ロシア語圏ではボカロ曲の人気が高い。しかしVOCALOIDはロシア語に対応しておらず、加えてロシア語で歌わせた作品も非常に少ない。ボカロ曲の大部分は日本語、英語、中国語であり、ロシア語圏ではそれらの作品が翻訳された上で歌われている。

ボカロ界隈ではロシア語が従前から置き去りにされている印象であり、ロシアによるウクライナ侵攻以降は一層相手にされなくなっているので、ロシア語圏との繋がりは難しい模様だ。

どんな政治的摩擦が起きようとも、民間人と政治権力は切り離さなくてはいけない。それをやらない人は習近平と同化する。習近平率いる中国政府は日本の国家権力に対する圧力を標榜して様々な制裁を科しているけど、それらは巡り巡って日本の民間人を巻き込んでいる。しかも原因は中国政府の過剰反応にあるから、何一つ正しくないことは明白だ。

 

さて、ロシアが国際的な圧力を加えられる中、目を逸らされやすいのは文化人たちである。国際的な圧力を受けているロシアでは、文化活動も儘ならないだろう。現在では多くの文化人がロシア国外に流出している。

今回取り上げるサティ・アクラ(Sati Akura)さんも、ロシア国外で活動するロシア人である。

 

サティさんは、英国を拠点に活動するロシア人女性である。彼女はアニソン、ゲーム音楽、J-Pop、ボカロ曲など日本の音楽作品を中心にロシア語でカバーする歌い手であり、VTuberでもある。

サティさんの英国移住はロシアのウクライナ侵攻よりも前で、さらに新型コロナウィルスのパンデミックよりも前だ。この方は国際結婚により英国に移住している。そのため政治的な問題は無関係である。

彼女の配偶者はディーマ・ランカスター(Dima Lancaster)さんで、この方も歌い手である。サティさんの動画でエンディングがある場合、ランカスターさんの演奏する「Halo of the Moment」(NoisyCell)のアコースティックカバーが流れる(ただし伴奏のみ)。

 

シンボルに使われるのは薔薇と桜である。

薔薇はデビュー当時からのシンボル、桜は2019年頃から薔薇と共にシンボルとして用いている。サティ・アクラという名前を簡略化すると「S. Akura」となり「桜」(Sakura)とも読めるため、シンボルにはうってつけだ。

 

私がこの方を知ったきっかけは「きさらぎ駅」を題材とした名無し作品のロシア語カバーであった。

原曲は2020年2月に投稿されて以降たまたまたどり着いたリスナーを中心に支持を集め、都市伝説「きさらぎ駅」が再注目されるきっかけとなった作品だ。

 

 

日本に於いて外国語となると多くは英語であり、ロシア語にはあまり関心が向かない。しかしロシアでは、コスプレイヤーのサーヤ・スカーレットさんに代表されるようにボカロやアニソンと密接に関わるクリエイターが多い。そのためボカロとロシア語圏の繋がりは無視できない。

日本でもボカロに追随した歌い手が出世した。海外でも同様にボカロやアニソンをカバーする歌い手が何人も出世している。サティさんも日本のアニソン、そしてボカロをロシア語でカバー。日本でロシア語はなかなか相手にされにくい言語であるけど、ボカロやアニソンを愛するリスナーは世界中にいるから、何かをきっかけに見出される。

 

 

ロシア語カバーの重鎮

サティさんがデビューしたのは2015年8月。初投稿はテレビアニメ『GATE 自衛隊 彼の地にて、斯く戦えり』の主題歌「GATE〜それは暁のように〜」のロシア語カバーであった。デビューから1年の間でカバーした作品は専らアニソンだったが、その後はボカロのカバーも出すようになった。

 

サティさんのカバーで用いられる言語は主にロシア語で、時折英語のカバーもある。ロシア語を第一言語としているため、彼女の英語カバーは割と貴重。なお、サティさんは翻訳をしてなく、ロシア語歌詞は全て翻訳家によって作られている。

 

ゲーム音楽については近年、中国のRPG「原神」「崩壊: スターレイル」「鳴潮」がとても人気で、サティさんはそれらの使用曲を大量にカバーしている。ただし再生回数はあまり伸びてなく、多くても「Wildfire」(スターレイルより)の66万回に留まっている。世界的に人気と言っても日本のゲームと違ってゲーム自体を象徴する音楽作品がないため、音楽が話題になるのはまだ先のようだ。

K-Popのカバーもあるけど、これらの再生数もまた伸びていない。例外はK/DAで、一部のカバーは100万回を超える。一方、テレビを賑わせるTWICEやBLACK PINKなどの作品は伸び悩んでおり、カバーした曲自体も少ない。そしてK-Popのカバー自体も2021年11月投稿の「HWAA」を最後に絶えている。

 

一方で強いのは日本のアニソンとボカロのカバーである。再生数100万回超のカバーが何本もある。

再生数最多は、ボカロは「マインドブランド」で838万回、アニソンでは「カワキヲアメク」で690万回、ゲーム音楽は「INTERNET YAMERO」で540万回である。特に「カワキヲアメク」と「INTERNET YAMERO」は日本語を含む他の歌い手によるカバー全てを上回る。

 

