校内に溢れてしまった。

地域のサークルやチームではできることが、中学校や高校では出来なくなる。このギャップを目の当たりにすると、学校内の部活動の加入に拘泥することは果たして正しいのかと疑問に思うはずだ。

 

母校では強制加入こそなかったものの、過疎地の学校で必要人数を確保することすら困難な状況が見られる中で部活動の加入を強制していたら、確実に共食いが起きる。共食いでお互い部員を奪い合うような状態では、部活動はおろか学校の秩序さえも末期状態である。もし、必要な部員を確保するために生徒に部活動の加入を強制している学校があったなら、もはや狂気の沙汰。破綻して傾いているシステムを維持するために加入を迫ることは、移住者をおびき寄せて労働力として搾取する補色型の自治会と同じだ。

部活動を強制している学校に総じて言えることは、生徒を駒として扱っていることである。意思を持った一人の人間として扱っていないのだ。だからこそ日本の学校教育が歪む。学校だけの都合で生徒の尊厳を奪うことが許されて良いはずがない。

主体性が蔑ろにされている様は部活動の強制に限ったことではない。生徒の意見を抜きに教職員とPTAだけで校則が作られて「ブラック校則」が出来上がっていたり、教員によるハラスメントや体罰なども根っこは全て同じ。これらは全て大人たちの承認欲と支配欲が動機であり、それらの妨げになるという理由で法律、人権、人格主義などあらゆる原則に刃向かうことをルールとして押し付けているのだ。

 

 

部活に参加しても優秀とは限らない

ところで、部活動に励んでいた生徒を欲しがる人たちは、部活動を頑張っていたという理由だけでその人を評価しがちである。しかし、現実はそんな評価に値するようなものではない。勿論、部内でいじめや暴行をはたらいて追放(場合によっては退学)される場合は社会に出る前に評価を失うことになるが、素行が絡まなくても嫌々取り組んでいたなどの理由で、部活動で評価を得ても傾きかけている人はいるものだ。

部活動を頑張っていた人が評価されやすいのは、忍耐力が高いと思われているからだ。しかし、忍耐の末にメンタルを壊す人も現実には沢山いる。忍耐力は評価するものではなく、むしろ感謝するべきものである。感謝は相手の行為が「役に立った」と伝えるために行うコミュニケーションである。評価する動機は他者の力に依存しているからだ。

 

日本の村社会やブラック企業は人の忍耐力に過度に依存している。他者の忍耐力を当てにし、その支配者は物事を変える努力を全くしない。組織が何も良くならないか傾くと、今度は他者の忍耐力が足りないなどと責任を押し付ける。実際、ブラック企業の殆どは待遇も悪く人権侵害も放置し、労働者の忍耐力が限界を迎え、やがて労働者の破綻に至る。そして使用者は決まって労働者が甘えているとして責任転嫁に奔走する。

そもそも離職の多い原因は忍耐力の低さではなく待遇の悪さにある。忍耐力の高さを求める会社は労働者に責任を転嫁する会社と言えるわけで、典型的なブラック企業の姿である。


かつては猛烈な働き方で実際に所得は上がったし、年功序列のように同じ会社に長い年数勤務すれば昇給や昇進が約束されていた。それに適応するには、物事を投げ出さずに続け、耐え忍ぶことが必要だった。人と同じことを耐えながら続けるのは、年功序列の常識に適応するためであった。そうした基盤に適応できる人を育成しようと、中学、高校、そして大学も、部活動を(強引に)推進してきたのだ。

しかし時代は変わった。猛烈に働いても賃金は伸びないし、年功序列は次第に廃れ、評価基準も社内評価から市場価値に移った。これらに適応できなければ淘汰される運命にある。したがって、部活動を続けていたことでは今の時代が求める優秀な人材になれないのだ。

部活動を続けることは「人と同じ事を耐えながら続けること」である。しかし、主体的に取り組めないなら部活動に限らず何事に於いても「継続は力なり」とはならない。嫌々取り組むタスクを耐えながら続けても精神的に苦痛なだけだ。職場も自治会もその点は変わらない。

 

「やりたいことを極める」これでしか自己実現を達成できない。子どもたちの自己実現をサポートすることが学校の果たすべき責任ではないだろうか。これは社会全体の課題でもある。

