コミュニケーションの言語として圧倒的なアドバンテージ(優位性)を誇る言語は英語であろう。世界中に20億人以上の話者が存在し、文字として世界で最も広く普及したラテン文字(※)を用いることから世界中の言語と高い互換性を発揮し、習得しやすいことが要因だ。

しかし、英語には世界の主要言語の中でも重大な問題がある。それは「表記と発音の一致率が世界でもワーストクラス」という点である。ラテン文字の場合は26文字を組み合わせて発音を表現するためルールが複雑になりやすい。そこに表記と発音の不規則性が加わるため、英語は規模以外ではあまり強くない言語になっている。

英語が日本の第二言語として貧弱なのは、メインは日常生活で英語を必要とせず日本語で事足りることにあるが、表記と発音が一致しない、語彙の理解が追い付かずに定着しない、発音の癖が強すぎる(特に母音)など複雑な要因が絡み、日本人の感覚と絶望的なミスマッチを起こしているのだ。

 

音声構造で英語が弱いことは、AIが台頭する前の音声合成システムが証明してしまった。ソングボイス(ボカロなど)では強弱の違いで音が潰れ、トークボイスも表記と発音の不一致がもたらす困難をダイレクトに反映した。子音が過密で尚且つ強弱アクセントであるため、子音の響きを苦手とする音声合成システムにとって英語の過密な子音は敵であった。これらはAIでようやく解決したところだ。

英語の構造的な困難は、実は人間の脳にも重い負担になる。 とりわけ言語を司る左脳に負担が集中し、特性によっては処理できなくなって障害として表面化する。文字と発音の変換に困難を抱える「ディスレクシア」という学習障害で、英語圏ではこの障害によって日常生活が困難になる人がとても多い。しかし日本語はディスレクシアの特性をカバーできてしまう。日本でディスレクシアがあまり知られていない理由も日本語の特性が大きく関係する。

 

日本語が弱いとされる最たる理由は専ら日本のローカル言語であること。

コミュニケーション言語としての規模では圧倒的に弱い日本語であっても、脳の情報処理という観点で見ると英語よりも圧倒的に強い。左脳は論理的思考に長けているため、英語脳の場合は論理に強い。一方、日本語の場合、英語のネイティブとは脳の構造が異なっているため、論理的思考とは全く異なる思考が発達する。

 

音楽の素材としては既に英語に劣らない強さを誇る日本語だが、コミュニケーションで日本語を用いる場合には何が起きるのか。

 

 

(※)日本で「アルファベット」と言った場合はラテン文字を指すことが殆ど。ギリシャ文字やキリル文字(ロシア語などで使われる文字)もアルファベットに分類される。

 

 

英語は脳の負担が重い

NHK(Eテレ)で『ハンク ちょっと特別なボクの日常』というドラマを観たことがあるという人はいるだろうか。ティーンエイジャー向けのドラマで、このドラマの主人公であるハンクはディスレクシアを持つ少年である。

 

ディスレクシアは文字と発音を変換する脳の機能が弱く、読み書きに支障をきたす障害である。重度のディスレクシアになると文字を見ても発音ができない、音を聞いても文字に直せないという形で日常生活に影響が生じる。

日本ではあまり聞き慣れない障害であるが、その原因が発現率の違いである。日本では1%ほどで、英語圏では10%から15%と、発現率が極端に開く。しかも日本ではディスレクシアの現れ方が英語圏と異なっており、英語学習が始まった時にいきなり現れるパターンが多い。障害が判明するきっかけが英語であるという、まるで英語が諸悪の根源であるかのような形になっているのだ。

英語圏で発現率が高く、日本では英語をきっかけに障害が判明するのは一体何故か、その原因が英語と日本語における脳のメカニズムである。

 

御存知の通り、英語はアルファベット(ラテン文字)を用いて表記し、一方の日本語は平仮名と片仮名と漢字の組み合わせで表記する。日本語の表記は世界的に見て複雑であるが、実は脳の中で起きる情報伝達は一般的な認識の真逆の答えにある。

アルファベット、そして平仮名と片仮名は、音を表す文字という意味で「表音文字」というカテゴリーに分類される。しかし、この表音文字には音節文字、音素文字、素性文字の3種類が存在する。ちなみに素性文字は韓国語のハングル文字が世界で唯一該当する。