【視聴注意】

「INTERNET YAMERO」のMVには激しい点滅が含まれています。

 

 

ボカロでは定番の「ビバハピ」「アニマル」「強風オールバック」「命に嫌われている。」等、J-Popでは若年層から支持される「怪物」「うっせぇわ」「可愛くてごめん」等、アニソンでは海外でも人気の『鬼滅の刃』『Re:Zero』などをカバーしている。

元々はアニソンとゲーム音楽のカバーが専門だったので、アニソンカバーのクオリティは半端じゃない。サティさんが力を入れた作品は映画『竜とそばかすの姫』の劇中歌のカバーで、こちらはアルバムがリリースされている。

 

 

 

ボカロカバーで飛躍した

サティさんのメインはアニソンで、近年ではゲーム音楽も多い。とりわけ最初の1年は専らアニソンであった。

しかし、サティさんの人気作品はボカロ曲のカバーに集中しており、YouTubeのチャンネルに於いては最も人気な20作品のうち13曲がボカロである。

 

彼女がロシア語でカバーしたボカロ曲は「撥条少女時計」「サッドガール・セ○○ス」「百鬼祭」「ゾンビ」「R. I. P. ゴシップの海」などがある。例に挙げたこれらは英語でカバーされていないか、英語のカバーが殆ど伸びていない曲目である(※)。たとえば「撥条少女時計」はロシア語の他はベトナム語くらいしかなく、英語のカバーが見当たらない。二次創作ではサティさんのカバーが最も多く再生されている。

 

 

雪をテーマにしたボカロ曲は意外にも英語であまりカバーされてない。サティさんは雪ミクのテーマ曲や雪に関連した作品を数多くカバーしている点が特徴的だ。

雪ミクのテーマ曲を投稿する時期は主に年末年始。最初は「スターナイトスノウ」(雪ミク2017)で、2019年元日の投稿であった。2020年大晦日には「Snow Fairy Story」(雪ミク2015)、2022年のクリスマスシーズンには「SnowMix♪」(雪ミク2023)、2025年12月には「アイ」(雪ミク2019)をカバーしている。

雪ミク以外の作品でも2019年大晦日(あの新型コロナが最初に確認された日)には「白い雪のプリンセスは」、2021年大晦日にはボカロでは稀少なクリスマスソング「Snow Song Show」をカバーした。

ロシア語圏は日本と同様に豪雪地帯が多く(と言っても日本ほどは積もらないそう)、雪の少ない地域でも酷寒であるため、日本の寒い冬を扱った作品はロシア語圏の人でも馴染みやすいようだ。

 

 

個人的に好きなカバーは「ゾンビ」(DECO*27)と「命に嫌われている。」(カンザキイオリ)である。

ゾンビは意外にも英語で歌った人が少なく、再生数も少ない。しかし、サティさんのロシア語カバーは46万回再生されている。

「命に嫌われている。」のカバーはどれも凄い再生回数を記録しており、サティさんのカバーは123万回再生されている。マイナス4のキー(変イ長調)とピアノの伴奏がとても哀愁あるため、心に響く。

 

 

 

 

(※)「R. I. P. ゴシップの海」は英語でカバーした歌い手がいるが、現在は非公開。

 

 

英語カバーの重鎮に追随する

サティさんがロシア語でカバーしたボカロ曲を見ると、以前の記事でも取り上げた rachieさんと重複する作品がとても多い。

rachieさんは英語でボカロ曲をカバーする歌い手。こちらはインドネシアの方であるためサティさんとは接点がない。しかし、サティさんとrachieさんは多くの曲が重複している。

サティさんとrachieさんで重複する曲目はボカロを中心に延べ31曲。このうち「Don't Come Back Here」はrachieさんのオリジナル曲である。

 

 

rachieさんの影響を受けた歌い手は大勢いて、言語こそ違えどサティさんもその一人ではないだろうか。重複する曲目も多く、VTuberのアバターに熊をあしらっている点もrachieさんと同じだ。

サティさんは英語でカバーすることもあるけど、rachieさんとはこれまで共演がない。rachieさんの「Don't Come Back Here」をサティさんがカバーした以外に関連はない。

 

オリ曲以外では、冒頭で取り上げた名無しの曲も重複し、最近投稿されたカバーでも「GHOST」(星街すいせい)が重複している。そして英語ではrachieさん、ロシア語ではサティさんが最も多く再生されている曲目まである。この二者は英語とロシア語の双璧と言っても良さそうだ。

英語でrachieさん、ロシア語でサティさんが最も多く再生されている曲目となれば「ラビットホール」「モニタリング」「パラサイト」「乙女解剖」などDECO*27作品が中心。特に「モニタリング」は投稿日まで重複している(日本時間では前日)。

 

 

YOASOBIとヨルシカの曲をカバーしている点も共通している。ただし、ヨルシカについてはrachieさんほど曲数を歌ってなく、サティさんがカバーした曲は「花に亡霊」と「ただ君に晴れ」だけである。一方、YOASOBIの曲は「怪物」と「勇者」、幾田りら(ikura)さんの曲でも「百花繚乱」を歌っている(「夜に駆ける」と「アイドル」は両者共通でカバーしている)。