限られた選択肢に拘泥しているのでは可能性を狭めるばかり。選択肢は無数の可能性を奪うために存在するようなものである。しかも、与えられた選択肢全てにおいて自分のやりたいことを見出せなければ、何もできなくなってしまう。

与えられた選択肢に自分の正解がなければ、選択肢にない答えを作ってもよい。ブラック企業や村社会が求める優秀という答えは選択肢の中にしか存在しないけど、狭い世界から外に出ると無限の正解が存在するし、村社会が押し付ける正解も逆転する。広い世界では部活動という「予め決められた正解」を選択しなかった人が逸材として発掘されるのだ。

用意された選択肢から選ぶことが正解ではない。何物にも縛られず主体的に決めることが正解である。部活動は主体的な決意に基づいてこそ有意義になる。部活動に入らずとも外の世界で自分の意思で取り組めるものがあったら、それがその人の正解なのだ。

暴君が国のトップになってしまうのは事実上の一党独裁体制や専制主義体制とは限らない。ご存知の通り、議会制民主主義を採用するアメリカ合衆国でも暴君が国家元首になってしまった。

国のトップに君臨する暴君も、専制主義国家と民主主義国家では中身にも違いが出てくる。専制主義国家の暴君と言えば北朝鮮の金正恩と、中国の習近平が有名だ。両者は猜疑心が非常に強く、公選で指名されたリーダーではないという点でも共通している。

一方、民主主義国家の暴君はタイプがやや異なる。ドナルド・トランプを見るとわかるけど、誇大で共感性が欠けているタイプの人間がとても多い。猜疑心も専制主義国家の暴君と違って自己愛憤怒(ふんぬ)の一種である。

 

専制主義の場合は人民の力でリーダーを変えることが絶望的であるが、民主主義はリーダーを指名する権利が人民にある。そのため人格の歪んだリーダーを指名から外すことも国民の意思によって可能であるものの、現実としてはトランプの事例が示す通り、明らかな人格異常者が選ばれてしまっている。

では、日本の権力者は人格異常者ではないから安心かというと、そうとは言い難い。パーソナリティ障害のレベルの異常が見られなくとも、人格の未熟な為政者は多いもの。

高市早苗首相や、自民党と連立を組む日本維新の会の幹部の動きを見ると、人格が安定している状態とは言えない。公約実現を必死に目指す姿は好印象を与えるかも知れないが、公約が国民のニーズにないものだったり、社会の調和を害するものであれば、そもそも実現させるべきではない。維新の会が目指す「大阪都構想」も国民のニーズに照らせば、優先順位もほぼ最下位。それを優先する維新の会はまさに仕事のできない連中なのだ。

 

歪んだリーダーシップは歪んだ原則から生まれる。これは専制政治でも民主政治でも変わらない。トランプといい、高市といい、そしてプーチンや金正恩や習近平といい、彼らの政治姿勢には例外なく原則と価値観の歪みが表れる。

リーダーとしての在り方、目指すべき社会調和の在り方、イデオロギーなど、リーダーシップを左右する原則と価値観は多岐にわたる。その中でもリーダーとしての在り方が歪むと、社会の目指すべき在り方に導くことができないばかりか肝心なリーダーが振り回されるという本末転倒の事態が起こる。

トランプとプーチンと習近平はその強大な権力から、一見すると人民が一方的に振り回されているように映るだろう。実際にプーチンと習近平は目標を明確にした上で行動しているから一見安定している。しかし、その目標が自国本位かつ権力者の承認欲求の塊であるため、普遍的な原則に相容れず様々な摩擦に発展する。トランプに至ってはオバマとバイデンを否定することが動機になっていたし、肥大した「覇権国家としての承認」を求めて衝突が起きる。

 

リーダーの在り方は殆ど明確になっていない。勿論、国民一人一人が明確に理解して拠り所にしていれば、荒くれ者や人格異常者がリーダーになる事態は回避できる。しかし残念ながら、表面的な魅力だけで人を評価する反応的な有権者が圧倒的に多いのが現実である。

 

 

国のトップの在り方は明確にしなければいけない

ところで、国民の求めるリーダーの在り方を説明できる人はいるだろうか。勿論、この聞き方ではストレートに答えることは難しいだろうけど、国のトップがこれに無関心でいると信頼できるリーダーにはなれない。

 