日本語の平仮名と片仮名はいずれも音節文字である。日本語は「ん」以外全て「子音(Consonant)+母音(Vowel)」というCV構造の音節で、カナの1文字は1つの音節を表している。文字はすでにCVのパッケージで、ビジュアルがそのまま音になるため、脳内処理も極単純である。

一方、アルファベットは文字の組み合わせによって音節を作り出す音素文字である。世界で使われる文字の大半が音素文字であるが、実はこの音素文字の読解が脳のメモリーを激しく消費するのだ。ロシア語のキリル文字みたいに文字と音が1対1の関係であればまだマシであるが、英語などのラテン文字では複数の子音字を組み合わせて初めて音素が作られるというパターンが多い。分解された音素を生成するという脳内処理が複雑なため、アルファベットの中でもラテン文字の読解は左脳の言語中枢にかかる負担が重くなる。特に英語は表記と発音の一致率が世界屈指に低く、母音も複雑であるから、高いスペックが左脳に求められる。

ディスレクシアは文字を組み合わせて音に変換する脳内処理に困難があるため、英語の読解はディスレクシアの性質をそのまま炙り出してしまうのだ。

反対に日本語は、暗号解読のようなアルファベットの読解がなく左脳への負担が少ないため、ディスレクシアの特性を持つ人でも症状として現れないまま普通に生活を送れてしまう人が多い。漢字とカナの混合だから日本語のほうが脳の負担が重いという印象を持たれやすいのだが、実は日本語は他にも英語と異なる脳内処理が行われる。これがディスレクシアにとっての「生きづらさ」を根本から変えてしまう。

 

 

漢字は「言語ではない」

日本語が難しいと言われる原因こそが漢字の存在である。平仮名と片仮名だけならまだしも、漢字を混合しているために難しいと思われてしまっている。混合しているだけでなく文字数が非常に多いことも難しさの理由にある。最低でも2,000字は読めないと日常生活に支障をきたす。

中国語の難しさもやはり漢字にあり、こちらは日本語の約4倍の文字数を日常的に用いる。中国語圏でもディスレクシアは問題となっているが、こちらは書き取りの困難として現れる。線の本数を間違えたり、文字のバランスが崩れたりするなどの形で表面化する。日本と同様にアルファベットの困難もあり、日本語のローマ字に相当する「拼音(ピンイン)」に苦しむ。

しかし、それでも英語圏に比べると漢字圏のディスレクシアの発現率は低いし、読解の困難に至るほど重症化しない傾向にある。一体何故かというと、漢字を読むときの脳のメカニズムがアルファベットと根本的に異なるためだ。

 

漢字は意味を表す文字である「表意文字」に分類され、アルファベットやカナなどの表音文字とはシステムが根本的に違う。意味を文字にして発音が後付けされるという仕組みであるため、世界の文字の中でも漢字のシステムは異端である。

文字列を音に変換するシステム(Grapheme-to-Phoneme、以下「G2P」)は漢字が大の苦手。中国語のように文字と拼音が1対1の関係にある場合はまだマシだが、複数の読みが存在する「多音字」は中国語にも存在しており、G2Pは文脈から判断する必要がある。日本語における漢字は多音字だらけで、特殊な熟語や当て字もあったりするため、AIのディープラーニングが登場するまで難攻不落だった。日本語の漢字が特に象徴的で、漢字はG2Pに不向きの文字なのだ。

 

では、人間の脳は漢字をどんなメカニズムで読んでいるのかというと、実は「画像」として読み込んでいるのだ。画像として認識するということは、一般的な文字や声ではなく、物の形や色と同じ扱いになっている。文字の形を見て意味を組み立て、言語的な意味と統合して音に変わるというメカニズムは、右脳が主導するプロセスである。漢字の読解は右脳思考であり、G2Pでは不可能である。

一方、ディスレクシアは左脳の機能が弱い反面、右脳思考が強いため、漢字の読解や芸術に強いことが多い。書き取りは左脳思考が求められるため、左脳の機能が弱いディスレクシアにとって急所となる。

日本でディスレクシアの発現率が絶対的に低い原因は、私たちが日常的に用いる漢字の読解を右脳が行っているためである。そしてカナは左脳の負担が少ない。右脳主導で読む漢字と、左脳のシンプルな処理で済むカナのハイブリッド運用は、表記こそ複雑でも左脳の言語中枢に余計な負荷がかからない「省エネの言語」と言えよう。

 

 