特に「ただ君に晴れ」は外国語のカバーが非常に少なく、英語ではrachieさん、ロシア語ではサティさんのバージョンが唯一である。

 

 

人気が集中する曲というのはあるため、他の歌い手と曲が重複することは別に珍しいことでもない。しかし、31曲も特定の歌い手と重複することは滅多にない。サティさんの方が先行したケースもあるけど、ここまで多いとrachieさんの影響も受けていると思えるし、無関係だとしても歌声の綺麗な歌い手は関心も似てくるのだろうと思う。

 

 

ディーマ・ランカスターとの共演

これまで最も多く共演した歌い手はサティさんの配偶者であるディーマ・ランカスターさんである。ランカスターさんは英国の歌い手で、現在サティさんの動画のオープニングとエンディングで流れる音楽はランカスターさんの演奏である。

サティさんとランカスターさんが共演した最初のカバーは「いかないで」(想太)であった。

 

 

サティさんとランカスターさんは2018年に結婚している。彼女がロシアではなく英国に拠点を置くのは政治的な理由ではない。「いかないで」をカバーした当時は交際中だったそうで、2人が離れる時の心境が歌詞と重なったという。

「いかないで」の歌詞の解釈は様々で、男の子か女の子が死亡した説、戦争への見送りという説、そして遠距離恋愛という説などが持ち上がっている。サティさんは遠距離恋愛の曲と解釈したようだ。

結婚から5年後にリメイクし、ロシア語版の他に独自の英語歌詞でカバーしている。

 

 

以前は顔出しの動画も投稿されていた。今でも閲覧可能で、「夜に駆ける」「怪物」「花に亡霊」などは顔出しで歌っている。VTuberデビュー以降はサティさんのチャンネルに於ける顔出し動画がない。

サティさんとランカスターさんが揃って顔出しする動画は「ME!」(テイラー・スウィフト)のカバーであった。結構イケメンだ。

 

 

サティさんの動画のエンディングにはランカスターさんの「Halo of the Moment」(NoisyCell)のアコースティックカバーが用いられる(ただし、伴奏のみ)。

私はこのカバーを聴くまでNoisyCellを知らなかったため、「Halo of the Moment」もランカスターさんのバージョンばかり聴いていた。最近オリジナルを聴いて、改めて良い曲だと思った。なお、NoisyCellは2025年2月に解散し、メンバーであったKiaraさんは2025年5月に逝去している。

 

 

 

 

 

ロシア語圏のミュージシャンって日本ではあまり話題にならなく、いてもお騒がせセレブのt.A.T.u.くらだ。しかもロシア語の音楽は民謡を除けば日本で殆ど知られていない。

一方、日本の音楽はロシアでも知名度を高めている。特にインターネットが普及すると日本のアニメに関する情報がロシアにも入ってくるため、日本の音楽は主にネットを通じて知られる。ボカロとなればインターネットが生んだ音楽と言っても過言ではないから、そうした音楽はネットの時代に於いて拡散しやすい。ロシアのテレビで日本の音楽が紹介されなくても、ネットでは日本の音楽に容易にアクセスできる。

ロシア人のクリエイターは主にネットで活動する。日本のボカロは世界のユーザーと繋がりやすく、サティさんに至っては国際結婚まで実現した。しかも結婚相手も歌い手であるから、ボカロの象徴的存在である初音ミクは縁結びの神でもあったとまで思えてくる。コスプレイヤーのサーヤ・スカーレットさんもボカロをきっかけに注目されたから、ボカロの影響力は半端じゃない。

今でこそ「崩壊:スターレイル」や「鳴潮」などの音楽のカバーが多くなったけど、彼女を知ってもらえるきっかけは専らボカロとアニソン。サティさんにとってボカロはとても大きな存在で、これからも新たなボカロやアニソンを発掘することだろう。

※この記事は2025年9月30日にJUGEMブログに投稿した記事の再投稿です。

 

 

日本で学校に通っていれば、学校で英語を学んでいるはずだ。

英単語、特に名詞を覚えていると疑問に思わないだろうか。これは私の疑問であるけど、何で英語はいちいち単数と複数で呼び分けているのだろうか。突き詰めても疑問が晴れることはないばかりか、むしろ「面倒な判断」という感覚を強めるばかりだ。

英語を除く欧州の言語だと男性と女性で言葉が分かれている。男性形と女性形のことで、例えばスペイン語の定冠詞「Los」(ロス)も女性形だと「Las」(ラス)になる。名詞も基本的に女性形と男性形が併存しており、これが結果として男女差別や男女格差の温床なのだと思えるのだ。もっとも、男女格差は日本の方が酷いので他国のことを言えたものではないけど。

 

男性形と女性形を不思議に思ったのは、かつてNHKのラジオで語学番組を聴いていたからだった。ただ番組を聴いているだけだったけど、スペイン語、フランス語、ポルトガル語、イタリア語など欧州の言語を中心に男性と女性で言葉が分かれていた。一方、学校で教わり、テキストも購入して聴いていた英語では男性形と女性形がほとんどなく、あっても三人称単数の現在形くらいだ。ヨーロッパの多くの言語では明らかに男女が仕切られていた。しかも日本語以上に顕著である。