リーダーの在り方を疎かにした勢力として浮かぶのは、ここ数年の選挙でやりたい放題に振る舞った「新勢力」であった。この「新勢力」は近年存在感を増す参政党とは違い、倫理観やリーダーシップを一切放棄した餓鬼の集まりだ。具体的にはNHK党、つばさの党などがこれに該当する。

「新勢力」の特徴は綱領がないか、あっても好き勝手な言動を正当化するものである。正しい原則に基づく理念や目標ではないため、党の土台が安定していない。NHK党を見るとすぐ分かるけど、党名をコロコロと変えていたので、確固たる綱領のない政党は変わりやすく安定しないのだ。綱領自体が存在しないつばさの党は、そもそも政党の体を成してなく、政治団体というよりは社会運動等標榜ゴロという類いの反社会的勢力みたいであった。

政治団体と呼ぶに相応しくないこれらの「新勢力」は、自分達がリーダーになるという自覚がそもそも欠如している。ある意味ではトランプよりも知性に欠けており、賢明な有権者は集まらないのだ。「新勢力」の場合は国民がリーダーに求めるものに無関心で、リーダーに必要な5つの力(説明力、決断力、実行力、構想力、共感力)は全て欠如している。こんな人が政治家を標榜すること自体が既に狂気の沙汰。

 

本来なら国家のリーダーの在り方は法律で書かれることのないもの。しかし残念ながら、リーダーの在り方を自覚していないリーダーは多いものである。リーダーは大きな権限を任された立場ではあるが支配者ではない。支配者として振る舞ったリーダーはトランプ、プーチン、金正恩、習近平などの独裁者ばかりだ。

「新勢力」は独裁者に比べればショボい存在であるけど、責任の欠如で言えば独裁者のそれと変わらない。スケールが違うだけであって五十歩百歩である。自分自身をまともにコントロールしていない点では独裁者にも劣る。リーダーの在り方を明確にできていないだけで「新勢力」はあんな破廉恥な振る舞いに走るのだ。本来なら自分のミッション・ステートメントとして確立するべきリーダーの本質を置き去りにし、法で明文化されてなければ何も律しない、或いは明文化されても軽視するという有様では、社会をお立ち台としか思っていないことと同じである。

とはいえ、リーダーの在り方を明文化しないといけないような状態というのは世も末。「全体の奉仕者であって、一部の奉仕者ではない」(憲法第15条2項)とは確かに定められているけど、在るべき資質が詳らかに定められているわけではない。「新勢力」に至っては自分達が「全体の奉仕者」として選ばれようとしているという自覚すら欠如している。独裁者や人格異常者が選ばれてしまわないよう、公務員の地位とその在り方を明記した法は必要だと思う。

 

 

立候補者は適性検査にかけるべし

人格者と凡そ呼べない人たちがリーダーに、そして政治家に選ばれないようにする為には、有権者が賢く在るべきである。しかし、有権者の目が肥えても必ず限界がある。リーダーに相応しくないナルシシストほど有権者を言いくるめる能力に長けているためだ。特にパーソナリティ障害(一部の類型を除く)の特徴が見られる人物がリーダーになろうとすると、虚偽性や自己顕示欲、時には衝動的かつ攻撃的な振る舞いが問題になる。

 

事前の審査でリスクをある程度回避することができないかと考えた。立候補を届け出た人のパーソナリティを審査し、告示(公示)の前に落とす方法だ。

融資やクレジットカードの入会時には審査が存在している。これは対象者の返済能力を調べるもので、未払いや債務整理があると金融機関の損失に直結するため、返済能力に欠けている人への融資を未然に防いで損失を食い止めるのだ。政治家に立候補する人も、融資の時と同様に専門機関などで審査するべきではないかと思う。

リーダーに選ばれたいと思っている人を審査する場合、最も有効な方法は適性検査である。現在の公職選挙では立候補者の適性検査は行われていない。これは思想の自由(憲法第19条)、言論の自由(憲法第21条)を侵害する恐れがあるとされてきたからである。しかし、実態としては認知の歪みに起因する思想と言論の偏りを助長してしまい、トランプのような荒くれ者や「新勢力」のようなゴロツキの立候補を許す形になってしまった。