日本語は右脳と左脳の相互補完

漢字という「文字でありながら画像として処理されるシステム」を運用するため、日本語の話者は味覚、色覚、そして空間認識能力が高くなる傾向があるという。これは「日本人」という民族の特性ではなく、漢字を用いる日本語と中国語の話者と学習者に起きる現象だ。

日本語と中国語を学習し始めると右脳の後頭葉から側頭葉にかけて激しく活性化し、人の顔や物体のデザインを認識する領域が「漢字の複雑なグラフィックをスキャンして意味を特定する専用の工場」に変化する。この領域が活性化すると、複雑な図形やデザインを認識および記憶する能力が非学習者に比べて高くなる傾向がある。日本のクリエイターが制作したイラストやアニメが世界的に高く評価されるのは、グラフィックを認識する右脳が発達しているためだ。

アルファベットやカナなどの表音文字を読解するのはカセットテープを回していることと同じであるが、漢字は文字から意味を引き出して振り仮名(または拼音)を充てた上で音に変換するという、顔認証システムみたいなメカニズムが働く。メカニズムで見た場合、漢字はデジタルであると言えよう。

 

デジタルという性質は日本語で表記する場合の文字数でも明確だ。「となりのきゃくはよくかきくうきゃくだ」(18文字)と書く場合と「隣の客はよく柿食う客だ」(11文字)と書く場合では漢字併用の方が文字数も少なくて済むし、何より脳が疲れない。全てローマ字にして「Tonari no kyaku wa yoku kaki kuu kyaku da」(33文字)と書いた場合、分かち書きで文章構造を認識できる以外に特段の利点がない。文字数も倍近くに膨れ上がるし、ディスレクシアにとっては拷問に等しい。

左脳の情報処理にはキャパシティがあり、右脳はそれを補完する。漢字とカナを併用する日本語の表記は、右脳と左脳の相互補完という点において最強の仕組みになっていると言えるのだ。

私が勤める職場では、年配の従業員がこんな言葉を頻繁に口にする。

「アルバイトの子はうちの社員よりもよく働く」

もし貴方の勤務先でこんな言葉を発している人がいたら、言っている当人が会社に依存しているだけなので、極力関わらないことを勧める。私の職場で先の発言をしている従業員も実際、社内で誰からも評判が良くない。

 

会社に必要な人材は、即戦力がある人か、それとも何も持たざる者か。これに関してはビジネス書でも盛んに取り上げられるのだが、説かれる答えは本によってバラバラである。

即戦力か持たざる者かという視点は、スタッフの身分によってその答えが180度変わってくるのだ。つまり、ある身分のスタッフは即戦力で力を発揮するが、別の身分になってしまうと持たざる者が必要になる。勿論、ビジネスの基本が備わるという点での即戦力はどの身分でも必要ではあるだろう。

先に答えを言ってしまうと、アルバイトや日雇いなど頻繁に入れ替わるスタッフは「即戦力」が武器になり、正社員などの常勤は「持たざる者」が武器になる。勿論、正社員でも即戦力が優位に立つことはあるけど、なぜ「持たざる者」が正社員として選ばれるべきなのか。理由は単純で、アルバイトと正社員では求められているスキルが全く異なるためである。

 

少なくとも「うちの社員よりもよく働く」などと愚痴を言う人が仕事の場にいること自体も問題だが、即戦力の人材を求めてしまうと口では言わなくとも同じ状態に陥る。なぜならその職場には、社員がよく働けるための基礎が欠けているためだ。

 

 

即戦力を求める会社に欠けているもの

スタッフを伸ばす職場とダメにする職場の違いはかなり多いが、ダメにする職場の特徴を大きくまとめると以下の3点に絞られる。

 

・円滑なコミュニケーションが成立していないこと

・仕事を教えるスキルが備わっていないこと

・部分最適を求める傾向が強いこと

 

ハラスメントについては論外であるため上記3点に含んでいないが、それでも職場の人間関係に大なり小なり影響を及ぼす特徴で占めていることがお分かり頂けると思う。 

とりわけ仕事を教えるスキルの不足は人材育成の致命的な妨げになり、対話力があってもそれを活かせなくするほどマイナスに作用する。或いは教える必要に迫られることを避けたいという部分最適に傾倒することもある。

突き詰めると、スタッフに即戦力を求める会社は総じてコミュニケーションとそれに必要なスキルと人格が未熟であるという答えに辿り着く。

 