そして新たな疑問も生じた。ここ15年ほどで大きく変化したジェンダーの問題によって、世界の言語がどんな問題に直面しているのか、特に男性形と女性形を有する欧州の言語がどんな境遇になっているのかという疑問だ。とりわけトランスジェンダーの人たちにとって、言葉の性は自己同一性(アイデンティティ)を揺るがす事態である。

 

外国語に注文を付けるのは異文化の否定と受け取られるかも知れない。しかし、文化は社会と調和する形でなければいけない。そして文化の名の下にルールを正当化することは怠慢である。

ある言語で男性形と女性形を使い分けるルールが存在することは事実だが、ジェンダー・ニュートラルに相容れないルールなら変えなければいけない。過去にもブログで話したことがあるけど、言葉の正しさは道理や倫理より後に来るものだ。

 

【以前の記事】

 

 

そして言語から男性と女性の判断が消え、単数と複数の判断も消えたら、言語はとてもシンプルになる。実際、名詞や動詞から性が消失した英語はシンプルだ。

実は英語以上に日本語がシンプルだと言えるかも知れない。そのことは私たち日本人のある部分に現れている。

 

 

男性形と女性形はジェンダー差別の元凶

かつて英語では「policeman」や「businessman」みたいに「man」が付く単語が多かった。現在ではそれぞれ「police officer」と「business person」に改められた。ジェンダーに対する認識の変化に合わせて言葉を変えた言語、それが英語である。と言っても、依然として男性と女性で呼び分けられる言葉が残っていることも事実。実際「actor」と「actress」は呼び分けられたままだ。

 

欧州の言語ではより露骨な残り方をしている。一般的な名詞でも男性形と女性形で当たり前のように分けられている。

ポルトガル語で「日本人」を表わす言葉も男性形が「japones」、女性形が「japonesa」といったように分けられている。同様に「教師」を意味する名詞も「professor」が男性形で「professora」が女性形と分かれており、ここではジェンダー・ニュートラルなど見る影もない。

トランスジェンダーの人にとって、名詞や動詞などの男性形と女性形は自分の在り方を否定するようなシステムに映っていないだろうか。体は女性だが認識は男性であるトランスジェンダーの場合、自分の行為や処遇などを話す時に男性形を使ってよいのか、体が女性であることを理由に女性形を使わなければいけないのか。欧米ではこうした問題に直面しているトランスジェンダーが多いのだ。

 

名詞から男性形と女性形が排除されつつある英語の場合も、代名詞には男性形と女性形が残っている。三人称単数形のことだ。男性形が「he/his/him」、女性形が「she/her」で分かれていることはご存知だろう。

中性形として「it/its」は存在するけど、基本的には物に対して用いる単語であるため、人に対して使うことは大変失礼だ。『“it”と呼ばれた子』(デイヴ・ペルザー 著)という本のタイトルが示すように、人間に対してitを使う人は他人のことを物や駒としか見ない。男か女でなかったら物や駒なのか。あまりに不毛な選択だと言うしかない。

現在ではジェンダーの問題に対応するため、自分を指す代名詞として「he/his/him」または「she/her」と呼ぶよう促す目的で、主にSNSのプロフィールに書き込む人が多くなった。性同一性に対して寛容になった動きである一方、男女で言葉を使い分けることの弊害を示す結果となった。プロフィールに中性形である「it/its」と書き込まれても、駒扱いに抵抗のある人は気軽にそう呼べないだろう。

 

人に対して使う中性形がほとんど存在していない現状では、男だから、或いは女だからという理由で言葉を使い分けさせられる。そしてそんなルールに苦しめられるトランスジェンダーがいる。こうした現状を見れば、男女は間違いなく「無駄な判断」であり、男性形と女性形もまた「無駄な判断」の産物だと理解できるだろう。

辛うじて存在する中性形も人格否定の意味で使われたことを見れば、無駄な判断が悲劇を生むことは想像に難くない。

 

 

複数形の存在意義はあるのか?

私たち日本人の多くは学校で英語を教わり、英単語を覚える中で、一つ疑問点が生じる。「なんで英語には単数形と複数形があるの?」「単数と複数で呼び分けて何か意味あるの?」と。

日本語の場合、単数と複数で言い方が変わることは稀だ。

英語圏の人が日本語を学ぶときの困り事の一つに、日本語の名詞では単数か複数か分からないことが挙げられる。ある意味では脳が無駄な判断を求めているようなもの。

 

これは日本人の視点であるけど、単数か複数を予め判断する意味はあるのだろうか?数量が気になる場合に限って尋ねれば問題ないと思う。単数か複数で使い分けるなど、日本人の感覚からすれば意味不明なのだ。これが靴や手袋みたいに「2つで1組」なら話は別だが、そうではなく単体で成立する大抵の物体で単数と複数に応じて使い分ける意味はないように思う。

複数形が基本になるのは「2つで1組」の場合である。「靴下」を意味する「socks」は複数形で、片方だけなら「sock」と単数形にすれば伝わる。靴も同様に「shoes」が複数形で両方、「shoe」が単数形で片方という意味で使える。

また「人々」を意味する「people」は複数形と見做される単語だ(※1)。「people」は集団的な意味で使われるが、複数の人によって成立するため「person」の複数形と解釈されるのだ(※2)。