もっとも、権利は濫用してはいけないものである。「新勢力」みたいに、他の政治家に対する人権侵害を「言論の自由」と正当化することは権利の濫用に他ならない。そもそも権利は社会の調和のために行使されるべきであり、他者を蹂躙して自己を優位に立たせることは社会の調和に逆行する絶対悪であることをよく理解せねばならない。

 

ライスケールなど虚偽性を調べる適性検査で対象者を検査すると、雄弁で整った外見など好印象を与える特徴の人物ばかりが次々と検査に引っ掛かる。私たち有権者が理想として思い描くリーダー像に合致する候補者はほぼ残らない。なぜ雄弁で整った人物が候補から次々と落とされるかというと、私たちが好印象を持つ特徴の殆どがサイコパスの特徴だからだ。

サイコパスは先天的に共感性や良心の呵責が欠如した類型で、彼らは外見、スキル、コミュ力、その他表面的なテクニックを駆使して他者や社会を欺く。彼らの提示する構想やビジョンは一見すると魅力的であるが、実際には搾取的な振る舞いをカモフラージュするための誇張された表現であったり、提示したビジョンと実際の行動が矛盾している例も珍しくない。このようなタイプのリーダーや実力者を、私たちは散々見てきたはず。国民から選ばれてしまう前に、いや、そもそも候補に挙がる前に、サイコパスは国政から排除されなくてはいけないだろう。

しかし、実際には適性検査が国家権力の恣意によって歪められてしまうリスクも存在するため、完全に公正な適性検査を実現するのは至難の業でもある。国際的な共通規格があれば良いのだが、パーソナリティの歪んだリーダーが阻んでいることからその実現さえも困難なのだ。

 

 

思想の自由も濫用は許されない

自由だから何をやっても許されると考えるなら、その考えこそ自由に対する冒涜である。

自由という概念は本来、何物にも束縛されず自分の意思で自分をコントロールできることを意味する。「新勢力」は欲望と感情に支配され、自分をコントロールする力を欲求と感情に丸投げしているから、自由と無縁な在り方なのだ。トランプは歪んだ自己愛と特権意識、他を従属させることに対する執念など、自分ではなく他者をコントロールすることに全力だ。これらは依存であり、自由の本質である自律を放棄した者の姿なのだ。

 

自由度に基づいて人間を大別すると、自由人、常識人、野蛮人の3種類に分かれる。「新勢力」はこの3種類の中で野蛮人に分類される。世界の歴史を動かした人たちを見ると、哲学者などの思想家は自由人であるが、スターリンに代表される独裁者は野蛮人である。

自由人、常識人、野蛮人の3種類は何によって決まるかというと、自分が何によってコントロールされているかである。三流である野蛮人は欲求と感情に支配される者であり、本能にコントロールされていることがわかる。二流である常識人は文字通り常識に縛られた人のことだ。そして一流である自由人はというと、自分の意思だけではなく、人間の手では絶対に変えられない真理に従って自分をコントロールしている。コントロールできないものに対しては自分の態度をコントロールすること、これはまさに自分の心で自分をコントロールすることに他ならず、これが出来る人こそ既に本当のリーダーである。

「新勢力」が三流の野蛮人である理由は、本能というコントロールできるものに人生の主導権を明け渡しているからだ。特定の政治家に対するデマや誹謗中傷、威力を用いて演説を妨害する行為などは明らかに本能だけで生きる者の行いである。もっとも、三流の問題は危険信号がわかりやすいので、2024年の東京都知事選では選挙ポスターの段階で危険人物としてマークすることが可能だった。

信じられないレベルなのはトランプである。明らかに三流の振る舞いであるが、有権者はパフォーマンスくらいの感覚でしか見てなかった。エンターテインメントであればトランプくらいの狂気でもパフォーマンスの範疇として片付くが、それを選挙に持ち込んだことが全ての誤りである。狂気なほど破天荒な人間で面白そうな奴だからこいつが大統領であるべきだ、と考えた人たちが群がり、トランプが大統領になってしまった。自由の国であるはずのアメリカが本来の自由を忘れてしまい、野蛮人と大差ない本能本位の社会風潮が出来上がってしまったことに端を発する。

 

野蛮人は本能本位の振る舞いを「自由」の名を借りて正当化する。しかしそれは権利の濫用に他ならない。自由という名の権利を責任転嫁の道具にすることは自由権の濫用なのだ。