なぜ人材育成に難を抱えている職場が増えたのかというと、かつての「技術は他人から盗んで身につけるものだ」という価値観が依然として残ること、仕事を囲い込む人材や指示待ち人間が職場にタダ乗りしていることが原因である。

職場にタダ乗りする「寄生虫のようなスタッフ」は自分の生活が持てばそれでいいという発想しかない。同じ職場に属する他者、自分の行いが職場に与える影響には無関心。彼らが「盗んで身につけるもの」と口説いておきながら、実際に自分がやっていることはブラックボックス。彼らは自分が仕事をしているところを他人に見せようとしない。他者の動きを見て覚える隙が奪われており、タダ乗りスタッフ以外の成長を完全に阻害していることがわかる。

タダ乗りスタッフが他者に求めるものは、自分を楽にしてくれる人間。彼らが楽になるためには、自分が期待したことを他者が自動的に察知して応えること、あるいは自分を有利に計らうことであり、これらは特権意識から生じる。即戦力も彼らにしてみれば、自分の期待通りに動く力がすでにあるという状態に他ならなく、育成とは真逆の消費というパラダイムにあるとわかるだろう。

 

労働者にとって即戦力は武器になることはあるが、同時にそれは依存型の人間に利用される要素になってしまう「諸刃の剣」なのだ。しかも即戦力を求める人に限って依存心が強いため、即戦力を求める企業は総じて協調性や優れた人格が欠けていると言って間違いない。

 

 

即戦力は「すき間バイト」に求められる

確かに採用して殆どすぐに結果を生み出す人材が貴重である。新卒採用にせよ中途採用にせよ、基礎が備わっている人材というのは心強い。スタッフも基本的には自分のタスクで手一杯だから、少ないコストで結果を生み出す戦力は自分たちにとって味方になる。だが、即戦力を求めることの落とし穴もそこにある。

 

即戦力が力を発揮する人材は、短期間雇われる人に絞られる。具体的には数ヶ月契約のアルバイトやパートタイム従業員、日雇い、バイトアプリなどで募集する「すき間バイト」のスタッフである。これらの人材は短期間で入れ替えるため、一から教えてもあっという間に時間切れとなってしまう。

契約期間の短いスタッフほど「業務の補助」という立ち位置になる。そのため、熟練した技術が求められるタスクや複雑なタスクに短期間労働者を従事させることは悪手でしかない。

冒頭で取り上げた愚痴は、簡単なタスクばかりに依存する従業員が発している。誰でもできる簡単な作業に依存するスタッフにとって、他のスタッフは召使やロボットでしかない。召使やロボットを使うだけの人では、自分の言うことを聞くか聞かないかでしか他者を見ることがないため、思い通りにならない同僚を「まともに働かない連中」と捉え、何でも聞いてくれるアルバイトや新人に対しては思い通りにならない同僚と比較して「うちの社員よりもよく働く」と言う。

大した権限のないスタッフがそう言っているだけなら窓際に追いやられるだけで片付くが、上司や経営者がこの状態だったらもっと悲惨だ。私が声を大にして言いたいことは「部下を良くするのも悪くするのも上司次第」ということ。上司が日雇のアルバイトを見るなり「うちの部下よりも優秀」と言っている場合、言っている上司が部下を統率していないことを意味する。彼らにとって社員は駒や部品も同然で、自分が育てるのではなく最初から出来上がっている既製品しか扱えないのだ。

 

正社員などの常勤スタッフの場合、即戦力よりも遥かに重要なものがあり、それが「熟練」である。仕事に慣れるだけでなく、技術やスキルが脳と体の一部として備わることが熟練であるため、数ヶ月や数日の短い期間では決して形成できない。年単位の継続によって形成される。

熟練を形成するのに向いている人材は一から仕事を身につけることができる人であり、つまるところ「持たざる者」である。と言っても覚える気のない人ではない。覚える気のない人が職場にいると「うちの社員よりもしっかり働く」などと批評ばかりする。そうではなく、特技を持ち合わせていないけど他者に貢献できる人こそ、熟練した技術を身につけるポテンシャルを秘めるのだ。

何も持たざる状態を鞄やキャリーケースに例えるなら、買ってから一度も使っていない状態だ。何を詰めるかはユーザー次第。ある一つの仕事で一杯にしても十分に足りる。持たざる者は何色にも染まる「真っ白なキャンバス」であるから、時間をかけて作り上げることがベストなのだ。