問題となるのは単体の場合である。大半の名詞には複数形が存在しているが、数量と複数形を併記する必要は果たしてあるのか。正直、全くないように思える。たとえ英語の表記法がそのように決まっているとしてもだ。

 

名詞の複数形に関連する変化は、三人称単数に於ける動詞だ。三人称単数の現在形に限って名詞の複数形と同じ変化をする。しかも三人称複数の場合は一般的な現在形と同じ。これって意味不明ではないだろうか。

そして欧州の言語では余計に複雑だ。たとえばフランス語は、動詞が人称と単数・複数で変化するため、フランス語の活用はとても複雑である。これに名詞の男性形と女性形を使い分けるから、フランス語は判断だけで恐ろしいほどエネルギーを使うことになる。

 

この点を考えると、日本語は如何に判断が少ないかを見てとれる。単数と複数の判断は基本的にないし、男性と女性の判断も少ない。

ではなぜ日本語が難しいのかといえば、表記法が複雑であり、語順にも互換性がないから。欧米の諸言語に於ける判断の多さに苦しむ日本人とは難しさの原因が異なるのだ。諸外国の人々が日本語に苦しむのは互換性の低さ、日本人が欧米の諸言語に苦しむのは判断の多さに起因する。

 

 

(※1)「people」は本来、単数形として扱われている。複数形は「peoples」であるが、これは複数のコミュニティを指して使われる。

(※2)「persons」という複数形も存在するが、現在では廃れているため、「people」が「person」の複数形と解釈される。

 

 

「2つで1組」の基準が変わると...

靴は一般的に左右が揃って1組である。数え方も両足分で1足であり、片足分だけでは成立しないことになっている。箸も2本で1組のものであり、2本揃わないと1膳にはならない。

これがパンツ(ここではズボン、又はスラックスのこと)の場合はどうか。日本人の感覚であれば1本ないし1枚であるけど、英語の感覚では2本となる。これは両足分で1足が成立する靴と同じ発想なのだ。とは言ってもパンツは縫って1枚に仕立ててあるから「2つで1組」と考えるのは無理があるという印象を拭えない。

 

「2つで1組」がここまで変わってしまうのはその前提が異なるからだ。

靴や箸などは両方が分離している。靴は右足なら右足用、左足なら左足用でそれぞれ分かれる。片足を失っている人でも片足分だけを用いることができ、その場合はもう片方をしまったりできる。箸は2本ないと成立しないが、1本を取り替えても2本あれば1膳として成立する。日本語に於いて「2つに1組」とは分離した個体であるという前提なのだ。

パンツの場合は2本の足を入れるからという理由で「2つで1組」なのだ。パンツを意味する英単語「pants」は複数形が基本である。しかしパンツは、靴や箸と違って分離していない。そのため「2つで1組」という考え方も、日本人の感覚からすると無理があるのだ。一般的に袖を2本有するシャツは「shirt」で単数形が基本であるが、これはどう説明するのか。両腕を通すものは単数形が基本で、両脚を通すものは複数形が基本。シャツは胴体がメインで袖が飾りだからだろうか。

パジャマの場合はまだ理解できるだろう。スーツのセットアップと同様にトップスとボトムスが揃って1組だから、英語も「pajamas」と複数形が基本である。そしてトップスだけでも、ボトムスだけでも、服としては機能する(トップスだけを使うケースは普通考えられないけど)。

 

分離していないものを、あたかも分離しているように扱うことで、無駄な判断を生んでしまう。「leg」(脚)は単数形と複数形で片脚と両脚を区別できるけど、パンツは1枚に縫い上げた布であり、単体で成立するから、複数形を基本とする意味はない。靴や箸と違って単体で成立するものとなれば、そもそも複数形が存在する意味もないだろう。

 

 

日本語にも「無駄な判断」は潜む

「看護婦」と「看護士」が使われなくなり「看護師」に統一されたことに代表されるように、日本語でもジェンダー・ニュートラルに配慮した言葉に改める動きもある。完全に変わったわけではないけど、ここにも日本語の「無駄な判断」が潜んでいたのだ。

 

そして日本語にある「無駄な判断」はジェンダーに関する言葉だけではない。外国人は勿論のこと、日本人など日本語を第一言語として話す人でも苦しむ言葉があり、その一つが助数詞だ。外国語で日本語の助数詞に相当する言葉は「メートル」などの単位である。しかも単位は通常、名詞の扱いだ。日本語の助数詞は通常の名詞と違い、数字と組み合わせて機能する。

日本人も外国人も苦しむのは、その種類と使い分けだ。何でこんなに種類が多いのか、何でこんなに煩雑なのか。そう思った人もいるはずだ。「1個」「1つ」であれば単純だが、物によって助数詞が異なるから困るのだ。

たとえば動物に対して使う「匹」は、本来なら大小問わず全ての動物に対して用いられる。しかし、主に脊椎動物を数える時に使う「頭」は明治時代に後付けされた助数詞であり、以降は「匹」か「頭」かで議論になってしまうこともある。今になっては「余計なものを作ってしまった」と思える語彙の一つになった。