権利は人間を存在のレベルで認め、社会と調和するために使われるものである。そこから外れた途端、権利は行使ではなく濫用になる。本能のまま振る舞う野蛮人の行いは社会との調和に反することであり、それを正当化することは権利の濫用だ。

「アメリカ第一主義」や移民排斥は間違いなく社会の調和を破壊する野蛮な行いだ。トランプを妄信する支持者は異分子を排斥するという村社会的な特徴があり、「身内の論理」が守られる状態を「社会の調和」と認識する。この歪みこそが現在のアメリカ社会の混乱を招き、世界からの孤立へと直結する。権利の濫用は孤立化と村社会化の始まりでもある。

「新勢力」の振る舞いも所詮は狭い村の因習を外の世界で大々的に行っているようなもの。存在意義を失っている自治会よりも無様で、「つばさの党」というより「つばさの村」、「NHK党」というより「NHK村」という表現が相応しい。自治会のルールは権利の濫用、越権、中には違法な決まり(加入の強制など)もあり、法律を無視した野蛮な行いもルールとして絶対視する。「新勢力」がそれと同じ状態なので、彼らは法治国家のリーダーに名乗りを上げる資格はない。

 

 

なぜ共産党の委員長は選挙で指名しないのか

民主主義の国だから代表者は選挙で指名することが当たり前と思われている。それは自民党総裁や各党の党首も同じで、彼らは党内の選挙を通じて選出される。

ところが、そんな政党と一線を画す方法で党代表を選出している政党が存在する。私は支持し、世の中の人は煩悩に縛られて支持しない日本共産党である。民主主義国の政党でありながら日本共産党は、総裁選や代表選挙で選ばれた党首によって役員人事が決められる他党とはシステムが全く異なり、巨大な取締役会みたいな方法で選出している。実際のところは中国共産党と同じ方法なのだが、立場のブレない党首を決める強力な方法は代表選挙ではない取締役会のような選出方法である。もっとも、中国共産党の場合はその立場がとても歪んでいるけど。

 

共産党は党大会で党委員長を含めた党幹部の人事を一括して決めている。自民党大会など他党の大会では幹部の人事や党首の選出までは行われないが、共産党の場合はそれらが党大会で行われており、党大会と党首選挙を別々で行う他党とは全く異なる。なぜ共産党は他党と違って選挙という方法で党首を選出しないのかというと、「この人が何となく良さそうだから」という反応的な選び方をされないようにするためだ。

「何となく良さそう」という理由で選ばれやすい選挙の場合、外見、スキル、コミュ力、その他表面的なテクニックといったサイコパスの特徴が選ばれやすい傾向が強い。流石に日本共産党にそんなサイコパス的なパーソナリティの持ち主はいないと思われるけど、選挙の場合は内面が評価されにくいため、内面の安定が伴っていない人が党首になってしまったら党が傾いてしまう。共産党みたいな小さな政党ほど、一枚岩になれないと力を発揮できないから、党の結束を確かにするため委員長の選出に選挙を採用しない。

そして党大会で党の活動方針が決定される点は他党と同じ。ただし、他党は党首の入れ替わりによって党の活動方針が揺らぐという問題をずっと抱えている。共産党委員長は党の活動方針および綱領と結びつく立場として選出されるため、他党の党首とはそもそも意味が異なる。党員ではなく綱領を代表する立場であり、これを派閥争いも同然の代表選挙で選出することは不可能に近い。

 

民主主義は選挙を通じて民意を反映する。しかし政党では話が変わってくる。政党は民主主義を牽引するべき存在であるけど、結束が崩れて力が萎んでは牽引など出来るはずがない。派閥争いは結束の乱れを引き起こす元凶だし、何より候補者の人格が評価されない。

共産党のように巨大な取締役会みたいなシステムで党首を選出する方法は民主主義国の主流ではないにしても、「この人が好きだから」という理由で票を入れることは生じないため、綱領を軸にしたブレない人格者が党首として君臨できる。

縁故で入党する党員がいる自民党と違い、共産党は綱領に合意できなければ入党できない。共産党の綱領は並みの人間が困惑するほど「異端」かつ詳らか。これに同意するには勇気が要る。強い人格を持たない反応的な人がそれだけの勇気を持てるだろうか。綱領に合意することは理念と目標に合意することであるから、共産党の繋がりは政党の本来の姿と言えよう。