 

即戦力は極短期間の労働者であれば最強の武器である。即戦力のあるスタッフが職場に定着しないことを嘆く人は多いが、そもそも使用期限が短いため定着しないのは当たり前。スタッフを定着させたいなら熟練の形成が必須。熟練の形成には人材育成が不可欠だから「教えるスキル」が必要。特に製造業など技術を必要とする企業に正社員としての採用を希望する人は、即戦力を求める企業は人材育成の能力が乏しいと見て切る捨てることを勧める。

 

 

人材を育てない会社は三流

技術が人真似から始まることは本質として認めるにしても、教えることを否定する理由にはならない。

「盗んで身につける」という言葉が全く通じなくなった現代、それまでの常識で部下と接して壁にぶち当たるようになったため、仕事を教える方法を説く本が読まれるようになった。日本のビジネスパーソンが「教え方」を教わらなかったことが全ての問題である。

社会人になる前の学校教育でも「教え方」を教わる人は殆どいない。大学の教育学部など限られたカリキュラムでしか教え方を指導されることがないのでは。

このように「教え方」を身につける機会が劇的に少ないことで、上司が部下に、そして先輩が後輩に技術を教えるという場面で躓いてしまう。職場のコミュニケーションや仕事の教え方のスキルが見直された背景には、コミュニケーションの訓練を受けた人があまりに少ないことも一因にある。

 

教え方などのコミュニケーションで足掻いている人なら、成長の余地も人間関係を構築できる可能性もまだ残っている。しかし、スタッフを駒や道具のように消費し、仕事を教えないばかりか既製品を買い求めるように即戦力の人材を欲しがり、そして自社のスタッフと比べて「うちの社員よりもよく働く」と愚痴を言う人たちは間違いなく三流だ。まして上司や経営者がそんな状態であれば三流企業と言えよう。

 

自分の職場を「三流企業」と言っている場合、その職場が三流なのではなく、言っている当人が三流であることが殆ど。本当に三流の職場であればとっくに辞めているはずだ。職場を「三流企業」と言えるのは、本人の実力が三流の人間にしか受け入れられず、そして本人が三流人間を量産してきたからに他ならない。

なぜ日本ではカルテル(談合)がなくならないのか。最近でも大手ビールメーカーが販売価格を巡ってカルテルを結んでいたとして大騒動に発展した。

 

価格で選ぶ余地を消費者から奪うカルテル。不正競争や市場の独占にあたる問題として取り沙汰されているものの、一向になくならない。それどころかどんどん増加している印象さえある。

 

カルテルが「悪行」と位置づけられるのは、競争という前提でシステムが運用されているためだ。ところが、競争というシステムは長年に亘って日本のビジネスが最も忌み嫌っていたパラダイムである。カルテルを巡る問題は、競争というシステムが根本的に矛盾を起こしている証である。

 

競争というシステムを言い換えるなら「Win-Lose」である。『七つの習慣』をお読みの方ならご存知だろうけど、これは他者を打ち負かして利益を独り占めするという発想である。そして「Win-Lose」は法廷闘争に見られるように、他者との衝突を生むパラダイムなのだ。

カルテルを禁止することは、価格で他社を負かせることを推奨するに等しいことである。しかし、そんなことを推奨してしまえば共倒れになるし、何より適正価格を維持できなくなる。消費者に選ばれる価格が生き残れるという市場原理に身を任せてしまうと、仕舞いには生産者が破綻して市場そのものが崩れる。

消費者の考える適正価格はとにかく偏っている。低価格一辺倒だからだ。偏ったニーズを重んじるから価格破壊が起きるし、米価格のように不安定になった挙げ句に消費者と生産者のニーズが乖離する事態まで起きてしまう。

 

日本のビジネスは「お互い様」を貫いている。同業他社であっても「お互い様」であり、打ち負かすためのライバルという位置づけではない。そして覇権を狙う者に限ってあっさりと敗北を喫する。

販売価格を巡るカルテルは、国際的な競争力の低い企業にとって必要な生存戦略である。共倒れを避け、最低限の適正価格を死守するためには、消費者の偏ったニーズを排除することも必要にはなる。

ビールメーカーのカルテルは、低価格一辺倒の偏ったニーズと、競争という理不尽なシステムに対するアンチテーゼである。