最近では助数詞も画一化の流れにあり、タンス等の家財に対して使う「棹」(さお)、半田ごてやアイロンなどに対して使う「丁」(ちょう)など、徐々に使われなくなっている助数詞もある。これは多すぎる故に使い分けに苦労した結果だと言えよう。後付けされた助数詞もあることから、一層面倒に思えるようになったのだろう。

 

助数詞の画一化は日本語の変化であるが、ネガティブな捉え方はしない方が良い。ネガティブに捉える人は従来の在り方に依存するからで、変化に脆弱だからだ。こうした人に限って、男女で呼び分ける古いルールを絶対視する。

男女での呼び分けがなくなることも、助数詞が画一的になることも、むしろポジティブな流れである。男女に紐づけて無駄に判断することもなくなり、数え方を巡って無駄に判断することも減るからだ。

言語から無駄な判断が消えると、言葉がシンプルになる。シンプルな言葉は覚えやすいし、シンプルな言語は理解しやすい。

日本語はシンプルになる変化をしてきた。とりわけ現在の形(口語形)は煩雑とした表記法を簡略化した結果である。煩雑な表記、長い言葉は日本人の嫌うものであるから、分かりやすい表現にこだわる。略語もそうだし、助数詞の画一化もシンプルにこだわった結果なのだ。

 

 

なぜ虫の鳴き声が聞こえるのか

私たち日本人にとっては当たり前で、外国人にとっては不思議に思えることの一つに、虫の鳴き声が聞こえるかどうかがある。

日本人の場合は虫の鳴き声が聞こえる人も多いだろう。しかし、外国人の多くは虫の鳴き声を聞き取れないというのだ。

虫の鳴き声を聞き取れるのは、専ら日本語を第一言語とする人に限られるらしく、他はポリネシア人(※3)の一部だけだ。このように虫の声を聞き取れる人は世界的に見ても稀少で、ある意味では日本人特有の特徴と言えるだろう。

 

なぜ日本人は虫の鳴き声が聞こえるのか、これは虫の鳴き声を左脳で処理しているからだという。「言語脳」とも呼ばれる左脳で聞いているため、虫の鳴き声を文字通り「言語」として認知する。自然界のあらゆる音(風や波など)も左脳で処理しており、これがオノマトペと深く関わる。日本語を第一言語としない人はこれら全てを右脳で処理しているので、雑音として認知される。

右脳と左脳の役割に違いが出てくる原因は判明していない。しかし、これは私の仮説であるが、日本語では判断が少ないため左脳に余裕があり、虫や自然界の音を処理することが可能になっているのではと考える。

判断は左脳の思考である。そして特に欧州の言語では複雑な判断を必要とする。動詞の活用は勿論のこと、文字の組み合わせから音に変換したり、男性形と女性形を使い分けたりと、その判断がとても多いこと。ネイティブの話者が当たり前のようにそれらを判断できるのは、脳が最適化されているから。最適化した結果、脳のリソースの大部分を判断に費やしているので、虫や自然界の発する音を処理する領域が削られた。これが私の仮説である。

諸外国の人々が右脳で処理する虫の音を、日本人は左脳で処理しているため、その分、右脳に余裕が出てくる。繊細かつ複雑な音色を特徴とするJ-Popやボカロ曲、繊細な味を特徴とするフレンチジャポネ、色使いや筆遣いの細かい日本画や水墨画などは、虫が入り込まない右脳によって生み出されたものかも知れない。

 

 

(※3)ポリネシアとは太平洋島嶼国および米ハワイ州とニュージーランドを指す一帯。

※この記事は2025年6月30日にJUGEMブログに投稿した記事を再編集したものです。

 

 

ジャーナリストの使命は権力を監視することである。なぜ権力を監視するのかというと、権力者は自らへの支持を集めたり、崇拝者を増やすために嘘をばら撒くからである。ジャーナリズムの世界では「権力は嘘つき」という前提で政治権力を扱ってるのだ。

 

専制主義となれば状況が逆転し、ジャーナリストが監視対象にされる。しかし、自国のジャーナリストを監視できたとしても外国のジャーナリストを封じることはできない。外国では自国の支配が及ばないからだ。

専制主義では権力者のアナウンスが重要であると考えるため、ジャーナリストが好き勝手に報じてしまったら統制が取れない。だからジャーナリストが監視される。

先述の通りジャーナリストは権力を監視する立場である。ということは、政治権力にとって不都合な情報も丸裸にされてしまう恐れがあるのだ。都合の悪い事実が明るみに出ることを恐れる人たちにとって、専制主義はとても好都合な体制である。ロシアや北朝鮮が専制的な政治を敷くのも、トランプ政権が専制化するのも、全ては不都合によって自分の権力が揺らぐことを恐れてのことだ。外国にスパイを派遣するのも同じ理由である。

 

そして政治とか関係ない場面でも、監視する立場、監視される立場は存在するもの。職場でも、仕舞いには家庭でもお互い監視し合っているといったケースが少なくない。

対象者に問題があるから監視するというのは一理あるだろう。しかし、果たして監視対象者に問題があると断言できるだろうか。ハラスメントの加害者みたいに、人格に明らかな問題がある場合はやむを得ないとして、嫌がらせをしているわけでも悪事を働いているわけでもない人たちを監視している人がいるなら、それは監視する人に問題があるからだ。

「配偶者に行動を細かく管理され、仕事上の付き合いであっても家族以外との接触に不寛容で、夫婦生活が辛い」

「親は自分を監視し、自分の言いたいことを言わせてくれなく、親の許可がなければ何も行動できない」

もしそんな事態が生じているなら、監視しているその人に問題がある。監視している人からすれば、相手の行いに問題があると答えるだろう。しかし、実際には監視者が間違っている。他人を束縛する人は人格に明らかな問題があり、監視するのもその人の問題を正当化するに過ぎない。それでは専制主義に走るトランプやプーチンと何一つ変わらない。

 

 

監視される人は不誠実な人

監視対象者とされる人のたった一つの共通点、それは"裏表がある人"である。

「何も悪意のない一般人も監視されているではないか」と返す人もいるだろう。確かに独裁体制の社会などでは権力が一般市民を監視することが常態化している。それは市民が権力を反故にすることを恐れてのことだ。

ところが、ここは日本だ。民主主義の国で、大統領や国家主席みたいに強大な権限を有する位はなく、執権政党さえ認められない国である。そのような国で権力が市民を監視するようなら、権力が国民に怯えている証なのだ。

そして権力は常に監視される。市民から監視されなくとも第三国やそのジャーナリストに監視されることもあるだろう。実際、国民を監視する中国政府も外国メディアや国際機関から監視される。それは政府が国民に対して裏を掻き、裏を暴かれないよう国民を監視した結果なのだ。

 

権力は必ず腐敗する。腐敗した権力は国民に対して不誠実になる。そうした人が行う監視は人目を盗むことが目的である。人目を盗んで悪事を働くからこそ監視され、結果として自ら監視対象者に成り下がる。

つまり監視対象者になる人とは不誠実な人であるのだ。

市民に対して不誠実な権力は、市民が自分の思い通りにならないと不安で仕方ない。自分が実現させたい公約に市民が賛同してくれないと苛立つ。そうした権力者は一般市民を監視したり、法律や大統領令など拘束力のある手段を用いて国民を支配する。これこそ独裁者の核心である。

強欲は沢山の敵を作る。独裁者が一般市民を監視するのは、物事を私利私欲でコントロールしようとして多くの敵を作った結果なのだ。独裁者が民間人から監視されるのはその報いに他ならない。

 

そして監視は権力者と市民の間で行われるとは限らず、時として一般人同士でそれが起きる。地域社会、職場、下手をすると家庭内でそんな状態に陥ることがある。

誰かが監視されている職場や地域社会は明らかに空気が悪くなっているし、家庭内で誰かが監視されていれば末期状態だ。

地域社会が監視状態であればそれは同調圧力である。同調圧力は個人主義や個人の立場を敵に回している証であり、個人の軽視という形で不誠実を示す。

職場や家庭が監視状態になっていれば、そこに属する人に何らかの問題が存在している。夫婦間で監視し合っている状態なら両方に問題があるはずだし、無条件に愛するべき子どもを監視しているなら親に問題がある。監視し合う夫婦はお互いに不誠実だし、子どもを愛さない親は明らかに不誠実だからだ。

 

 

監視される人は自分をコントロールできない人

不誠実な人は自律しない。彼らは野蛮人であり、自分をコントロールする力を欲求や感情など自分でコントロールすべきものに与えてしまっている。喩えて言うなら、ペットに飼われている飼い主みたいな関係だ。

彼らが良い人として振る舞う時は専ら他人の視線がある時である。野蛮人は他人に好かれたり取り入ったりすることに関しては一人前だ。これらは承認欲求が動機であり、一見すれば良い振る舞いも実のところ欲求に動機付けられているに過ぎない。それを示すように、彼らは人目の届かない場面で不正や悪事を働く。誰も見てなければ邪心に従うという有り様で、そこに理性など見る影もない。 

 

「見ていない所で子どもが悪ふざけする」「子どもの隠し事に悩んでいる」などと悩んでいる親は確かに多いが、これらは親が子どもを意のままにコントロールしようと束縛した結果に過ぎない。親の監視を逸らす子どもは親を監視しているも同然であり、無条件に愛していれば隠し事や人目を盗む行いをしなくても安心できたはずだ。

子どもが親に監視されていたら、子どもは身動きが取れなくなる。身動きの取れない状態は自分をコントロールできないことと同じだ。親に束縛される子どもが身動きできるようになる時は、親の束縛が解かれた時、それは親の監視が逸れたり封じられたりした時、或いはそもそも親がいない時に他ならない。自分をコントロールしない親が子どもの自律を阻害していることは明白であり、親の他律が子どもに伝染していると言って良い。

 

他者を愛さず、他者を尊敬しない人は、他者を監視しようとする。それも、問題行動を改めようともしない特定人物ではなく、自分以外の殆ど全てをだ。本来無条件に愛するべき相手を監視することは、他者を思い通りにコントロールしようとすることと変わらない。

しかし、これらの行いも、自分をコントロールしないことの裏返しに過ぎない。他人が変われば自分が安泰でいられるという「アウトサイド・イン」のパラダイムである。それはまるで、敵の一挙手一投足に怯えているようなもの。他人にコントロールされているのだ。他人に何とかしてもらうことで自分を安定させるという発想であるから、そこには依存心しかない。子どもを束縛する親はこうしたパラダイムにすっかり染まっている。

自律を疎かにするから他人に依存する。他人に何とかしてもらおうとするから他人を監視し、束縛しようとする。そして身動きの取れなくなった他者は解放できる時を見計らおうと、自分を束縛する他者を監視する。監視しているようで監視されているのだ。自律しない人が他人を監視しても、結局は当人が監視対象者に成り下がってしまう。しかも他者に味方が付いてしまったら監視の目が増える。

 

仕事のように一定の条件の下で結ばれる関係であれば、監視対象者に人格の問題があると考えるべき事例もままある。裏表があり、ハラスメントを加えても罪悪感一つもない人は監視されるべきなのだ。彼らが他者を監視したところで人目を盗むことにしかならない。とは言え、いつまでも監視が必要な状態は健全ではないので、解雇などしてコミュニティの緊張を取り除く方が得策だ。

しかし、条件ではなく存在によって結ばれる関係はどうか。交友は明らかに存在だけで繋がった関係だし、家族は事実で繋がった関係だ。そうした関係は信頼が何より大事であるが、それを疎かにして依存すれば結局は不誠実な生き方になってしまう。そして他者から束縛されるかマークされ、酷くなれば近づくだけで警戒されるだろう。監視されながら依存しているようなもので、そんな関係ではやがて破綻する。

 

 

防犯カメラは敵か味方か

裏表のある人は、監視されている場面に限って善人を装う。彼らは他人から悪く見られることを嫌っているわけで、他人が見てなければやりたい放題。

それは防犯カメラの前でも同じこと。防犯カメラは注視する人もいるし、大抵の場合は録画もされる。不誠実な生き方をする人は防犯カメラの視界に入る環境では善人を装うが、そうでない場合は平気で不正を働く。

彼らは証拠の残らない環境をとても好む。彼らにとって、証拠が残らない状況は、自分が悪いことをしない善人である根拠になるからだ。証拠がないだけの理由で自分が善人だと認められるから、防犯カメラは彼らを正当化する道具にされるのだ。

 

しかし、監視の前だけ善人を装うこと自体、自律のない生き方の表れである。監視されなければ自分で自分をコントロールせず欲のまま行動する。

彼らにとって防犯カメラは自分を正当化するためにある。自分が善人であると強調できるから、彼らは防犯カメラを味方だと捉えるだろう。だが残念ながら、欲求を妨げるという一点で、彼らにとって防犯カメラは敵になっているのだ。

実際、防犯カメラを覆ったり、避けたり、止めたりして盗みを働く泥棒は多い。それは悪事が知られたくないからであり、カメラの前だけ善人を装う人たちと本質的に変わらない。「証拠がなければ自分が悪いことにはならない」と正当化する彼らは人前だけ善人を装うから、間違いなく不誠実な生き方をしている。

監視の前だけ善人を振る舞う人は、その周りにいる他人を見れば大体分かる。他者から信頼されていないし、舐められてもいる。記録されている証拠に対して他者評価が付かない。第三者の目が届かない場面では平気で悪事を働くからだ。
 

防犯カメラを味方にできる人は自由人だけである。自由人は監視の有無に関わらず自分をコントロールするから、防犯カメラを脅威と捉えることはない。そもそも本当の善人なら、証拠を引き合いに自分の良さを証明しなくても他者から信頼される。勿論、証拠が味方になって信頼残高を増やすことも往々にしてある。彼らはわざわざ口説いたりしなくても実力で証明できるし、何より逆らうことのできないものが味方になってくれる。

裏を掻く人は、逆らえないものが敵になる。彼らは証拠が敵になってしまう。だからこそ証拠を隠滅したり、監視の前だけ善人みたいに振る舞うのだ。

 

とは言え、よくよく考えれば、これらも束縛されながら育った人たちの末路でもある。それも気まぐれに振り回されるだけの束縛だ。他者を束縛する人は気まぐれに振る舞うくせに、そういう人に限って他者が同じ事をするのは許さない。そうした自分本位の行いをする人に監視されながら育った人たちが、自らを束縛するものを信じることができるだろうか。親の気まぐれは許されるのに子どもの気まぐれが許されないのはおかしい、と考えるのが自然だ。

彼らは防犯カメラで監視する人たちも自分本位で気まぐれなのだという不信感で一杯になっているはずだ。防犯カメラの設置に腹を立てるのもこうした人たちだ。何も間違ったことをしない人たちでも、親に束縛されながら育った人たちは監視される場所で居心地悪くなってしまう。

 

本当の善人は、人の見ていない所で善行をする。本当の悪人は、人の見ている所でも悪行をする。人目のある所だけ、或いは特定の人に対してだけ善行をするのは偽善であり、その動機は承認欲求にある。

善人と悪人は判断の違いに過ぎない。しかし偽善は、他人を欺くという一点に於いて善人と悪人の両者よりも悪質である上、欺瞞という悪行をしていることさえ自覚しない。偽善者は、善人とは勿論のこと、悪人とも天と地ほど違うのだ。